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<注意> 暴力的な表現があります。苦手な方はご注意ください。
「あら…起きちゃったのね」
ノックもなく、開かれた扉の隙間から顔を見せたのは、マリアネラだった。
ドアノブの回される音に警戒し、壁際で座り込んでいるリュクレスを見て、少しだけ憐憫を含んだ表情を見せながら、彼女は微笑む。その笑顔は侍女をしている時と変わらないものであったが、身動きがしやすそうながら、体のラインを強調した乗馬服と、情熱的な赤い髪を下ろしたその姿は、酷く官能的で艶やかで。まるで違う雰囲気を纏っていた。
敵意を感じないのに、その瞳の甘やかな色が何故かとても恐ろしい。
マリアネラはリュクレスの怯えを感じ取りながらも、素知らぬ顔で目の前まで来ると、視線を合わせるかのようにしゃがみこんだ。
「もう少し、眠っていられたなら、貴女にとっても良かったでしょうに、ね?」
相槌を求めるようにそう言われ、リュクレスはこわばった表情のまま、疑問を浮かべる。
どういう意味かわからない。
親しげな態度が変わらない理由も、彼女の言う意味も、リュクレスには本当にわからないから。
「ふふ、目は口ほどに物を言うというけれど、貴女の眼はとても素直ね」
藍緑の瞳が不安に揺れるのをうっとりとマリアネラは見つめ返す。
「宝石のように美しくて珍しい瞳だわ。こんなお人形欲しかったの」
マリアネラは嬉々として、子供の様に無邪気に喜んでいる。
愛玩人形なるものが、国を跨いで一部の貴族の中で流行っていることなど、リュクレスは知らない。
希少な髪の色や瞳、容貌を持つ子供や女性を鳥籠や部屋の中に閉じ込めて、着飾って愛でる。
人身売買の中でもとても高価な値段の付く商品の一つ。
そういった嗜好を理解できないリュクレスにとっては、ただ、彼女の言葉が、優しさが空恐ろしい。
得も言われぬ薄気味悪さに、マリアネラから逃げるように後ろに下がった。
沈黙が怖くて、リュクレスは震える声で言葉を紡ぐ。
マリアネラの言葉の意味を聞くことが、怖くてできない。
だから、話題を変えることを選んだ。
「…私は何日意識がなかったんですか?」
起きたのが朝焼けの中であった。それから、太陽が高くなり、沈んでゆくのを部屋の中から見送り、夜を迎えた。あれからどれほどの時間が経過しているのかを測る術はリュクレスにはない。
純粋な疑問と、時間が経っているのであればそれだけヴィルヘルムたちにとって役に立てているのではないかという期待に。
「3日間よ。その間に随分とあちこちを転々としていたの」
どこかは教えてあげない。と、艶然と微笑むマリアネラは、立ち上がると、椅子へと腰掛け直した。長い脚を組み、その膝の上に指を組んだ両手を乗せる。
「そろそろ貴女の愛おしい人が痺れを切らして動き出すわ。ふふ、大丈夫。貴女が未練なく私のもとに来られるように、ちゃんとお片付けしておくから」
不穏な言葉に、リュクレスは大きく目を見開いた。
「王様に、何をする気ですか…!」
「秘密。でも、あの男のもとには返してあげない」
おっとりとした話し方なのに、話すことの歪さにリュクレスは更に不安を煽られる。
「…こんな埃っぽいところで、それも床に放り出していたなんて。私が少し留守にしたせいね。すぐにこの部屋にベッドを用意させるわ。だけど、鍵がかかるのはこの部屋だけらしいから。少しだけ我慢してちょうだいね」
部屋を見回して、女は美しい柳眉に皺を寄せる。憂いを覗かせて、謝罪を口にするマリアネラに、リュクレスはそんなことはどうでもいいのだと言わんがばかりに大きく首を横に振った。
オブラートに綺麗に包まれているが、言わんとするところはあからさまだ。
「どうして、王を殺そうとするんですか!」
「私の家族を殺したから、かしら?」
淡々と表情を変えることなく吐き出された言葉に、リュクレスは息を飲んだ。
マリアネラは変わることなく美しい笑みを湛えているのに。
「王も冬狼将軍も嫌い。敵討ちなんて古臭いことに興味はないけれど、同じ空気を吸うのも吐き気がする。…王が死ねば、将軍もこのままではいられない。いい気味だわ」
吐き捨てるように言った言葉に、滲む怨嗟の念。
王も、将軍も武人だ。まだ、平和には程遠いこの国で、彼らが人を殺したことが無いとは思っていない。助けられたリュクレスとは正反対の思いを抱くこの女性の憎悪と悪意は、淀んだ澱の様に昏くその身に沈んでいる。
どうしよう。
その言葉に同意は出来ない。けれど。
…マリアネラの気持ちを変えるほどの言葉を、リュクレスは持ち合わせていない。
王が仇なされない様、動くなどという技術もありはしないのだ。
ヴィルヘルムが、王を守ってくれることを願うことしか、リュクレスには出来ない。
無知で無力で、人の思いなど受けとめることしか出来ない娘は、マリアネラの笑みに深い傷を見つけた。
傷は膿んで腫れ上がり、熱を孕み、ぐちゃぐちゃに肉を壊して。
ようやくリュクレスはマリアネラに感じる恐れの理由を理解した。
自壊した心が、腐敗して灰色に腐った肉を晒すのだ。
血すらも赤黒く、露出した己の心臓を抉り出すかのような、そんな狂気に、リュクレスは怯える。傷を治すために、腐った肉はそぎ落とすしかない。けれど、心の臓まで届いてしまったのなら。
あとは、もう、甘い匂いを滴らせ、腐り落ちるだけ。
ドロドロと、溶けた肉に飲まれてゆく錯覚にリュクレスは眩暈を覚えた。
「おいおい、起きたなら知らせてくれよ」
腐臭の海の中で溺れそうになる。
のんびりと差し挟まれた男の声に、張りつめた糸の様な緊張感がぷつりと切られた。
男の登場はマリアネラにとっても不本意だったのか、不満げな様子を隠すことなく、彼を睨み付ける。
「嫌よ、面倒くさい」
マリアネラの視線が外れ、初めてリュクレスはその呪縛から解かれた。
無意識に詰めていた息を吐き出す。胸が苦しい。
冷たい汗が額に浮かぶ。
マリアネラの視線の先には、一人の男が立っていた。
灰色の髪、暗赤色の鋭い瞳、年齢相応の重厚さ、荒っぽい猛々しさを纏う中年の男。
リュクレスは驚いて目を見張った。
その男には、見覚えがあった。
「こんにちは」
狩猟者の獰猛な赤い目と、にやりと半月を描く口元。
やはり、泥の様に張り付く笑みを浮かべて、男はリュクレスに近づいた。
修道院から、リュクレスをヴィルヘルムの元へ連れて行った男。
冬狼将軍を憎むもう一人の人物。
「久しぶりだな。あれから5か月か。王様を誑し込むのに成功したらしいが…見返りに、将軍様は助けてくれそうか?」
ぞろりと背中に、寒気が走る。
彼の瞳に本能的恐怖は拭えない
修道院を出て、黒い森の離宮に辿り着くまでに、男はしっかりとリュクレスの中に恐怖を植え付けていた。また、その手の中に落ちたのかと思うと、悪寒にも似た悲嘆が胸を塞ぐ。
後ろに下がろうとするが、すでに背には壁の感触がある。冷たくそそり立つ壁は、少女の退路を塞いでいた。
返事をしないリュクレスに男は苛立つこともなく、逆に笑みを深くする。
黒く淀んだ澱を纏うその点でも、マリアネラとこの男は似ている。
…怖い。
自分を守る様に、膝を折り身体を縮める。
「余り、苛めないで。この子は私のものよ」
マリアネラの憤慨する声に、男は飄々と肩を竦めた。
「そう言われても、俺は雇われた身だからな。雇い主の意向も聞かなきゃならん。
あんたは協力者だが、雇い主じゃないからな。あんた達が、これを奪い合うのは構わんが、俺は俺の仕事をさせもてらう」
男は、卑しむ様な目つきで、リュクレスを見下ろした。
「それにしても、お前には罰がいるな」
「罰?」
怪訝な顔をする女に、男は顎をしゃくり、窓を指し示す。
マリアネラ、そしてリュクレスも視線を誘導される。
「見てみろ。どうやったのかしらんが、窓が少し開いている。残念ながら立てつけが悪く簡単には開けられなかったようだがね。大方、逃げようとしたんだろうが…逃げてもらっては困るんだ。あんたも邪魔はするなよ」
それは、黒猫のわずかに開けた窓の隙間。
それをリュクレスが逃走のために開けたものだと思われたのだ。
違う!と、咄嗟に否定の言葉が口を衝こうとして、慌ててそれを飲み込む。
…逃げないと、思われるよりは一度逃げようとしたことにした方が、囮だと疑われないで済むかもしれない。
冬狼将軍が、王を守るために準備した囮。
だったら、囮であると露見しないように、それらしく見せること、リュクレスにすべきはそういうことだ。
あえて、リュクレスは無言を貫いた。
マリアネラはそれを見て失望したようにため息を吐く。
憂いを含む声音で告げる。
「仕方ないわね。悪いことをした子にはお仕置きが必要だもの」
それは罰を肯定するもの。
「では遠慮なく」
にやりと、人の悪い笑みを浮かべ、男はリュクレスの肩を無遠慮に掴んだ。
そのまま力を入れられ、前に引き倒される。両手を付いて防御することもできず、リュクレスは床に顔から倒れ込んだ。
転がったリュクレスを見下ろし、男は残忍な声音で吐き捨てる。
「お前が悪い」
男はぞんざいな動きで足を上げた。
そして、床に投げ出された少女の細い右足首目掛け、思い切り足を踏み下ろす。
重たい足音が床に叩き付けられる。
足音に掻き消されそうな程小さく、骨の折れる乾いた音が室内に響いた。
「あああああああっ!」
手加減なく踏みつけられ、前触れなく身体を襲った衝撃に、リュクレスは絶叫し、蹲った。
見る間に腫れた足首は少し動かすだけでも、凄まじい激痛が走る。
痛い、重い、熱い、痛い!
「くう……っあああ…っ!」
余りの苦痛に止めどなく悲鳴が零れ続ける。
冷や汗が額から、こめかみ、頬を伝って流れ落ちる。
血の気は引き、呼吸は引攣れ、余りの痛みに吐き気までこみ上げて来そうだった。
骨を折られた身体が熱を持って重たい。
「リュクレス、もう逃げようとしちゃだめよ?」
マリアネラは優しく囁きながら、リュクレスの頭を撫でた。
柔らかい身体で、痛みにのたうつ身体を抱きしめる。
そうやって恐怖と痛みで心を縛り付け、物理的にも精神的にも逃げられなくしてゆく。
「俺も相当だが、あんたも残酷な女だな。…まあ、これで逃げるような真似は出来ないだろうよ」
「私の大事な可愛い子。よしよし」
狂気が部屋を包んでいる。
空々しいくらいに女の言葉は上滑りして誰の心にも届かない。
権力者の愛人として多くのものを手に入れられたはずなのに、空っぽな女。
父親といい、王といい、女といい。小さな娘は腐り落ちた林檎のようなものばかり引き寄せる。
それが男にはたまらなく可笑しかった。
ひとしきり笑うと、用は済んだとばかりに、男は部屋を去っていく。
「可哀相ね」と言いながら、マリアネラは酷く嬉しそうな顔をしていた。
リュクレスは痛みに朦朧としていて、マリアネラの腕の中から逃がれられない。
「もう、可哀相な目にはあってもらいたくないわ。ねぇ、リュクレス。これは貴女を守るためにするの、少し我慢してね」
繰り返し、執拗に貴女のためだと囁き続ける行為。
マリアネラは持っていたポーチから雫の形の容器を取り出した。リュクレスの顔を固定し、強引に瞼を開かせる。青い液体の揺れる容器の蓋を開け、逆さにすると、その薬品を目に落とした。
「あつっ…ううっ」
一瞬の焼けるような熱さと、突然の眩しさに目がくらむ。リュクレスは目が開けてられなくなり、反射的に硬く瞼を閉じた。暗くなる視界と共に、引きずられて鈍くなる意識。重くなる頭。
耳元に落とされる囁きは、柔らかい。
「瞳孔を開く薬よ。これで逃げられない。余計なものを見えなければ、このまま殺されずに、私と一緒に国に帰れるわ。…眠くなるから、痛みも和らぐはず。…眠りなさい」
帰る?何処へ?私の国はここなのに…
帰属本能のようなものが、抗うように意識を残したけれど。
強制的な眠りは、また、リュクレスを暗闇に突き落とした。




