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陽の光が白く世界を染め上げる。
相変わらず、リュクレスの目は何も映してはくれないが、驚くべき手際の良さで綺麗に整えられた離宮には襲撃の跡はすでなく、以前の風貌を取り戻しているらしい。騎士以外は誰も怪我することなく、使用人も前のように揃っていると聞いている。
最初から知っていた者、襲撃の後に知らされた者共に、少女の安否を気遣い、ほとんどの使用人が率先してこの屋敷に戻ってきたという事実をリュクレスだけが知らない。
けれど、以前のように遠巻きにすることなく、接してくれる人の優しさがリュクレスには伝わるから以前よりも屋敷の中には穏やかな空気が流れていた。
ただ、部屋への訪問者は少ない。
まだ体力の戻っていないリュクレスが、少し話をするだけで酷く疲れてしまうのを気遣ってソルが面会制限を設けているのだ。
リュクレスは上半身を起こし、寝台に座り込んだまま、窓の方を見ていた。
彼女の身につけているものは白いコットンの前にボタンの着いた寝衣だ。周囲を囲むのが男性であることを配慮して、寝衣というよりは身体のラインを隠すふんわりとしたドレスのような作りになっている。胸元には淡い桃色のリボンの可愛らしいアクセント。
焦点の合わない瞳はぼんやりと、窓の方を向いていた。
医師の説明によると、2週間もすれば視力も戻ってくるということだった。
もう少し時間がかかるかもしれないが、失明することなく視力は戻ると言われたとき、リュクレスはとてもほっとして胸をなで下ろした。
早く目が見えるようになりたい。
自分のことくらい、自分でできるように。
今のままでは、いろいろと支障があるのだ。…本当に。
溜息と共に、数日前のやり取りを思い出して、リュクレスは顔を赤らめた。
「お、お風呂くらい自分で入りますっ…!」
あわあわと、焦った顔で自分の服を庇うと、呆れたような声が降ってきた。
「一人でなんて入れさせるわけないでしょう?目も見えていないのに」
「大丈夫です、出来ますからっ」
たった入浴一つで、こんな大事になるとは思わなかった。
リュクレスは途方にくれた顔で、そこにいるであろうヴィルヘルムを見上げた。
彼は、怪我をしているからか以前に比べ、過保護になったように思う。
だって、子供ではないのだ。
手は使える。身体を洗って拭いて、お風呂から出てくることぐらい、目が見えなかろうが、足を怪我していようが、出来ないことではない。
「移動だって這っていけば」
「却下します」
「ええ~~、何でですかぁ?」
提案をすげなく却下され、リュクレスはほとんど半泣きだ。
反対にひどく困った顔でヴィルヘルムが彼女を見ていることにリュクレスだけが気付けない。
周囲にいる侍女たちが微笑ましそうに苦笑しているなど、それこそ思いもしない。
表情が見えないから、ただ、聞こえてくるため息に、小さく肩を揺らす。
「危ないからに決まっているでしょう。一人で入っていて何かあったらどうするのです?」
「で、でも…」
「それに。今さらでしょう?彼女たちはもう、一度君の入浴を手伝っている」
「そ、それは…っ」
そういえば、そんなことがあったなぁとぼんやりとした記憶の中はある。
見知らぬ男の人に触れられた、其処かしこが気持ち悪かった。
だから、「お風呂に入りたい」とうわ言のように言い続けて、彼女たちの手伝いのおかげでその願いが果たされたときには、ほっとした覚えがある。
だが、その時とは違うのだ。意識もしっかりある。何が困るって、貧相な身体とはいえ、一応女の子なのだ。羞恥心というものがある。貴族と違ってリュクレスは誰かに入浴を助けられたことは…自分の意志が通らなかった例外の時だけだ。あれは強制的なものだったし、あの時でさえかなりの抵抗をした。
肌を晒すことに相当の抵抗があるのをわかってもらえないだろうか?
着替えすら、まだ手伝ってもらうことに慣れないのに。
身体を人に洗ってもらうなど、拷問に近い。
「まあまあ、ヴィルヘルム様。可愛いお願いではないですか。リュクレス様?」
「は、はいっ」
リュクレスは驚いて、しゃきっと背筋を正した。
宥めるように間に入ってきた声は年配の女性の声。今まではハウスキーパーに徹していた笑顔のとても優しい少しぽっちゃりした人だった。
「ヴィルヘルム様は本当に心配されているだけなんですよ?けれど、リュクレス様のお気持ちもやはりわかりますから。折衷案はどうでしょう?浴室に入ったら私どもは脱衣所に控えておりますから、終わったら呼んでいただく、というのではいけませんか?」
出来る限り、羞恥心に配慮して対応させていただきますから。
侍女の気遣いの言葉に重ねて、ヴィルヘルムから、「お願いですから」と言われてしまえば、リュクレスは頷くしかなかった。
…そういう訳で、入浴前後の手伝いをしてもらうことは一応の納得をしているものの、寝台から浴室までリュクレスを抱き上げて運ぶのをヴィルヘルム自らが買って出ているのはいただけないと思う。申し訳無さ過ぎて、涙が出そうだ。
食事にしても常に誰か傍にいて、困ったときにはさりげなく助けてくれる。
早く元の生活に戻りたい。…でなければ依存してしまいそうだ。
ずっと、此処に居られるわけでもないのに、此処はこんなに居心地がよい。
もうすでに、離れるときは辛いだろうと、そう思う。
「ふう…」
「さっきから、溜息ばかりですね」
「!…ヴィルヘルム様?」
こぼれたため息を拾われて、慌てて周囲を見回す。どれだけ、目を凝らそうとも、白い世界は誰の姿も映してはくれないが、わざと立てられた足音に、声の主の位置を把握する。
おっとりとした声はすぐ近くで聞こえてきた。
「ええ。寝ているかと思ってノックをしませんでした。少し不作法をしましたね」
「いえ、ノックに気が付かないことも多いので…今日は、どうしたんですか?」
「どう、とは?」
「あ、いえ、明るいうちに来られるのは珍しい気がして…」
言い終わる前に、あっとリュクレスは言葉を切った。
「…いつもは…寝ていましたか?私」
もしかしてと思って、確認したことはどうやら正しかったようだ。
僅かな沈黙後、ふと息を漏らしてヴィルヘルムは答えた。
寝台が少し揺れた。
ヴィルヘルムが寝台の端に腰かけたのだろう。
触れられる距離にヴィルヘルムが居ることに、思わず手を伸ばしそうになる。
「そうですね。良く眠っていましたよ」
いつもの穏やかな口調に、リュクレスはぎゅっと両手で拳を作った。
「溜息の理由はなんですか?」
せっかく手を伸ばさない様に握りしめた手を、ヴィルヘルムの大きな手が攫って行く。
指を這わされて、手を開かされる。爪の跡の残る手のひらをぽんぽんと撫でながら、彼はリュクレスの返事を待っていた。
「なんでも、ないんです」
言葉にすれば、それこそ情けなさが増すから。へらりと誤魔化すようにリュクレスは笑った。
「…そうですか」
ヴィルヘルムがその言葉を信じたとは思えなかった。けれど、彼は問い詰めることなく受け止めてくれる。
その優しさが心地よくて、何故か、ちりりと胸に小さな痛みが生まれる。
やっぱり、離れることを考えるだけで、…寂しい。
そんな弱音と心配ばかりかけてしまう申し訳ない思いを抱きながら、ふと、自分の手を包み込むその大きな手がいつもより冷たいことに気がついた。
(ヴィルヘルム様、疲れてる…?)
彼の声にほんの少し疲労感が滲んでいる。
ヴィルヘルムはちゃんと休めているのだろうか。
夜はいつも離宮に居てくれる。昼間は王城で働いているはずなのに、多忙な彼はいつもリュクレスの傍では気遣いを見せる。
この数ヶ月でリュクレスが知ることの出来た、ヴィルヘルムという人は。
英雄とか、将軍とか、そういう立派な肩書きのない彼自身は、…全部、ではないけれど、本質的にとても優しい人だった。
怖い人だと思ったのは、厳しい人だからだ。
人にも、自分にもとても厳しくて、それを笑みで隠すから、怖いと感じた。そして、貫き通す確固たる意思を持っていて、そのためにどう思われようと構わない真っすぐさを持った強い人。
真面目で、とても誠実で、でも少し意地悪で…本当は、灰色の瞳にとても魅力的な暖かい色を浮かべる、優しい人。
その低い声は柔らかく耳に馴染む。穏やかな口調はいつもと変わらないから。
冷たい手を温めるように握り返す。
「ヴィルヘルム様、なんだか疲れていませんか?」
心配は言葉になって零れ出した。
「いいえ?…心配には及びません。これでも軍人の端くれですから」
笑みを滲ませた声は、鷹揚にそう言ってさらりとかわそうとする。
「軍人さんでも、人間は疲れたら休まないといけないと思います」
見えない相手にそう言って、けれど多忙な人だと知っているから、リュクレスは我儘も言えない。でも、疲れている相手に少しでも休んでほしいと願ってしまう。
「忙しいのは知っています。でも、出来るなら。少しでもいいからどこかで休んでくださいね?」
切実な思いは、彼に届いたのか。
彼はじっとリュクレスを見ているようだった。それから唐突にくつくつと笑いだした。
寝台の揺れにヴィルヘルムが少しだけ身体を浮かせたのを感じると、布の擦れる音と共に、視界が薄暗くなり紗が下ろされたのを知る。
ヴィルヘルムが戻る勢いで寝台を軋ませ、柔らかな揺れはリュクレスも揺らした。身体ごと攫われて気が付けば、シーツの上に寝転がり彼の腕の中。…足をしっかりと庇ってくれているお陰で足の痛みは感じない。ヴィルヘルムはまだ笑いを含んだまま、
「では、ここで少し休んでいきます」
そう言って繋いだままの手に少しだけ力を込めた。
その触れ合える距離には馴染めないけれど、その温度には馴染んでしまったのだろう。
…とても暖かい。
手を繋ぎ、もう片方の手で頭を抱き込まれるようにして、髪を梳かれる。
休んでもらいたいのに、自分が寝かしつけられている気がする。
それでも、近くに感じるヴィルヘルムの気配が安らいで感じるから、リュクレスは身じろぎもせず、じっとされるがままになっていた。




