4
隣に座ってお茶の準備をするリュクレスは、ヴィルヘルムの視線に気づいていないのだろう。
手元に視線を下ろしたまま、ティーポットを手にする娘の表情はいたって真剣だ。
その面立ちは愛らしいが、以前よりもまた女性らしくなってきたように思う。
体つきも生活が整ったせいか柔らかさを取り戻し、身長も少し伸びたようだ。
ヴィルヘルムは時折、彼女のほんのりとした色香に誘われ手を伸ばしそうになる。
今も、その誘惑を苦笑で、内に収める。
丁寧に用意しているのがわかるのに、彼女のその動作は感嘆するほど手際が良くなめらかだ。
ポットにお湯が注がれると、ふわりと、花のような清涼感のある香りが広がった。
「爽やかな香りですね」
「あ…苦手でしたか?」
少しだけ心配そうにリュクレスが顔を上げる。
変わった匂いだとは思うが嫌だとは思わなかった。
「いいえ。どんなお茶か楽しみです」
「気に入ってもらえるといいんですけど」
遠慮がちにそう言って、リュクレスは時間を確認すると、カップにお茶を注いだ。
琥珀色の液体が濁りもなく綺麗にカップの中で円を描く。ゆるく白い湯気が水面から立ち上った。
差し出されたお茶に口を付けるヴィルヘルムを、リュクレスがまるで試験を受ける学生のような面持ちで見つめている。
彼はそれが可笑しくて、思わず口元を緩めた。
口に含んだ紅茶は少し酸味があってあっさりと飲みやすく、とても優しい味がする。
「おいしいですね」
素直にそう感想を伝えれば、リュクレスが邪気のない笑みを浮かべて喜ぶから。
また、誘惑に負けそうになる。
カップで手が塞がっていてよかったと、こらえ性のない自分に呆れそうだ。
そんな葛藤を微塵も感じさせずに、リュクレスの笑顔を受け止め、ヴィルヘルムは紅茶の香りを楽しむふりをした。
「君はお茶を入れるのも上手なのですね。専任の侍女を用意していなかったから困ることもあるかと思ったのですが、これでは侍女いらずかな?」
「トニアさんがすごく親身になってお世話してくれるので何の不自由もないですよ。今のままでも十分すぎるくらいです」
慌てたように手を振るリュクレスはやはり傅かれることには慣れないようで、使用人達にも相当に遠慮がちだ。囮をしている時には役柄上「様」扱いにも我慢をしていたようだが、今は言われるたびに「様はやめてください」と居心地悪そうに訂正しているとトニアが微笑ましそうに言っていた。ちなみに彼女は、いつものおっとりとした有無を言わせぬ笑顔で、「慣れてくださいね」とリュクレスを説き伏せたと言う。
控えめで少し天然なところのあるリュクレスを、トニアはやんわりとした押しの強さで、なんとなくいつの間にか、という感じで上手く丸め込んでいるようだ。
そろそろリュクレス付きの侍女を用意しようかと思ったが、このままトニアに任せたほうが、気兼ねをさせずに済むかも知れない。出来ることは自分で何でもやりたがるリュクレスには、入浴の手伝いを嫌がったときに折衷案を持ち出した、トニアのような柔軟な対応が出来る女性の方が、気詰まりを感じずに過ごせるようだから。
空になったカップをソーサーに戻し、ヴィルヘルムはあらたまって真面目な顔になった。
オルフェルノを囲む周囲の状況は少し落ち着きを取り戻しつつある。
スナヴァールは爛熟した果実の様に退廃しており、しばらくは自国の立て直しに集中するだろう。他国へ何かを仕掛ける余力はないはずだ。
そんな中で、ヴィルヘルムがひとつ気にかけるのは、マリアージュという女性のことだった。コードヴィアさえ捕縛できたのに、彼女だけは捕らえることが出来なかった。
姿を消した彼女は、スナヴァール王の元に戻っていない。
だが、天性の魔性の女はきっと何処かで男を誑かしのうのうと生きるに違いない。
何処で生きようとヴィルヘルムには興味がないが、リュクレスへの執着を捨てていないのであれば、捨てておけない。
秘密裏に彼女の探索は続けさせている。
リュクレスの父親は拘束されており、罪状から極刑は免れないだろう。となれば、彼女を脅かす影は目下のところマリアージュだけだ。
ヴィルヘルムは、怖がらせたくない反面、無防備なリュクレスが心配だった。
「マリアネラというあの侍女が裏切り者でなければそのまま君に付けたのですが…彼女は、まだ見つかっていません。まだ、君を狙っているかもしれない」
警戒を怠らないようにと告げると、リュクレスは少しだけ何かを思い出すような遠い目をして、それから、首を振った。
「きっと、マリアネラさんはもう、姿を見せない気がします」
断言するようなその言葉に、ヴィルヘルムは怪訝な顔をする。
明確な理由があるわけではない。だから、うまく説明できるかと言われれば難しいのだけれど、と首を傾けるリュクレスは、己の中の曖昧な感覚をたどたどしい言葉にして口に載せた。
薬の副作用と熱でぼんやりとした意識の中。
……思い出せるのは侍女をしていた時のような優しいマリアネラだった。
薬を使うことは決してやめないのに。
頭を撫でる優しい仕草。
何度となく囁かれた言葉。
「貴女は…幸せになる?」
それは、幸せになって、と聞こえた。
そう、と言って微笑んだマリアネラの瞳には理性と親愛が宿っていた。
狂気と、姉の様な優しさと。
それは彼女の中で隣り合って存在していたのだろう。
彼女は幸せを探して、見失って、幸せが何かわからなくなってしまった。
きっと今も幸せに手を伸ばしているのだ。
何が幸せなのか、わからないまま。
彼女はリュクレスを壊そうとしたけれど、反面、必死で守ろうとしていたのかもしれない。
「君は…もう少し恨みに思っていてもよいでしょうに」
嘆息するヴィルヘルムはそう言いながらも、どこか諦めているようだ。生ぬるい笑みは最近よく見せる気がする。
「君の性格は流石に把握しました。執念深さなどとは無縁だということもね。すぐ許してしまえるその寛容さを好ましいとは思いますが、心配する側としては少し焦れったいですね」
守ると言ってくれた日から、ヴィルヘルムはリュクレスの心さえも守ろうとしてくれるかのように、傷つかないよう、大切にしてくれている。
たくさんのことをしてくれているのに、ヴィルヘルムはそれでも足りないと思っているかのように心配を、その顔に浮かべるから。
そうではないのだと伝えようと、リュクレスは言葉を探した。
「ええと。…だって、ヴィルヘルム様が私のために怒って、心配してくれるから。私は、嬉しくなって、怒っていられなくなるだけで。全然寛容なわけではないと思いますよ?」
真実思っていることを口にすれば、男は微笑んだ。
困ったような表情に見えたのは気のせいだろうか。
大きな手が少し伸びた髪を梳いて、ひと房掴み取る。
寄せられた唇が、そこに落とされるのを近い距離で目の当たりにして。
男の表情に、
その仕草に、
リュクレスの心臓が大きく跳ねて、ぼんっと顔が熱くなる。
耳まで赤くしたリュクレスには、「仕返しです」という、ヴィルヘルムの言葉の意味はわからない。
無意識に心臓の上に手を置いた。
気が付けば彼の行動を目で追って、微笑みかけられれば胸が踊り、顔が火照る。
憧れの人の傍は、暖かいのに、なんだかとても心臓に悪い。
無意識か、作為的か、あんな接触は心臓が壊れてしまいそうになる。
ヴィルヘルムは、動揺するリュクレスからそっと身体を離すと、今度は子供にするように頭を撫でた。
「振り回されるのは性に合わないのですが、君には負けてばかりです」
振り回されているのはリュクレスの方だと思うのに、ヴィルヘルムの表情にからかいの色はなくて。
首を傾げつつも、なんだか謝らなければいけないような気がした。
「ごめんなさい…?」
疑問符入りの謝罪の言葉に、ヴィルヘルムは柔らかく微笑む。
「ふふ。謝罪は要りませんよ。でも、そうですね。お願いですから、私の眼の届くところに居てくださいね?」
灰色の瞳が憂いを浮かべ、気遣わしげにそう囁く。
…応じたい。
けれど。
リュクレスは少しだけ笑って、その答えをはぐらかした。




