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馬車から眺める車窓の景色は、随分と変化をみせていた。
冬を迎えたノルドグレーンでは木々の多くは葉を落とし、裸の枝に白く雪が積もっていた。小高い山々に囲まれたあの盆地には土地の隆起は少ない。
だが、今、窓の向こうを流れてゆくのは、なだらかな丘陵地帯に点在する森林という、見慣れない風景だった。見渡す限り周囲に山はなく、黒にも映る深い緑はアズラエン領特有の木々だ。
雪が、一面白く染め上げ、深緑と白のコントラストは美しかった。
朝早くから馬車で一日移動し、夜宿屋に泊るのを繰り返し、すでに4日。
もうすでに、此処が何処かわからないリュクレスにとって、これから何処へ向かうのかは聞いても意味がないことに思えて、尋ねることは差し控えていた。御者も随行するもう一人の中年の男性も、必要な説明の時に話しかけてくるだけで、余計なことは一切話すことが無いから、聞いても答えが返って来るかもわからない。
移動中は、御者ともう一人の男は御者台に座っているため、リュクレスは日がな一日馬車の中で、一人外を眺めていた。
息が白い。
粗末な黒のトゥニカの上に羽織る外套はラジミュールが準備してくれたものだ。質素な衣装だが、防寒の役割は十分に果たしてくれている。それでも。空気は冷たく、動かさない身体は手や足の先から深々と冷え込んでゆく。
寒さを堪えるように小さく丸くなっていると、知らず内に眠っていたようだった。
馬車の扉が開く音に目を覚ます。
いつの間にか馬車の揺れはおさまっていた。
「降りろ」
車内を覗き込むようにして、灰色の髪の男に命じられ、リュクレスは寝起きの頭を振ると言われた通り馬車を降りた。
そこは今までのような宿屋ではなく、瀟洒な屋敷だった。
見たこともないような大きな扉が半分開かれている。無言で付いてこいと指示され、男の後ろを歩き、屋敷の中へと足を踏み入れる。
エントランスを抜けると、長い廊下には部屋の扉が並んでいた。幾つかの扉を通り過ぎ、部屋の一つに通される。そこには表情のない侍女が3人待機していた。
「ここで着替えて支度をしろ」
男がそう言い捨て出ていくと、それが合図だったかのように、言葉もなく侍女たちがリュクレスの外套を脱がせようとする。
「あ、あの。着替えなら自分で…」
慌ててリュクレスは自分の服を抑えるが、彼女達は表情も変えず、手も止めない。
「あちらに湯浴みの用意もしてあります。貴族の子女らしく見せろと、主人の仰せです。手入れもすべて私たちにお任せください」
丁寧な言葉にけれど、否は認められない。
子供の様なリュクレスに女性と言えど、3人がかりで押さえつけられれば抵抗のしようもなく、浴室でなすがままに肌を磨かれ、香油を塗りこめられる。
着せ替え人形の様にドレスを着せられ、飾り立てられた。
短い髪はうまく編み込まれ、髪飾りに長さを誤魔化し、薄く化粧をされて。
鏡の前で出来上がった自分を見て、リュクレスは出来の悪いお人形のようだと自嘲した。
子供が大人の衣装に憧れて着てみたらこうなった。
一見した印象はまさに、それだろう。
華やかなドレスは、痩せた四肢と栄養不良の肌をいっそう引き立て、着こなすではなく、これではまさに着られているだけだ。
それでも。
侍女たちの表情は変えることなく、仕上げにドレスに合わせた明るい桃色の外套を羽織らせた。
「準備はできました。こちらでお待ちください」
そう言って部屋を出て行こうとする侍女の一人を、慌てて引き留める。
「あの!私の着ていた服はどこですか?」
「破棄させるように伝えましたが」
「お願いします、どうか返してもらえませんか?着替えたりしません、ただ、持っていたいんです。お願いしますっ!」
勢いよく頭を下げると、髪飾りが派手に揺れた。
せっかく整えたものが崩れるのを嫌ったのか、それを見た侍女は小さくため息を漏らし、頷いた。
「…わかりました」
リュクレスの服が届くのとほぼ同時に、男が戻ってきた。
男は、ドレス姿に不釣り合いな黒い衣装を大切そうに抱きしめるリュクレスを一瞥する。
「…馬子にも衣装か」
呟きは小さく、聞き取ることは出来ない。
困ったように首を傾げると、男は何でもないと首を振った。
「お前の父親からの伝言だ。見返りを望んだ以上きっちり役に立て、だそうだ。もし、期待に応えることが出来なければ、お前のいた修道院が大変なことになるだろう」
「…!」
「これからお前にはドレイチェク伯のところで駒として働いてもらう。逆らうなよ。何事にも従順であれ。いいな?」
突然告げられた聞き知らぬ名前に戸惑いを浮かべれば、
「お前たちでも知ってる名で呼んでやろうか?冬狼将軍閣下さ」
「え…」
フラッシュバックするように記憶に甦る、強い意志の灰色の瞳。
紺青の髪。掬い上げる暖かい腕。
冬狼将軍。
それは、国土を脅かした隣国の脅威をはねのけ、多くの国民を救った国の英雄。
だが、リュクレス達の慕う英雄とは全く違う人物を思い浮かべているかのように、男の笑みは歪だった。
「あの御仁は英雄というには些か癖がありすぎるが。お前たち庶民の英雄が、裏でどんなことを画策しているのか、俺にも少し興味あるな」
今までになく饒舌に語る男に、リュクレスは呆然とする。
裏で画策?
平民を道具としか思わない子爵と関係を持ち、人を駒として使う?
貴族の汚濁と、思い出の英雄との差に、足元がおぼつかない様な頼りない思いを抱く。
「なんにせよ、お前には拒否することは出来ない。ただ、従えばいい。そこで絶望するなり、悲嘆にくれるでもすればいいさ。…もしかしたら、お前がちゃんと道具らしく用をこなせば、英雄様が解放してくれるかもしれないぜ?」
英雄が、彼らにとってどのような存在であるのかわかっていて、男は嘲笑う。
悪意に満ちた言葉を聞きながら、リュクレスはふと疑問に思った。
英雄が憎いのか、それとも、英雄というものを尊ぶ庶民を憎むのか。
はたして彼が本当に憎むものはどちらなのだろうか、と。
…どちらにしても、今彼が放つ言葉はリュクレスを傷つけたいだけの代物だ。そういう、言葉の刃物であれば、対処の仕方はよくよく理解している。
動揺を消したリュクレスに、男は白けたように肩を竦める。大股で部屋の入り口に向かうと、両手で勢いよく扉を開け放った。
「さあて、では行こうか」
物静かだと思っていた男の荒っぽい行動に、今までのように素直に付いていくことが出来ない。
躊躇いを見せるリュクレスに、男は獰猛な笑みを浮かべた。
その眼はまるで笑ってはいない。
暗赤色の瞳が獲物を狙うかのようにじっと、少女を見据える。
静かなくらいの声音はただ、ゆっくりと問いかける。
「行く、だろう?」
「…はい」
言葉の端に潜む脅迫。
息を飲み、リュクレスはぎこちなく頷くことしかできなかった。