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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
一部  恩返し
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30



どれほど時間か、落ちる沈黙は穏やかで。

けれど、腕の力強さに、眠りはなかなか訪れない。


「あの日、君が目を覚ますまで、ずっと傍にいたいと思いました」

彼は聞かせるでもなく、独白のように話し始めた。

あの日とは、リュクレスが助けられた日の事だろうか。

不思議そうに見つめるリュクレスに、ヴィルヘルムは変わらぬ口調で続ける。

「けれど、仕事を放棄することはできませんでした」

それほど簡単に翻すことが出来るものならば、人を犠牲にしようとは思わなかっただろう。ヴィルヘルムは言うほど冷酷な性格はしていない。逆に、囮にしたリュクレスを蔑ろにしないためにも、きっちり仕事は果たしてくれるはずだ。

だから、リュクレスはやせ我慢でなく、素直に頷けた。

男は痛まし気にそれを見つめ、けれどそれを声には滲ませない。

「ねえリュクレス?もう我慢しなくていいのですよ。全部、終わりましたから」

リュクレスの耳に、彼の声は逸らさせない強さを含んで聞こえた。

「…?」

「私が、君に我慢を強いたのだと、わかっています。でも、君は、助けを求めていいんだ」

その言葉に、リュクレスの頭の中で警鐘が木霊する。

胸の奥をぞろりと這う違和感。

せっかく本能に焼き付けたものを翻される危うい囁き。

「もう君を傷つける者はいない。私が傷つけさせない。リュクレス、だから、頼むから」

その先を聞きたくなくて、手を伸ばす。

ヴィルヘルムの唇の感覚が手のひらに触れる。

彼の口を塞いで、リュクレスは首を横に振った。

言わないで、聞きたくない。

せっかく、どうにか笑えるようになったのだ。…このままでいい。

手首をそっと掴まれ、その手は外される。

「リュクレス」

名を呼ぶ声に、首を振る。自分の耳を塞ごうとするのを、捕らえた腕は許してくれなかった。

聞きたくないと小さく体を竦める娘の耳に、ヴィルヘルムは残酷な程、一方的に想いを流し込む。


「俺に助けを求めてくれ。今度こそ、君を助ける」


リュクレスは呆然としたように目を見開いた。

冷たい涙が一筋、頬を伝ってこぼれ落ちる。

「違う…」

小さく呟いて、嗚咽もなく頭を振った。

頑是無い幼子のように頼りなく、ただ、受け入れることを拒んで首を振り続ける。ヴィルヘルムは、彼女を逃がそうとはしなかった。


助けを求めて。

まだ、笑えないなら、笑わなくていいのだ。

辛いなら、痛いなら、寂しいと感じていたのなら、そう言って、泣いて怒ればいい。

怖かったなら、手を伸ばせばいい。力いっぱい抱きしめる。

どんな思いだって受け止める。


ヴィルヘルムの思いは言葉で、温もりで、弱弱しく拒絶する娘へ注がれる。

どれだけリュクレスが要らないと言っても、ヴィルヘルムは容赦しなかった。

今、助けを求めては駄目なのだ。自分一人では立てなくなる。

全てを吐き出すには、吐き出すものが大きすぎる。受け止めきれないから、飲み込むしかないのに。

「君が頑固なのは知っている。だが、俺も相当しつこいぞ。そろそろ諦めろ」

ポンポンと優しい声音で頭を撫でるヴィルヘルムにとって、リュクレスは子供のようなものかもしれない。

それでも、彼はリュクレスを一人の人間として、その傷を一緒に背負おうとしている。

そんなのは違う。

そんなつもりじゃなかった。

自分が重荷になるなんて思っても見なかったのだ。

守るなんて言わせてはいけなかった。

リュクレスは、泣き続ける。涙は枯れることもなく流れ続け、嗚咽のないその静かな涙が、ヴィルヘルムの動揺を誘うとも知らず。

「リュクレス」

何度も男が名を呼ぶ。

彼が呼ぶと自分の名前が特別なものの様に響く。

リュクレスはヴィルヘルムの言葉に頷くこともできず、ヴィルヘルムはリュクレスをその腕から逃さない。その攻防はいったいどれほど続いただろう。

ヴィルヘルムは飲まれそうになるほど綺麗な藍緑を見つめた。

「俺は、君に負い目を感じてこんなことを言っているわけではないよ」

武骨な男の手が、零れ続ける涙を拭う様にそっと頬を撫でる。

「…君を助けようとするのは義務じゃない。俺自身が望むことだ。君が助けを求める相手は、俺でありたい。俺を思い出して、俺の名を呼んでほしい」

涙を流し続けたその疲労感はリュクレスの硬い殻を確かに脆くしたけれど。

頑なな思いは、彼の一途な言葉にこそ、揺らいだ。

「…よんでも、いいの?」

たどたどしい言葉は掠れて。

「呼んで。必ず助けに行くから」

それは、懇願。

静かに、けれど熱を持ってヴィルヘルムが希求するもの。

リュクレスは、ずっと欲しいと望んでいたものに、怯えながら、躊躇いながらも手を伸ばす。

それは絞り出すような、か弱い悲鳴だった。

「…ヴィルヘルム様…助けて…」

ふにゃりと顔を歪ませて、リュクレスはそのまま子供の様に声を上げた。

堰を切って零れ始めた嗚咽に、ヴィルヘルムは小さな身体を強く抱きしめる。

「大丈夫だ。俺は、此処にいる」

頼もしくて、力強い腕の暖かさに、その存在にリュクレスはただ縋り付いた。


あの時感じた、怖さ、痛さ、寂しさ。

辛くて、誰も助けてくれる人はいないんだと思い知ったときの絶望感。


全部、溢れそうになった。

止めようとしても、男がなけなしの我慢さえも崩すから。

壊れたように、ただ、泣いた。

真っ白な世界。何も見えないのに、決して一人ではないのだと、触れる手で、言葉で、吐息さえ感じる距離で、その熱で存在を知らしめる。

泣きつかれて、いつの間にか眠ってしまっても、もう悪夢は襲ってこなかった。









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