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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
一部  恩返し
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暗く湿気た空気の淀む石牢に、男は居た。

ひんやりとした空気は、地下の石造りのこの牢が、水瓶のすぐ近くにあることを知らせる。


いっそ、毒でも持ってきていたならば、ばらまいてやるものを。


苦々しそうに、手が届かないほど高い位置にある、鉄格子の入った窓を見上げる。

暗い光を宿すその眼は淀み、いつもの理知的な輝きは精彩を欠いていた。

整えられていた髪は解れ、濁った眼差しと眼下の隈は疲労を漂わせる。

男の自由を奪うのは木組みの手枷だけだが、武人でない男にはそれだけで十分だった。

拘束され、虜囚として扱われることは、男の自尊心を甚だしく傷つけた。

自決も考えたが、「死人に口なし」とはよく言ったもので、生きている以上に死ぬことが、余計に状況を悪くする可能性は明らかだ。

そして。

己がいなければ、あの国は立ち行かぬ。

国も自分の解放のために外交努力を続けているであろうと考えると、安易に死ぬことなどできない。


カツン、カツン

ゆったりと響く足音は看守のものではない。

忌々しい男のものであると知っている。

コードヴィアは鋭い眼差しを、牢の入り口に向ける。

カツン、カツン

冬狼と恐れられる男は、口元に笑みを湛えそこに現れた。格子越しに立つその男はまだ若い。端整な顔立ちにすらりとした精悍な体躯は、軍人というよりも社交場で目にする貴公子のような華やかさを持っていた。暗い牢獄では狼色の髪も黒く染まり、灰色の瞳が硝子越しに柔らかく光を映す。落ち着いた佇まいに、何度となく戦場で会っていなければ、名だたる武人だとはとても思えない。

そんな雰囲気さえ、宮廷での擬態だと気が付けば、男を若いというだけで侮ることは到底できず、コードヴィアは自分の陥った状況さえ、この策士が作り上げた罠であったことに気が付かない訳にはいかなかった。

「平和条約の成立した後で、このような形で貴方とお会いすることになるとは、とても残念です。コードヴィア伯爵」

「……」

よくもぬけぬけと。睨みつけて粟立つような苛立ちを憎々しげにぶつければ、ヴィルヘルムはわざとらしいほど沈痛な面持ちを浮かべて、国家間の在り様を憂う。

「公に締結された条約がこのような形で反故にされるとは…残念でなりません。ようやく勝ち取った平和を乱されることを、王は望んでいない。こちらもそれ相応の手段を講じねばなりません。…他国も、貴公の国との契約が紙よりも脆いと知る事になるでしょう」

宰相補佐として多くの策略に他国を翻弄してきた男は、目を瞠った。

「他国との同盟のために…我が国を利用するか…!」

ふっと、将軍は笑みを漏らすと、初めて柔和な仮面を外した。

氷の様な凍てつく視線、余りにも整った造作が冷たく、冷酷無比な冬狼の本性を現す。

「内紛に乗じて仕掛けるような卑怯者に言われたくはない。介入の時期は流石だが、焦りは貴方の様な人でもミスを犯させるものだな」

「……」

無言でやり過ごすが、噛み締めた奥歯が鈍い音を立て、手枷が軋む音がする。

気が付いていないはずもない将軍は、悠然とした態で、後ろに一歩下がると、狭い通路の壁に凭れ掛かり腕を組んだ。

明かり用の松明がぱちりと小さく音を立て爆ぜる。空気の流れに、焔は揺らめいた。

「どこで気が付いた?私は完璧だったはずだ。お前の諜報部隊は私の動きを掴んではいなかった。お前の兵隊は何の準備もなく、その場を運良く乗り切っただけではないか…っ」

人を欺き、人を操って、男は列強最強と謳われた国の宰相補佐まで上り詰めた。情報の操作、利用ともに完璧だったはずだ。王の暗殺計画に便乗し、暗殺をする方とされる側、双方がお互いを牽制し合う中で、中央を一掃するための反乱の準備までは抜かりなく進んだはずだった。

それにも拘わらず、ことが済んでみれば、何と鮮やかに鎮圧されたことか。

「言ったでしょう?貴方はミスを犯したと。…貴方がスナヴァールに居ないことは、容易く知れました。以前であればありえないことです。情報管理の甘さは、国力の低下を意味する。信頼する情報機関が慢心ゆえに弱体化していることに、貴方は気がつかなかった。…国内に貴方がいないのであれば、何処にいて何をしようとしているのか、直接的に調べなくてもやり様はいくらでもあります。何が起こるか想定さえできれば、私が全てを指揮しなくとも、この国の者たちは誰もが国を守りたいと望み、動く。衰勢に向かう貴方の国では出来ないことが、この国では出来るのです。」

それは半分事実で、半分は虚言だ。けれど、故国の斜陽の眩しさに目のくらんだ男には、それが真実に聞こえた。

「…お前に動きがなかったのは…愛人だけでなく、お前自体も囮だったということか…!」

頷いて、冬狼将軍は薄く斬る様な笑みを浮かべる。

「私が危惧していたのはいつ襲ってくるかわからない暗殺者の影に常に警戒しなければならないこと。精神が削がれて集中力が欠如しますからね。いくら王とてその状態が長く続けば、隙を作る。直接対峙するならば、王を心配するに及びません。やりあった貴方達が一番わかっているでしょうが」

愕然と、零れ落ちる言葉を、男は丁寧に拾い上げる。

「離宮の愛人の元に通う王を襲撃しなかった時点で、貴方の狙いが『兵を率いて王が城を出る事』だと絞れました。スヴェライエの外で王を襲撃し、同時に手薄になった王城にそのまま反乱部隊を投入するつもりだとね。ですから、ある程度はこちらも準備させて頂きました。気が付きませんでしたか?見た目だけ整えた劣悪な品質の武器防具。名無しの中にひそかに潜入させたロヴァル。食料にも少々仕込んであります。無味無臭の筋肉を弛緩させる薬だとかね?」

「どこから、情報が…」

「貴方らしくない言葉だ。情報は中からばかりでなく、外からも入るものです。聞こえてこないということは、反対に誰かが情報を秘匿しているということ。そこが何処かと突いてみれば、案外欲しい情報そのものであることも多い。ご存じのはずでしょう?」

「何故わざわざ、私にそんなことを聞かせた?」

饒舌に語る男が、勝ち誇るためだけに手の内を晒したとは思えない。

冷ややかに、冬狼将軍は残酷な笑みを浮かべた。

「貴方への私なりの報復です。堪えたでしょう?」

情報操作で高みまで上った男が、情報戦で敗北した。

服の内側から羊皮紙を取り出し、彼はコードヴィアに見せつけるようにそれを開いた。

「スナヴァールで1、2を争う策略家の貴方を捕らえたとなれば、あの脆弱な王だけでなく、宰相殿もこれ以上この国に手を出そうとは思わないはずだ。故国は貴方を見捨てましたよ。今回の事は貴方の独断であると、スナヴァール国王からの信書です。」

オルフェルノ王国の領地内で、スナヴァールの重鎮が王暗殺の罪で拘束されたとなれば、旗色は一層悪くなる。

男の手に広げられた文書は見慣れた王の文字、そして王印―――

ぐらりと目が回る様な怒り、そして見捨てられたことへの、王へ失望。

男は獣の様に唸り声を上げた。怨嗟の声が石牢に響き渡る。

ぶつかる様に鉄格子に迫ると手枷を力任せに叩き付けた。格子の先に居る男に手を伸ばそうとするが、枷が邪魔をして格子の外へは届かない。

枷に擦り切れた手首から血が腕を伝う。格子を殴りつける度に血しぶきが跳んだ。


呪詛が口を衝く。それを冷笑でいなし、ヴィルヘルムは凭れていた壁から離れた。

大国は搾取のために多くの国を従えた。どの国も多くの犠牲を強いられた。その裏にいつも存在していた男、モルドーザ・グレゴリー・コードヴィア。

全てを燃やし尽くす太陽はいつか沈むのだということを頑なに認めようとしない男に。


「同じように多くの国の者達が貴方達に服従を迫られ、多くの者を失って呪詛を吐いた。

貴方は罪人だ。我が国でも他の国でも。呪いを吐く前に、呪われているのは貴方だと知るべきだ」

燃え盛る憤怒さえも凍らせるほどの酷薄さでもって、冬狼将軍は吐き捨てた。

これ以上、この男に用はない。

血走った眼に、理性がすでに危ういことを確認して、ヴィルヘルムはその場を後にする。

ヴィルヘルムの背を追いかける狂気の声は、牢を出るまで途絶えることはなかった。

王妃のためにも国内ではこの件は内々で済ませることとなる。

だが、男は死を免れない。

そして、死してからもなお、その屍は多くの呪詛を返されることになるだろう。


ラグリアという小さな国がある。

閉鎖的なその国とオルフェルノの同盟が正式に成立しようとしている。

同盟と引き換えにかの国が望んだもの。

虐殺の記憶を持つその国は、多くの恨みを漲らせて男の遺体を待っている。





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