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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
一部  恩返し
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27



気がつけば、リュクレスは真っ暗な部屋の中にいた。

視界は利かず、足が着いている感覚さえ曖昧な暗闇は、右も左も上下すらわからない。

自分が目を開いているのか閉じているかもわからなくて、何度か瞬きを繰り返す。


…かわらない

闇は闇だ。


ぐるり見回そうとして、突然左の手首に絡みつく指の感触に、驚いて手を引こうとする。しかし、その力は尋常ではなく、びくりとも動かない。

掴まれていない手で、自分を掴むその手を剥がそうともがくが、今度はその右手を絡め取られる。

そうして、右足を、左足を。

暗闇なのに、見えない腕が何処からともなく、いくつも伸びてきては、リュクレスの身体を押さえつけていく。

その手の不快さに、悲鳴を上げようとして声すらも出ないことに気がつく。

押さえる手は更に幾つも増えてゆく。

引き裂かれそうな身体に、リュクレスは出ない声で叫んだ。








乾いた悲鳴を上げて、リュクレスは飛び起きた。

煩いほどに乱れた心音、忙しない自分の息遣いだけが耳に届く。

冷や汗にしとどに濡れる身体は外気に、ひやりと熱を奪われる。

目を覚ましたはずなのに、暗闇は変わらない。

まるでまだ悪夢の中にいるような、ぞっとする感覚に、リュクレスは途方もない孤独感に飲まれそうだった。

息が、上手く出来ない。

吸うことも、吐くことも。

自覚をした途端に、やり方を忘れたように、ただ、喘ぐ。

「…く…ふぅっ」

まるで魚が水面に空気を求めるように口を開けるが、喉に何かが詰まったように、空気はリュクレスの肺を満たそうとはしなかった。

溺れてしまう。

まるで水の中にいるようだ。

そんなリュクレスの肩に誰かが触れた。

目を見開くが、やはり広がるのは闇ばかり。

恐ろしい思いに小さく肩を震わせ、振り払おうとした手は逆に掴まれる。

また、身体を引き裂かれる。

そう怯えるリュクレスの頭を、その手が優しく撫でた。

「落ち着け」

手のひらの暖かさにリュクレスは戸惑い、耳に届く低い声が抵抗する力を奪う。

酸欠にぐらり倒れ込む身体を支えるその腕は揺るがない。

「ゆっくりでいい、息を吐きなさい」

ずっと聞きたいと思っていた、その穏やかな声音がリュクレスにゆっくりと呼吸を促す。

「そう、それでいい。吐いて…ゆっくり、息を吸うんだ」

つかえていた何かが取れ、細い息が溢れる。

呼吸を思い出した身体は、彼の言葉に従えずに、大きく息を吸い込んだ。空気を求めていた肺は大きく膨らみ、性急な換気に咳き込んでしまう。

苦しさに身体を丸めて、リュクレスは止まらない咳をやり過ごす。

男は何も言わず、宥めるように背中を優しくさすった。その温かさに、咳が収まると、リュクレスは目尻を溢れる涙もそのままに、顔を上げる。

リュクレスの目が、男を映し出すことはない。

だが、大きな手、その声に。

……居てくれるはずのない人が、傍にいる。

これは、夢かな?

「……ヴィル、ヘルム…様?」

ほっと、彼が小さく息を吐くのを感じた。

ポンポンと、また頭が撫でられる。

「はい、私です。……もう、大丈夫ですから。そんなに怖がらなくていい」

髪に触れるのとは反対の手で、リュクレスの手にそっと触れる。

冷たくなったその指は知らぬ間に震えていたようだった。

リュクレスの両手を掴めてしまえるほど、大きな手。その感覚に、これが現実であるとようやく実感が湧いた。どっと力が抜けて、押し寄せてきた安堵。

崩れそうな身体を支えるのはやはりヴィルヘルムで。

気が緩んだ途端に、襲ってきた拍動性の波打つ頭痛が、考えようとする思考の邪魔をする。

この痛みは既に馴染みのものだ。マリアネラの薬の副作用、寝てしまえば楽になるが、今眠ればまた悪夢に戻ってしまいそうで、リュクレスは敢えてこの頭痛を受け入れる。

だが、急激な展開と、精神的な疲労はリュクレスを限界まで追いやっていることに彼女自身は気がついていない。

静かな錯乱は、すでに彼女を苛んでいた。

「どうして?」

「ん?」

「どうして、ヴィルヘルム様が居るの?」

沈黙はわずか。

「…遅ればせながら、君を助けに行きました」

いつもであれば気が付くであろう、その言葉に含まれる苦みにリュクレスは気が付かなかった。

「ここは安全です。どうか、安心して……どうしました?」

ヴィルヘルムが気遣う様な声で続けた。声は耳元で聞こえるのに。

その言葉が、やけに…遠い。意味がわからない。

いや、わかりたくなかった。

リュクレスは混乱の中で、失敗したのだと、唐突に理解する。

「助けに…?どうして?」

助けを求めてしまったから?

愕然として、…酷く悲しくなった。

「…だって、私は…囮頑張ろうと、でも、上手に出来なくて…だから…?」

後悔が胸に刺さる。

役に立ちたかったのに。ヴィルヘルムへの感謝が言葉だけでない本当の気持ちだと。

優しい思いに報いたいとその思いはいつも空回りばかりだ。

「ごめんなさい…、ごめんなさい。役に立てなくて…っ、ごめんなさいっ」

力の入らない身体で必死に身体を起こし、ヴィルヘルムから離れようとする。

頭を垂れ、謝罪は涙と共に零れ落ちた。

「違っ……落ち着きなさい!」

その声に頭を振る。ガンガンと殴られているような暴力的な頭痛に思考など滅茶苦茶だ。

ヴィルヘルムの声は届かない。

何が言いたいのかもわからない、考えが纏まらないのに、溢れる思いも止めどない。

「逆らっちゃダメだったの?でも、怖くて、痛くて…っ。…私が弱いからっ…ごめんなさい…ヴィルヘルム様、助けてって…役に、立たなくて…ごめんなさい」

溢れる言葉と涙、その瞳に相手を映すことは無く、暗闇の中まるで懺悔のようにリュクレスは吐き出した。

それを、苦しそうな表情でヴィルヘルムが聞いていることも知らずに、何度も謝罪を繰り返す。

止めたのは、突然の強い抱擁だった。背に回される腕、頬に服越しに感じる厚い胸板。こぼれた涙は、男の服に吸われて滲む。

「もう、謝らないでくれ…」

絞り出すような声音に、リュクレスは彼に抱かれたまま、呆然とする。


(ああ…)

リュクレスはくしゃりと顔を歪めた。

リュクレスが、ヴィルヘルムを、傷つけた。

そんなつもりはなかったのに。

ただ、役に立つと決めたのにそれができなかった自分が不甲斐なくて、それなのに、傍にヴィルヘルムが居ることに安心してしまった自分が情けなくて謝るしかできなかった。

その謝罪すら、ヴィルヘルムを傷つけるのか。

ならば、どうすればよかったのだろう?

何が、ヴィルヘルムを傷つけるのか、リュクレスにはわからない。

「…なんで…私、ヴィルヘルム様を傷つけたの?…わ、私…」

もがくリュクレスを、ヴィルヘルムは力を緩めることなく、逃がそうとしない。肩に、彼の額が乗せられるのを感じて、リュクレスは抵抗を止めた。


「…君のおかげで、首謀者を捕らえることが出来たよ。ありがとう」


耳元に囁かれる言葉に、リュクレスはただ、声を失う。

そこにあったのは真摯で、とても真っ直ぐな誠意だった。

消して聞き逃すことがないようはっきりとした口調で発せられた感謝の言葉。

…役に立てた?ちゃんと、頑張れた?

声にならない問い掛けは、ヴィルヘルムが拾ってくれる。

顔を上げたヴィルヘルムが、一層、抱擁を深めた。

「ああ、君は頑張ってくれた。一番の功労者だ」

冷たい灰色の瞳が、本当は優しく穏やかであることを知っている。

冷徹とさえ思えるほど、割り切った考え方をするヴィルヘルムだからこそ、その言葉が上辺だけの作り事でないとわかる。


リュクレスの恩返しは、少しでも果たせたのだろうか。

役に立てたのなら、嬉しいと、思う。

今度こそ、ヴィルヘルムに感謝を伝えてもよいだろうか。

ようやく、伝えられるだろうか。

小さな娘でしかないリュクレスだけれど、ヴィルヘルムへの思いはずっと胸の奥に大切にしまってあったものだから。

リュクレスは泣き笑いを浮かべて、初めてヴィルヘルムへと手を伸ばした。

服の裾をぎゅっと握る程度のささやかなものであったが、それでも、確かに。



「君が無事あれば、それでいい」と、男の思いはついに言葉にされることはなく。

ただ、小さな子供を褒めるように、その頭を優しく撫で続けた。




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