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深い蒼天に、白い入道雲がこんもりと空に浮かんでいた。
足早にやって来た季節は、空を夏色に染めている。
眩しい太陽の光を手で遮り、リュクレスは空を見上げた。悠々と空を舞うのは鷹だろうか。
高い森の木々のそのまた上を、鳥が流れるように飛んでゆく。
気持ちよさそうに見えるのに、「あれは偵察ですよ」と、風情もなく事実を伝えるのは冬狼将軍その人だった。
振り返り、長身の美丈夫を見上げる。
視線が合うと、彼は灰色の瞳を柔らかく細め、それから鳥の姿を追って空を見上げた。
「侵入者を捉える鷹の眼です。彼らは優秀な警備隊ですから」
「…森を警備するんですか?」
周りの黒い森を見回して、そう言えば王の所有地だと言っていたのをリュクレスは思い出した。森の管理の一環かと、首を傾げれば、ヴィルヘルムは視線をリュクレスに戻し、まじまじと見つめる。
何かおかしなことを言っただろうか?
「ああ、君は…」
リュクレスは不思議そうにヴィルヘルムを見返す。
彼は少しだけ苦笑した。
「いえ、説明していませんでしたね。この森を越えるとすぐ、湖があります。その中央に王城があるのですよ」
リュクレスは直轄地アズラエンの地理に明るくない。王都ヒュリティアや王城の位置どころか、今いる自分の居場所さえ把握できていない。だから、そんなに近いところに城があるということにまず驚いた。
ヴィルヘルムが指さす方を見て、目を瞬かせる。
木立は高く、森が深いから、此処からは城の塔は確認できない。
見ることの出来ない黒い森の壁の向こうに、リュクレスは湖を探すことを諦め、ヴィルヘルムに訊ねた。
「お城が、湖の真ん中にあるんですか?」
純粋な好奇心に抗えず、興味津々なリュクレスに、ヴィルヘルムが微笑む。
「ええ、湖の上に浮かぶように立つ城は、武骨ですが、美しいですよ。王城の名はスヴェライエ、湖の名前です。雪化粧した王城が私は一番好きですが、夏の空を映した湖もなかなかに素晴らしい」
空の色が深いこの時期は、鏡のように湖面が空を写し取って、青く空色に染まる。
「私には見慣れてしまったものですが、君の目を楽しませることは出来そうだ。怪我が治ったら、見に行きましょうか」
さりげなくリュクレスの身体を支えて、思いついたように提案した。
青い空と、湖と、王城。
一枚絵の様なその風景をリュクレスは思い描いた。
その、とても綺麗な景色を。
「そのためにも、無理せず怪我の治療に専念してくださいね」
「えへへ…すみません」
心配性な将軍はちゃっかりと苦言を忘れない。
「無理せず」の所につけられたアクセントにリュクレスは首を竦めて、誤魔化すように笑った。
両手に持つ2本の杖で身体を支えながら、とんとんとその場で小さく飛び跳ねる。
左足だけで、器用に行われるそれは右足へ響くことはなく、表情を変えることもない。
「でも、時々は歩かないと、怪我してない方の足も衰えるから。杖で右足は付かないようにしてるので大丈夫ですよ?」
「多少歩くだけなら、そうでしょうけれど。さっきみたいに座ったり立ったりの繰り返しは右足を付かなければ行えないですよね?」
…花壇の花を摘んでいたのを、見られていたらしい。
彼らが立つのは花壇と、栽植に飾られた庭のほぼ中央に当たる。
綺麗に咲く色とりどりの花の中に、小さな蕾が混じる。
青白くまだ硬い蕾は、わずかに先端を開き、綻びを見せている。満開は近い。
リュクレスはばつの悪い顔で、ヴィルヘルムを見上げた。
その整った容貌は心配そうな表情を隠しもしないから、大丈夫と押し通すことが難しい。
「この庭は君の好きにすればいいと確かに言いましたが。その怪我でお花摘みもないでしょう」
「…蕾のままの花が欲しかったんです…」
「蕾の花?でしたら、誰かに頼めばいい」
「それじゃあ、意味がないですよ」
リュクレスは困ったように笑った。
足元に置いたままの籠には小さな蕾と、葉や開いた花も籠にこんもりと入っている。
リュクレスが思いついて行おうとしたことだから、誰かに頼む様なことではない。
「本当に無理はしていないです。立ち上がる時も気を付けてるので」
これ以上誰かに迷惑を掛けたくない気持ちを、理解してもらいたいが言い出せない。
リュクレスの目は雄弁だと、彼らは言う。
今も、リュクレスの思いは言葉にしなくても、どうやら通じてしまったらしい。
溜息を洩らして、折れたのはヴィルヘルムの方だった。
地面に置かれた籠を持ち上げ、仕方がなさそうに緩く笑う。
「…秘密でなければ教えてください。蕾は何に使うのですか?」
「ここにある花で、ポプリを作ろうかなぁって。掛け合わせれば、疲れをとって、よく眠れるようになる効果を持つんです。お世話になっている皆にと思って…」
語尾が消えていくのは、ただの自己満足だとわかっているからかもしれない。
なにかお礼をしたいと思ったのに、リュクレスにはできることがあまりに少ない。
窓越しに見た花の鮮やかさに、思い立ったのだ。
夏の花は匂いが爽やかで、重くない。特にリュクレスが作ろうとしているのは男性でも女性でも使いやすいものだ。
ポプリのレシピは口伝で伝えられる複雑なもので、同じ花でも配合が異なれば、効果も変わる。このレシピはリュクレスも大好きで、よく、ラジミュールと一緒に作っていたものだ。
リュクレスの好きなものを皆にもお裾分けしたい。
気持ち程度のことしか返せないけれど、これが今の精一杯だ。
…母のように慕うあの人は、元気だろうか?
不意に思い出いだされてしまった、あの厳しいけれど、優しく慎ましやかな笑み。
懐かしさに一瞬胸を詰まらせて、リュクレスは、ゆっくりと息を吐いた。
「…とても…良い香りになるんです。出来上がったら、ヴィルヘルム様も受け取ってもらえますか?」
押し付けがましいかなと、思わないでもなかった。
だが、浮かんだ不安は、彼の優しい笑みに払拭される。
ほっとしたリュクレスに、彼は籠を少し持ち上げてみせた。
「まだ、蕾は必要ですか?」
「いいえ。もう十分です」
「では、室内に戻りましょう。邪魔はしませんから、どうやって作るのか、教えてください」
「ヴィルヘルム様に、ですか?」
驚いて聞き返せば、ヴィルヘルムはにっこりと笑って頷いた。
「ええ。ポプリだとか香水というものは買うものだと思っていたので。作る過程に興味があります。ぜひ、ご教授を。リュクレス先生?」
意外なその言葉に目を丸くするリュクレスに向かって、茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せるその姿は冬狼将軍の厳しさはない。
その柔らかい仕草と表情につられるように、リュクレスもくすくす笑う。
「はい。少し時間はかかるけど、簡単なんですよ」
両手で杖を突きながら、籠をヴィルヘルムにお願いして、リュクレスはゆっくりと屋敷の中へ向かった。




