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「落ちたか…」
「どうなった?」
「薬で意識を失っただけですよ。続きをどうぞ。その薬、どうやら眠っていても反応するらしいんで。抵抗しない方が楽でしょう?」
きっと抵抗などされたことがないであろう高貴な人物に向かって男はそう言って嗤った。
凌辱などしなくても、いくらでも女など手に入る身分だ。わざわざ、好き好んでこんな小娘相手にしなくともと思わないでもないが、アランバードという名のこの王弟にとって王の寵愛する相手というのが重要なのだろう。
難儀な御仁だと、内心で呆れる。
先ほどまでの興奮は失せた様子で、しかし、彼は涙を流したまま眠る娘を再び組み敷いた。
涙に濡れた頬を撫で、薄紅の小さな唇に指先で触れる。半開きの口許はひどく無防備に、男の指の侵入を許した。歯列を割り、ちらり垣間見える赤い舌を捉えようと更に奥に指を挿し入れる。
苦しそうに顔を歪める娘の表情に、嫌だと、拒否する言葉しか発することの無かった先ほどまでの顔が重なり、その唇の柔らかさに嗜虐心が刺激され、今度は顔を近づける。
深い口付けを与えようとして、アランバードは喉元に突き付けられた切っ先に動きを止めた。
次の瞬間。
激しい音と共に扉が蹴破られる。間髪入れず、鋭い剣戟の音が鳴り響いた。
顔を上げると、名無しの棟梁は壁際に追い詰められ、それに対峙するように冬狼将軍が息も乱さず血塗れた剣を構えていた。そして、アランバードに短剣を突きつけるのは褐色の肌の男。音もなく現れた彼は寝台の端に膝をかけ、切っ先以上に鋭い眼差しで睨み付けてくる。
「無礼者が」
剣を向けられる屈辱に吐き捨てるように言うが、剣先から目が離せず、罵る声に覇気はない。
そんな言葉にさして影響力などあろうはずもなく。
「さっさと、そこからどいてください」
異邦の男は東方訛りのない綺麗な発音でそう言うと、待つのも惜しいとばかりに強引にアランバードを娘の上から立ち退かせた。苛立ちも露わなその行動に、アランバードの身体は勢いよく床へ投げ出される。
「ソル。…気持ちは分かるがもう少し、丁重に扱え」
視線は赤眼の男から離すことなく、将軍は静かな声でソルという男を窘める。
しかし、彼はその言葉を無視して娘を労わるように、その身体に掛物をかけて乱れた服装を覆い隠した。
「将軍、剣を下ろせ」
アランバードは姿勢を起こすと、慣れた口調で今度は将軍に命じた。
だが、将軍の言葉はにべもないものだった。
「出来かねます」
「私の命令が聞けないのか」
「貴方は王に仇なした。たとえ王弟殿下であろうとも、その罪は償わなければなりません」
青年が唸る様に低く呟けば、断罪するように王の右腕は言う。
「私が兄に仇なすなど、何処にその根拠がある?」
「ここに貴方がいること自体が、証拠になりましょう」
将軍は一度たりとも王弟であるアランバートに視線を合わせようとしない。
それ程に、軽んじるのか。
淡々とした会話の中、ふつふつと煮え立つ怒り。
感情に任せた言葉は、しかし、名無しの男の突然の笑いに飲み込まれた。
「あははははは!」
可笑しくてたまらないとばかりに腹を抱えて笑う男を、アランバードは怪訝な顔で見つめた。
何がおかしい。
追い詰めたれたこの状態で、名無しの男に焦りはない。
男の顔に張り付いているのは皮肉に満ちた嘲りであり、その感情は、表情を変えずに向かい立つ将軍に向けられる。
「はははっ。そうか。王の執着ではなく、この娘に捕まったのはお前の方か、ヴィルヘルム」
親しげに名を呼ぶ男に、ヴィルヘルムは厳しい表情を見せた。
名無しの棟梁がヴィルヘルムに興味を持っていたというソルの言葉の意味を知る。
興味ではない、男のそれは憎しみと悪意だ。
「此処まで堕ちていましたか。叔父上…いえ、ベルガディド」
ヴィルヘルムが子供の頃に尊敬していた人の面影はない。
男を、叔父と呼ぶことを止めたヴィルヘルムの意図に気が付かないほど、ベルガディドも愚鈍ではなかった。
にいと、口角が引き上がる。
「ヴィルヘルム、出来の良い甥よ。お前の氷に罅が入ったな」
丁重に扱えと口にしながら、その瞳に荒れ狂う苛立ちと殺気は、ソルと呼ばれた男よりよほど攻撃的だ。視線で人が殺せるなら、この目は誰よりも人の命を奪うだろう。
冷静沈着、冷酷無比と言われた永久凍土の男の心は、そこの小さな娘に融かされ明らかに熱を持ってそこにある。
「こいつはお前の仕組んだ囮だったわけだ。…もっと早くわかっていたら、俺が弄んでやったのに。粉々に砕いて、俺の玩具にしておけばよかっ…!」
言い終わる前に、ベルガディドを重たい一撃が襲う。ヴィルヘルムの剣は一撃一撃が早くて、重い。感情的なそれを受け止めて、ベルガディドが歪んだ笑みを浮かべた。
剣を打ち合い、受け流した刃から火花が散る。
ヴィルヘルムは明らかな殺気を放って、ベルガディドを見据える。
叔父がヴィルヘルムに劣等感と、嫉妬心を抱いていたことは知っていた。
その理由については想像することしかできないが、今までその感情を改めてもらいたいとも、不快に思うこともなかった。
だが、ヴィルヘルムへの意趣返しにリュクレスを傷つけようとすることはどうしようもなく、許せない。
「…私が気に入らないなら、直接私に言いに来い。この卑怯者」
「それじゃあ、お前はそんな顔しないだろう?」
剣を振り回すには狭すぎる室内で、ヴィルヘルムの攻撃を躱し、ベルガディドは踊るように剣を振るう。
ヴィルヘルムに剣を教えたのはこの男だ。器用な男で宮廷剣技以外にも多くの剣の型を操る男だった。相対してみると、冷静でいられないせいだけでなく、変わらない男の剣の腕前に、そう簡単には討たせてもらえない。
男は飄々と笑い、肩を回す。
警戒し剣を構え直したヴィルヘルムに対し、ベルガディドは剣を弄ぶ。
「五分五分…いや、体力が衰えた分、俺の方が劣るか。なら、これはどうだ?」
言うなり男は予備動作もなく、ヴィルヘルムの肩越しに見えるリュクレスへ向け剣を放った。
「!」
意表をつかれたヴィルヘルムは、しかし、反射的にその進路を妨げるように剣を振り上げる。接触した剣が甲高い金属音を立て弾かれ、天井に突き刺さった。
その一瞬。
剣の行方が決まるより前に、ベルガディドは腰の短剣を抜き、ヴィルヘルムのがら空きになった懐へ素早く一歩踏み込んだ。剣を突き立てようとする相手から、ヴィルヘルムが身を引こうとする。
「逃がさん」
ベルガディドは追うように、剣を突き出した。
白刃が煌く。
バンッ
唐突に室内に響き渡った、爆ぜる様な音と、火薬の焦げた臭い。
カランと、ベルガディドの手から短剣が滑り落ち、床に転がった。
不自然なほどの静寂が、不意に横たわる。
対峙するヴィルヘルムの、剣とは逆の手に構えられた見慣れない武器。
筒身の先端から煙を燻らせるそれがベルガディドを押し返した。
ベルガディドは自分の胸に手を当て、真っ赤に染まった掌に、にやりと笑った。
「短銃か…」
東方の隠された技術。こんなものまで、この甥は手にしていたのか。
身を引いたのは避けたのではなく、銃を抜く動作だったのだ。
膝から崩れ落ち、ベルガディドは仰向けに倒れこんだ。背中から生暖かい赤い血だまりが広がってゆく。
言葉を発しようとした口から、ごぼりと呼気とともに大量の血液が溢れた。
浅い呼吸音の後に、血塗れた男はそれでも怨嗟の言葉を吐く。
ぎらぎらとした眼差しは憎悪と侮蔑を浮かべ、ヴィルヘルムを嘲笑った。
「ははっ…正義面して助けに来たようなフリをして、……卑怯者はどちらだ。そこの壊れそうな娘を害したのは俺かもしれん。だが、お前は…救おうとなどしなかった。…本当に壊したのは、お前じゃないか」
英雄を卑怯者へと引き摺り下ろしたと男は満足そうに笑った。
誰かの評価ではなく、ヴィルヘルム自身が既に己を英雄だとは思えまい。
今まで英雄と言われることを利用していたこの甥は、今後、英雄と言われるたびに、卑怯者の自分と傷ついた娘を思い出し、苦い思いをすることだろう。
良く出来た甥は、ベルガディドによく似ていた。
男は己の能力に自信があった。
それは過信でなく、彼の中にあった王家への盲信、王の復権の願いを具体的に現実に出来るだけの力だった。ベルガディドはアルムクヴァイドとの拝謁の際、とうとう己の能力を受け取るに足る人物がようやく現れたと、天啓のようなものすら感じたのだ。王を支え、国を善き方向へ導く、王の隣には己がいるはずだった。
だが、現実はどうだ。
ヴィルヘルムとアルムクヴァイドが友人として出会い、当時王子であったアルムクヴァイドの信頼を得てしまったことが、ベルガディドを歪めてしまった。
ベルガディド自身が得たいと強く望んだ場所に淡々として立つのは、甥のヴィルヘルム。
それを認めることが出来ずに逃げ出すように王城から離れ、ベルガディドは名無しと蔑まれるところまで落ちていた。
口惜しさ、身悶えんばかりの憎悪。
ヴィルヘルムが祖国の英雄へと登っていく度にその嫉妬に煽られる劣等感。
その変わらない冷淡な表情に罅を入れ、消して消えることのない疵を残したいと願う、男の歪んだ妄執は10年を越えてどうやら果たされたようだった。
「…お前と俺はよく似ている。いつか、俺と同じように朽ち果てる日が来るのを、先に行って待っているぞ…」
胸に開いた風穴は、ベルガディドの命を零してゆく。
ヴィルヘルムは凍えた眼差しでその姿を見下ろしていた。
男の言葉は正しい。彼女を傷つけたのはベルガディド達と、傷つくことを知っていて助けなかったヴィルヘルムだ。罪はヴィルヘルムの方がより一層深いだろう。
自分の罪悪感を、自分への怒りをこの男に乗せていることは気が付いていたが、それでも彼女を凌辱させようとした男を許す気にはならなかった。
今後、生きていれば彼は同じように、リュクレスを傷つけようとするだろう。ヴィルヘルムに傷を与えるためだけに。
だからこそ。
ヴィルヘルムは叔父を助けようとは思わなかった。
その目が光を失い、濁ってゆくのをヴィルヘルムはただ、無言で見届けた。




