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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
一部  恩返し
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3

馬車は街道から森へと道を逸れ、黒い森へと入ってゆく。

暗くなった外をリュクレスは窓越しに覗いた。

高い木立が木漏れ日を遮り、ほの暗い森の中は遠くの方まで見通すことは出来ない。せめてと、馬車の走る道沿いに目を凝らせば、密集して伸ばされた枝は、雪すら遮るようだ。重さに耐えかねて塊となった雪が所々に落ちて積もってはいるが、大地はむき出しのまま、木々の根元には苔がびっしりと生い茂り、同じ森の中でも、リュクレスの知る里山とはまるで違う光景だった。

少し水の匂いがする。

何処かに水辺があるのだろうか?

暗闇で不安を掻き立てられないのは、鳥のさえずりが聞こえるからだ。車輪の走る音にかき消されるが、頭上では動物たちが枝を揺らし、雪を落とす。

深い森。

(こんなところに将軍様がいるの…?)

行き先が、ルウェリントン子爵のところでないことには、素直に安堵している。

正直、リュクレスは母を苛んだ男に、会いたくはなかったから。

だが、暗赤色の眼の男が言ったことが頭の中で反芻され、不安が胸の中に滲む。

英雄と謳われ、尊敬を集める将軍が、人を駒として道具の様にしか見ていないかもしれないという不安。

…だが、実際に命を救われたリュクレスにはどうしてもそれが信じられない。

見捨てることも、捨て置くことも簡単だった戦場で。

彼はちっぽけな子どもをその手で助け守ってくれた。

それは、ただの気まぐれだったのかもしれない。それでも、平民だからと命を軽く扱っているようには思えなかった。

冬狼将軍が、ルウェリントン子爵と同じように、容易く人を踏みにじることが出来るなどと、信じたくない。振り払うように頭を振る。

「やめよう、考えてもしょうがない」

男はリュクレスのことを駒だと言った。

将軍はこんな小娘がどんな役に立つと思っているのだろうか。

将軍の役に立つことが、出来るのだろうか?

今まで、逢えるとは思っていなかった恩人に、心の中で繰り返していた感謝を直接伝えることが出来るなら。

唐突に、窓から光が差し込みリュクレスは顔を上げた。

沈み込む思考を引き上げるかのような、陽光。

森は切れ、そこには箱庭のような庭園が広がっていた。

華やかというよりは、朴訥とした小さな風景画のような景色。

馬がゆっくりと速度を落とし屋敷の前で歩みを止める。

馬車の扉が開かれると、そこにはいつもの男ではなく、褐色の肌に黒曜石の瞳と黒髪が印象的な、すらりとした青年が立っていた。

「ようこそお越しになられました」

彼は視線が合うと、綺麗な所作で一礼し、リュクレスに手を差し出す。

おずおずとその手を取ると、彼は強引にならないよう馬車から降りるのを誘導した。慣れない高い踵の靴に、足取りが不安定なことを把握しているかのような、的確な支えに、転倒という醜態を晒すことなく、地に足を付く。

ほっとするリュクレスから、一歩後ろに下がると青年は、今度は随行の男に向かい丁寧に礼をした。

「ご苦労様でした。お嬢様はこちらでお預かりいたします」

慇懃な態度で、しかし言動には有無を言わせぬ威圧感を含む。言外に匂わす帰還の命令に、男はにやりと笑って返す。

「ドレイチェク伯に直接お渡しするようにと主に言われているのでね。このまま帰るわけにもいきませんよ。閣下はどちらに?」

「将軍はこちらには居らっしゃいません。私はアズライド家に仕えるもの。ここには将軍からの献上品を受け取りに参ったのです。…意味はお分かりですね?」

王の庭である黒い森に隠された離宮で、その家名を語ること自体、彼が王家の使用人であることを物語る。

男は、口元の笑みをさらに深くして、なるほどと呟いた。

「私が思うより、将軍閣下は好色であくどい方らしい。なるほど、王に与えるか」

細やかな毒舌は、意図的に青年にのみ届けられる。

「言葉を慎んだ方がよろしいのでは?」

窘めるような言葉を放ちながら、そこに感情を伴わない相手に、リュクレスを連れてきた男はこれ以上の腹の探り合いは無駄だと判断し、軽く敬礼する。

「これは失礼いたしました。そういう事ならば、私はこれで失礼しましょう」

軽い足取りで、馬車へと向かう。

すれ違いざま、彼がリュクレスに与えたのは、澱のような嘲笑。

それはリュクレスの耳に残り、背中を冷たく凍らせる。

男は御者台に素早く乗り込むと御者に命じて馬車を出す。

少女を置いて、馬車は去ってゆく。

「…こんなところに長々といては、風邪をひきます。どうぞ中に」

蒼い顔をして馬車を見送っていた少女に、青年は先ほどと同様に手を差し出した。

居竦む身体はまるで自由が利かない。リュクレスは途方に暮れたように、その手を見て、それから顔を見上げた。青年の持つ褐色の肌はこの国では珍しい。歳は20代半ば頃だろうか。精悍な顔立ちに宝石のような黒い瞳がとても美しいと思う。…リュクレスは一度だけ見たことのある黒い獣を思い出した。俊敏でしなやかなで黒曜石の瞳をきらと輝かせた、気高い獣。

彼は、不安げな眼差しで固まったように動けないでいる少女に、少しだけ迷ったような顔をして、それから。

一声かけてから小さな手を取る。

ゆっくりとした足取りで、ぎこちない動きを助けるように屋敷の中へ案内する。

焦らせることもなく、一歩一歩慎重にリュクレスを支え、導いてゆく。



ぱちぱちと暖炉の火が部屋を暖めていた。

通されたのは応接間だろうか、高級そうな家具や調度品に囲まれ、天鵞絨地のクロスは部屋の中を品良く飾る。座る様に促され、腰かけたソファはとても柔らかく身体を受け止めてくれる。それなのに、沈み込む身体は不安定な己の心の中そのものだ。

ずぶりと泥濘にはまって出られないような感覚。

居心地悪そうに小さくなると、床から浮いた足、慣れない靴をみる。たぶん、一人では立ち上がることもままならない。

自分の事すら人の助けがないと出来ず、自分が居る場所も、これからどうなるかさえ、わからない。何とも宙ぶらりんで頼りない状態。

…献上ってなんだろう。

子爵の元でもなく、将軍の元でもなく、今度はどこへ行けと言われるのか?

「はい、どうぞ」

まるで遊戯盤の上を転がされているかのようで、先行きは見えずに不安は膨らんでいく。

白くなるほど握りしめた拳の上に、差し出され、乗せられたもの。

それは繊細で小ぶりなティーカップだった。

仄かに香る花の匂い。

温かそうな湯気の立つコップを見つめて、それから、渡してくれた青年を見上げる。物静かな青年は、「冷めないうちにどうぞ」と、一言勧めるだけ。促されるまま、受け取ったコップに口を付ける。柔らかいお茶の風味と、その温かさに少しだけ肩の力が抜けた。

「おいしい…」

思いもかけない優しさに、リュクレスは戸惑う。

修道院を出てから、そんな優しさに触れることなく、緊張を強いられていたから。

「お口に合ったようで何よりです」

やんわりと返される言葉。

献上品という言葉を使った時には冷たく響いた声色も、今はそれ程硬化して聞こえない。

まるで、リュクレスの不安を慮るような、柔らかい口調。

その瞳が気遣う色を隠しているのに気が付いてしまった。

…ようやく、周囲を見回す余裕が出てくる。

そういえば、青年の厚意にお礼も言わず、初対面の挨拶すらしていないことに気が付く。

「あ、あの、お茶もですが。さっきも支えてもらってありがとうございました。私は…リュクレスと言います」

本当は置いてするべきとわかっているものの、その温かさが離しがたく、大切なものを抱くように両手でコップを包む。そのまま頭を下げた。

「貴女の名前でしたら存じ上げています。私はソルと申します。家令…とでも思って頂ければ構いません」

苦笑じみた口調に、リュクレスは懐疑を抱く。

「…知られているのは名前だけ、なんでしょうか?」

少女の洞察力の鋭さにソルは瞠目する。だが、誤魔化しは必要無いように思ったのか、彼は素直に頷いた。

「いいえ。貴女が何処で育ち、どのような経過を経て今此処に居るのか、大よその情報をこちらは、正確に把握しています」

孤児であることも、作られた身分であることも全て知られている。

それは、嘘が苦手なリュクレスにとって安堵を与えるものだった。

「そうですか…」

少しだけほっとして、それからおずおずと青年を見た。

「…あの、私はこれからどうなるんでしょう?」

曇り空の様に胸を覆う不安を払いたい一心で、勇気を出して青年に尋ねる。

それは今リュクレスにとって、一番知りたいことであった。これにはソルは困ったような顔をして、首を横に振った。

「私からは詳しくお話しすることは出来ません。主人が来れば、その話にもなるでしょう」

「…ご主人、ですか?」

先ほど言っていたアズライトという家の主だろうか?

そう思っていたら、彼は思いもよらない名前を口にした。

「はい。先ほど貴女を連れてきた男が言っていたヴィルヘルム・セレジオ・オルヴィスタム・ドレイチェク辺境伯が私の主です」

「冬狼将軍様…」

自然と口を付く、英雄の名。ソルは少し微笑んで肯定する。

「はい。貴女達にはそちらの方が親しみ深いかもしれませんね」

「さっき、アズライド家という家に仕えていると言っていたのは…?」

「嘘も方便、というやつです。アズライドは王家の隠された家名です。その名を出せば、それ以上しつこく居残ることはしないと思ったものですから」

聞きたいと思っていても、言いにくい言葉に緊張で声が掠れる。リュクレスは、一口紅茶を飲み込むと、思い切って口にする。

「献上…という話は」

「…それに関しては偽りです。が、全てにおいてとは言い難い。そちらも私の判断で話すことは難しいのです。ただ、一つだけ言えるのは。貴女が本当に嫌がることを私の主人が強制することはないでしょう」

淡々とした話し声に混じるソルの誠意に、リュクレスは頷いた。

「わかりました。もう、聞きません」

「そうしてくれると助かります」

ああ、そうだ。もうひとつだけ。

リュクレスは、ここに来たときに思ったことを思い出す。

「ひとつ、教えてください」

「…私で話せる事であれば」

「私で、将軍様のお役に立つことは出来るのでしょうか?」

リュクレスはただの孤児の娘だ。何か特別なことが出来るわけではない。

認知される形で貴族に名前を連ねはしても、それこそ名ばかりのそれが意味を成すとは思えなかった。役に立たなければならないと思う…修道院の皆のために。けれど、本当に将軍への恩返しに何かしたいと思うのも事実なのだ。

だから、何も持たないリュクレスでも、役に立つことがあるのかそれを知っておきたかった。

真っすぐに、ソルを見上げる。彼は沈黙をして目を見開いた。

感情を持て余したかのような、酷く不安定な感情の波。それでも、彼はそれを押し殺し、物静かな口調で、答えた。

彼はリュクレスに嘘をつかない様に、してくれている。

だから、これも嘘ではないと信じられる。

「…貴女は、役に立てますよ」

「そう、ですか」

役に、立てる。

リュクレスは胸を撫で下ろし、ほんのりと嬉しそうに笑った。




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