24
「早く私帰りたいのよね」
窓辺に立つ女は、硝子越しに聳える王城の塔の先を忌々しそうに見つめて、不機嫌そうに言った。
ゆったりと、振り返る。そんな単純な動作さえこの女は艶めかしい。
同じ室内の少し離れた所で、机を前にして座る男は、表情を変えることなく飴色に輝く重厚な天板に、こつり、指を突く。
黒髪に白髪の混じる、壮年の紳士。黒茶色の瞳には理性的な光が浮かんでいた。
女の機嫌などまるで無視して、男は女からの報告を聞くことを優先する。
「いい年してお人形さんごっこもあるまい。…それより、首尾は?」
「だって、綺麗なんだもの。あの子。傷がつかない様に大事にしまっておきたいわ」
…女は大抵、余計なことから話し始めるものだ。
この女の場合は、特に。ため息を吐いて、件の娘の報告を思い出す。
「みすぼらしく、脆弱な小娘と聞いているがな」
「あら、そう。見る目無いわね。とても綺麗よ?あの瞳も、表情も、…中身も」
「そうか」
狂気に染まった女の瞳が一瞬、静謐に戻るのを男は見たが、何も言わず口を閉ざした。
マリアネラ…いや、マリアージュ・ボルセウスという女。
緑の瞳に湛える狂気は魔物の様に妖艶で、情熱的な赤い髪とふっくらとした唇に浮かべる微笑は婀娜めいて。
その色香で一瞬にして君主を誑かした女狐であるのに。
不意に見せる横顔は、凪いだ水面の様に静かなことがある。
それは幻の様に、たちまち消えさり、こちらを見返す瞳には昏い光を浮んでいた。
「とりあえず、王は王都の巡回と称して、外に出てくるそうよ。で、あの坊やの取り巻きなら、貴方望む通りに動いているわ。流石に近衛騎士は無理だったようだけれど、何人か王宮に使用人として潜り込ませたって」
「本当に愛人のために外に出てきたか…」
「言ったでしょ?王はあの子に夢中。きっと、手放せないわ」
男は、アルムクヴァイドという王を、覇気に満ちた雄々しい男であると認識している。女に耽溺するような男だとは思っていなかったが、どういう意味であるにせよ、思ったより情に厚い男であるらしい。
「手放さないではなく、手放せない、か?」
「だって、捕えているようでいて、捕らわれているのは王の方だもの」
ふふふと、女は凄艶な微笑みを浮かべる。
「ねえ、予定通り、王は外に出てくるし、城にも刃は仕込んだわ。王都の騒ぎは貴方に任せてあるのだし、私、あの子を連れて先に帰っては駄目かしら?」
「…王の死にざまを見たいのではなかったのか?」
「うーん、それも魅力的、なのだけれど。名無しの棟梁が私の言うことを聞かなくて。あの子をいつ傷つけるか、売ってしまうか気が気じゃないのよね。…王の大切なものを奪って私、満足しているの。だから、あいつの首は貴方にあげる」
王の鼻をあかし、男から珠玉を掠め取って、女には胸がすく思いだったに違いない。王が殺されることをすでに疑っていない女は、国に帰ってからの事しか考えていないようだった。
だが、男は、計画が予定通り進めば進むほど、嫌な予感に苛まれる。
臆病者であるつもりはないが、前回の戦争で辛酸を舐めさせられた経験が、警戒を解かせない。
…冬狼将軍の動きが、余りにも、鈍い。
確かに活発な動きはしていた。王城を留守にすることは多く、多方面にも出没しているが、それはいつもと変わらない男の動きだ。
襲撃は、将軍が王都にいない時を狙った。それは功を奏して、大した妨害もなく拉致は成った。ことの報告を受けた将軍は、すぐさま離宮に居た者たちを撤収させ、その後彼らに箝口令を敷いた。今、王の愛人をおめおめと攫われた形となった将軍は最優先で愛妾の所在を確認しようとしている。王の最愛のものだというのが真実ならば、王命もあるのかもしれない。
とにかく、愛妾の探索に集中したことで、こちらの動きから目をそらすことに成功し、邪魔が入ることもなく着々と内乱の準備は進んだ。
王都に潜ませた名無しの傭兵と、スナヴァールの特殊部隊。間もなく、国境に待機させた兵団もこちらに向かう手筈になっている。
後手に回っている事実に苛立ちを隠すこともなく、今では将軍は城に詰めたままだ。
王の動きも、将軍の動きも掴めている。
こちらの有利は明らかだ。
なのに、何故。
これ程まで、不安に駆られるのか。
いくら冷静沈着を地でいく男であろうとも、焦ることもあるはずだ。
失態を犯すことも。
娘を王に与えたのは冬狼将軍だったという。王がこれほど執着することは、将軍にとっても誤算だったのではあるまいか。
そう思えば、今回の将軍の動きも理解できる。
冬狼将軍という油断のならない男。
若造と軽んじる声も多いが、その若造によって、7年前、そして去年と、故国は圧倒的戦力差で優位に立ちながら、退却を余儀なくされ、去年に至っては敗戦を期した。
一戦士としても恐ろしい。
だが、何よりも戦力差を戦略と戦術でひっくり返してしまうその頭脳。そして、やり通すその鋼の意志がなによりも恐ろしい。
それでも。
そんな男でさえ、さまざまな思惑の交差する宮廷では、戦場の様には行かなかったのだ。
あの王が女に傾倒したように。
そして、王を弑逆しようとする者が、王の信頼する者であったように。
考え込んでいた男の思考をノックの音が遮った。
配下の声に顔を上げ、入室を許可する。
「入れ。…どうした?」
「はい、王が城を出ました」
扉を開け入ってきた男が、扉前で敬礼すると早口に報告を上げる。
マリアージュの赤く濡れる唇がにぃと綺麗な弧の字を描いた。
「…あら、絶好の機会がやってきたみたい。ね?コードヴィア卿」
「その名を呼ぶな」
不快げに吐き捨て、コードヴィアと呼ばれた男は憎らしげに女を睨み付けたが、マリアージュはまるで気にすることなく笑みを深める。
「あら、大丈夫よ。誰も聞いていないわ。それに…まさか宰相補佐様が、こんなところにいらっしゃるなんて、きっと誰も思わないもの」
男たちの焦燥や、見栄などどちらでもよい。
興味なさそうに言って、唇の上に自分の指を乗せる。
宰相補佐という国の中枢担う男が、こんなところにまで、足を運ばなければならないほど国が傾いていようとも。
ただ享楽的に、歓楽を謳歌して何が悪い。
ただ、マリアージュは自分が幸せならば、それでいい。
だが、刹那的な女に対峙する男は故国の再興を願う。
長い戦争は大国をも疲弊させた。
新たなる属国を求めている旧臣たちは追いやられ、国内の大勢はすでに穏健派に傾いた。
王は女に骨抜きにされた、ただの置物にすぎない。
聡明な第一王女は戦争回避のためにこの国に嫁ぎ、残る王子と、王女は物を知らず、考えの足りない愚者でしかない。ただ、贅を好む害虫のような者ばかり。
祖国を立て直さなければならない。列強の中でも最も影響力を持っていた頃の様に。
斜陽の影が国を脅かすなどあってはならない。
その思いが男を強烈に煽り立てる。
国の今後の繁栄のためにも、オルフェルノを従属させること。正攻法で上手くいかなかったならば、手段はもう選んでいられない。
報告に来た部下に、作戦の開始を伝える。
王を殺し、この国を奪う。
計画は成功させなければならない。そのための準備は整った。
紳士然とした男の眼に宿る鋭い光に、部下は飲まれたように頷いた。




