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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
一部  恩返し
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35



泣かせて、泣かせて、吐き出させるばかりで、今にも逃げ出しそうな娘を捕まえて、

「少し、話をしましょうか」

そう言ったのは、ゆっくりと彼女の嗚咽が収まり始めたころだった。

調べて知ったこと、この屋敷に来てからの娘の事ならば知っている。だが、彼女が自身のことを語るのを、ヴィルヘルムはあまり聞いたことが無い。

「掴まっていてくださいね」と、首に手を回させて抱き上げると、寝台から離れ、彼女の気に入っていた窓際の真新しいラグの上にゆっくりと下ろす。天蓋の影の中ではなく、柔らかい日の光の中で、乳白色のラグの上、白い寝衣の娘はまるで真珠の様だ。

「…ぽかぽか、ですね」

囁くような声は、少しほっとしたように和らいだ。涙は自然に止まったらしい。

準備されていた洗面用の器に水差しから水を注ぎ、浸したタオルを絞って、リュクレスの手に乗せる。

「どうぞ。顔を拭いて、少し冷やすと良い。…顔がすごいことになっていますよ」

からかい混じりに伝えれば、リュクレスはポンと耳まで顔を赤くしてタオルで顔を隠した。

実際の所、ぽってりと腫れて赤みがかった顔は酷く可愛らしいものであったけれど。

「あ、りがとう、ございます。冷たくて、気持ちいいです…」

顔を隠したままの恥ずかしげな娘のその行動と、それでも忘れることの無い感謝の言葉は笑みを誘う。

「どういたしまして」

今までになく穏やかな気持ちで、ヴィルヘルムは微笑した。

この屋敷から出れば、殺伐とした残務処理が残る。王暗殺に加担した者達への処罰、コードヴィアの処刑とその後の処理、スナヴァールとの交渉、ラグリアとの条約締結、そして宮廷内の官僚の刷新。

張りつめた気持ちが、彼女の傍では自然に和らぐ。

隣に座り込み、立てた左膝の上に肘を置き、頬杖を突いた。

沈黙は重くなく、ただ無言でリュクレスの様子を見つめる。顔は隠されたままだが、さらりと下りる黒髪は肩に流れて出会った頃より少し伸びていることに改めて気が付く。器用な彼女のことだ。前髪は自分で切り揃えているのだろう。

華奢な身体は相変わらず軽く、細い。

足首に巻かれた包帯が緩んでいるのを見つけて、後でやり直そうかとゆったり考える。

用意のいい従者は、足の怪我の処置の一式も怠ることなく部屋に準備してあった。

「…あの、お仕事は…?」

「今日はお休みです。言ったでしょう?君と少し話したいと思ったので」

「お話…?」

ようやくタオルを剥がした娘は、小首を傾げた。顔の赤みは取れたが、流石に顔のむくみは取れず、泣き止んだ名残は赤くなった目尻にも残る。温くなったタオルを受け取ると、もう一度水を張った器に戻し、冷たい水で冷やしてからタオルを絞ってもう一度リュクレスに渡した。

「君のことが聞きたい」

「私のことですか?」

「はい。君が話してくれるなら、どんなことでも構いません」

「何でも…ですか…」

「ゆっくり考えていてください。その間に、包帯を変えましょう」

いつもはソルが行っていることのため、ヴィルヘルムがその怪我を実際に見るの初めてになる。まさかヴィルヘルムがそんなことまで甲斐甲斐しく世話を焼くとは思わなかったのか、リュクレスは慌てたようにその手を押しとどめようとする。が、か弱い抵抗など、あっさり封じて包帯を解いた。

まだ腫れあがった足首は青黒く変色し酷く痛々しく、まだ熱を持っている。新しく準備された薬草の湿布を足首に貼ろうとして、その踵に走る白い傷跡を見つけた。

「この古傷は…」

「…7年前、私はリドニアレールに住んでいたんです」

ノルドグレーン領都リドニアレール、それは惨劇の街。

スナヴァールとの戦場となった街で、リュクレスは母を亡くした。情報としては知っていたが、そうか。

ヴィルヘルムはリュクレスの顔を見つめた。

「君はノルドグレーンで…あの戦場にいたのか」

「はい」

少し悲しげな顔をして、何かを堪える様に娘は両手でラグの表面を握りしめる。

娘の右足首に斜めに走る傷跡はすでに白い瘢痕となって生々しさはない。けれど、その大きさに、歩き出しが遅かった理由がソルの言うとおりだったと悟る。

楽しい話ではないですけど…困ったような顔をして。

短い沈黙の後に、リュクレスはぽつぽつと語り出した。

「…突然、でした。覚えているのは馬の走る音と、あっという間に火に包まれた、街。皆慌てて逃げたけれど、たくさんの人が泣き叫んでいたのが耳に残っています。皆怯えて、逃げ惑っていたから、人の波は酷く荒くて。いつの間にか、母と繋いでいた手が離れてしまっていた…。逃げ遅れたんだと思います。気が付いたら、馬に乗った人に追いかけられて、走って、走って…しばらく追い回されて、それから剣先で足を引っかけられました。すごく痛くて、動けなくなって。倒れ込んだ頭の上に剣が振り上げられて…太陽の光にその剣が、血で赤いんだって気が付いたら、怖くて…目を、瞑ったんです」

恐ろしい経験だっただろう、思い出に硬くなっていたリュクレスは、しかし不意に表情を和らげた。

そして、ヴィルヘルムの方を向いて、微笑んだ。

「でも、いつまでたっても、それは振り下ろされることはなかった。代わりに、とても暖かい腕が私を掬い上げてくれました。『良く生き残った』って…」

狂乱の中、人々は逃げ戸惑い、生きながらに焼かれ、また煙に巻かれ死んでいった。

ノルドグレーンの領主の街は壊滅的な被害を受け、多くの者が虐殺された。リュクレスの母もその犠牲となっている。少女自身も、その犠牲になろうとしていたのだ。

恐怖は少女の中にある。それでも、その思い出は恐ろしいだけのものではないのか。

彼女は凛として柔らかく、伝えるべき言葉を差し出した。

「あのとき、ヴィルヘルム様が私を、助けてくれました。こんな風に直接言えるとは思っていなかったけど、ずっと、思っていた。ずっと言いたかったんです。…私を、大切な故郷を、大切な人たちを守ってくれて、ありがとうございました」

ようやく、届けることが出来た。

その言葉は真摯な想いを響かせて、ひたむきに素朴な思慕と感謝を伝えた。

言葉に乗せて伝えられるのは、国の守護者に対しての純粋な感謝。

淡い藍緑の宝石のような瞳が伏せられ、ゆっくりと、座っているラグに前髪が付くほどに深々と頭が下げられた。

その姿に、微かに顔を歪める。

男の中に湧きあがったのは漠然としたもどかしさだった。

彼女らを守ろうと動いたわけではない。

領土を侵されるわけにはいかないから、戦いに赴いた。

王の、国のためだ。

ただ、ヴィルヘルムは将軍として戦場で目の前にあることを終わらせただけに過ぎない。

結果、彼女らを助けるに至っただけで、そこに人道的な思いはなく。

全員を助けられた訳でもない。現にリュクレスの母親は守れずに、死んでいる。

騎士道精神にあふれているわけでもない。冷酷無比と言われる自覚はある。

細く白い足首に不似合なその傷跡を指でなぞれば、リュクレスは驚いたように身体を震わせ、頼りない瞳で見上げてくる。

光しか映していない両眼はヴィルヘルムを捕らえない。それが、また、もどかしい。

煌く宝石のような瞳。

ほんのりと色づく頬。

無防備な唇が、ヴィルヘルムの名を紡いだ。

目の眩む様な想いが湧き上がる。

その声に何かが自分の中で崩れ落ち、身を焼く苛立ちに抗うことを止めてしまえば、…引き寄せられるように彼女に触れていた。

己の手のひらは桃色に染まる頬を包み、唇はその吐息を塞いだ。

ただ、触れるだけの接触。

見えていない娘には何が起きているのか、理解できてはいないだろう。

けれど慣れない接触に、淡く薄紅に染まる肌。

その面立ちはまだ幼さを残しながらも、咲き誇る前の蕾のように愛らしく。

触れ合えるほどの距離で、見下ろす角度から露わになるデコルテのラインが男を誘う。

無意識にヴィルヘルムを誘惑する、蠱惑的なアンバランスさに。

細い肩、華奢な身体に抱く庇護欲とは矛盾する、征服欲。

『この娘に魅かれている』

その意味を、単純に己の想いを認めてしまえば、焦燥の意味も氷解する。

愛おしく、真っすぐな人柄に魅かれ、守りたいと思った庇護欲は、情愛からくるものじゃない。

それ程穏やかな感情ではなく、時に狂おしいほどの熱を持って身を焦がす。

慰める様な触れ合いや、子供を愛おしむ様な包み込む抱擁で誤魔化すことは、もうできない。

名を付けずに、見て見ぬふりをし続けてきた感情。


これは、恋情だ。


泣かせたくない思いは本当なのに、藍緑の瞳から落ちる涙が真珠の様に美しく、魅了されたのは恋に落ちていたからか。

自分の名を呼んでもらうだけでは、足りない。

リュクレスに対する独占欲はだんだんと膨れ上がるばかりだ。

藍緑の瞳に映るのは自分でありたい。

あの心ごと、全てが欲しい。

彼女を手に入れたい。

そして、手に入れると決めたなら。

ヴィルヘルムに迷いはない。





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