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喧嘩?

 


 フェリージアの帰国も間近に迫ったある日の事。


「せっかくだから一緒にお茶をしましょう」


 そう言って、リュクレスを誘ったのは単なる思い付きだった。

 ゆっくり話す機会はもう大して残っていない。

 偶にはいいでしょと、フェリージアが向かいのソファを指して促せば、遠慮がちながらも彼女は断ることなくふわりと笑って頷いた。腰を掛けるのを眺めながら、本当におっとりした娘だと思う。

 困った顔も笑顔も泣いたところも見たことがあるけれど、そう言えば怒ったところだけは見たことが無い。己の我儘を聞いていた時ですら怒ることが無かったくらいだから、彼女が怒ることは相当まれなことなのだろうと想像はつくけれど。


「ねえ、リュクレス、貴女って将軍に怒ったことってあるの?喧嘩とか」


 それはふとした好奇心。

 それでなくとも、将軍のすることであればなんでも許してしまいそうなリュクレスのことだ。無いという答えを予想していたフェリージアは、「実は、一度だけ……」と気恥ずかしそうに微笑む少女に目を丸くした。


 







****



それはまだ離宮に住んでいた夏の名残を残した、暑い日のことだった。


「え……?処分……?」


 瞬きも忘れて、リュクレスは呆然とヴィルヘルムを見上げた。


「君の遅すぎる成長期にサイズが合わなくなってきていたようですからね。もちろん今日中には新たな衣装が届くように手配済みです。着るものが無くなるなんてことはありませんから、安心してください」


 いつものように穏やかな笑みを乗せ、事も無げにそう言う彼に、リュクレスは言葉を失った。


 捨てた。


 その言葉に愕然とする。


 ……彼は貴族だ。

 欲しいものは買えばいい。だから、不必要と思えば、躊躇いもなく捨てることが出来る。

 それが、当たり前。

 その事実をまざまざと知らされて、さぁっと全身、血の気の引いていく音がする。


 ほつれたトゥニカを繕って直し、何年も着続けていたリュクレスとは違う。


 ……違うんだ。


 それはリュクレスを思いのほか乱暴に殴りつけた。

 生きてきた環境が全く異なるのだ。

 リュクレスにとって当然のことがヴィルヘルムにとっては当然でなく、逆もまた然り。彼に寄り添って生きていきたいのに、お互いの価値観が理解できないほど違うのかもしれないと言う事実に、リュクレスは恐怖して身を竦ませた。

 要らなくなれば捨て、欲しいものは買えばよかった彼と、簡単に手に入れられないからこそ、ものを大切に扱い、愛着を持ってきたリュクレスと。それはお互いに置かれた立場が違うからこその違いで、どちらかが悪いとかそう言うものではないのだろう。今だって、彼はリュクレスを喜ばせようとして、そうしてくれたのだと頭の中ではわかっている。


 わかっては、いるのだ。

 けれど。

 ……胸が軋んで仕方がない。

 だって、だって。


(ヴィルヘルム様の贈り物、だったのに……っ)


 唯の物かもしれない。

 ヴィルヘルムにとって、それは特別な贈り物じゃなかったのかもしれない。

 それでも。

 ヴィルヘルムがリュクレスを思って贈ってくれたものだから。

 それが、嬉しくて幸せで、リュクレスにとって、それは。


 ……とても、とっても大切な、宝物、だったのだ。


 それを何のこともない様に、ぽいと捨てられて。

 リュクレスにはどうすればいいのか分からなくなってしまった。

 彼が自分を喜ばせるために新しいドレスを贈ろうとしていることも、ちゃんとわかっているのに。

 なのに、素直に喜んでありがとうと言えない。

 彼にとって物は物でしかなくて、そんなところに想いなどなかったのだと、暗に言われた気がして悲しくなる。

 贈られたヴィルヘルムの想い、それを大切にしていた自分のその想いごと捨てられてしまった気がして。

 胸に刺さる棘をリュクレスは投げつけるかのように。


「ヴィルヘルム様なんて、大嫌い……っ」


 感情的な思いのまま、そんな言葉にして投げつけてしまった。

 それが、音となってしまった瞬間、はっととして口元に手をやる。

 ……なんて言葉を言ってしまったんだろう。

 言って、すぐさま激しい後悔に襲われる。でも、悲しさと悔しさを上手く消化できなくて。

 大切に思ってくれている相手に、幼子のように自分の感情も制御できずに、傷つけるような言葉を投げた自分があまりにも情けなくて。

 謝ることも出来ずに、彼の顔を見れないまま。

 リュクレスは踵を返し、卑怯にもそこから逃げ出した。






 震える声を詰まらせて、泣きそうな顔をして逃げて行ったリュクレスの背中を、ヴィルヘルムは唯々呆然と見送った。動揺のあまり、地面に根が生えたように足が動かない。


「なにやってるんですか」


 呆れたような従者に、ようやく我に返ったヴィルヘルムは、憮然とした顔で額に手をやった。


「新しいドレスを入れるために以前のドレスを処分したと伝えただけだ」


 そう、それだけのはずだった。

 初めはいつものように戸惑っていただけだった。顔色が変わったのは、ドレスを処分したとヴィルヘルムが口にしてからだ。

 わなわなと柔らかな唇が震えたかと思うと、すーっと顔色が失われ、水面のような瞳が潤んで揺れた。ヴィルヘルムは場違いにもその瞳の美しさに見とれていたのだ。


 そして、衝撃の言葉。


 一瞬、その意味を理解することを男の脳は否定した。

 身長が伸びて、始めの頃のドレスでは仕立て直しも難しいといわれ、それならいっそ買いなおそうと考えた。

 だが、気に入ったドレスでもあったのか?そうであるならば、彼女の意向を聞かなかった己にも非がある。

 それなら同じドレスをまた準備しよう。色違いにしてもいいかもしれない。

 そんなことを思いながら、ぼそりと口にすれば。


「あんた馬鹿ですか」


 ソルが本気でそう言った。


「貴方の知っている貴族令嬢と、あの子は違うでしょう」


「物を欲しがる子じゃないのはわかっている」


 ため息混じりにヴィルヘルムが返せば、ソルはさらに呆れて主を睨めつけた。


「全くもってわかってませんよ。貴方には服を買うことは容易い。与えることだってそうだ。でも、彼女はそうじゃなかった。施しを受けなければ、着る服にさえ困る所で育ったんです。その娘の前で、よくも捨てたなんて言いましたよね」


「……」


「重ねて言わせてもらえば、主、女心ってものを理解していなさすぎです」


「なんでお前がそんなに女心に詳しいのか知りたいものだな」


「主みたいに突っ立っていても女が寄ってくるような肩書きも外見も、俺は持っていませんからね。女性の感情の機微くらい多少はわかります。それでなくともあの子はわかりやすいんですから。」


 呆れた表情を消して、ソルは真顔でヴィルヘルムを見つめた。


「貴方からの大切な贈り物を捨てられて、あの子が傷つかないと、本気で思ってたんですか?」


 その言葉にヴィルヘルムは目を瞠った。

 漸く己のしでかしたことの拙さに気が付いたのだろう。彼は、大きなため息を付いて、片手で顔を覆った。

 ソルの言ったとおりだ。

 これは完全にヴィルヘルムが悪い。

 与えるだけ与えて、受け取られる喜びにしか目を向けていなかった。


 ヴィルヘルムからの贈り物だからこそ、あの子は、大切にしてくれていたのだというのに。








 離宮の中でリュクレスの行ける所なんて限られている。罪悪感と悔しい様な悲しさに子供みたいに逃げ込んだのは、どこか安心できる狭さの小さな暗闇の小部屋。

 衣装室の中にある隠し部屋だった。

 膝を抱えて涙の止まらない顔を伏せる。

 言ってしまった言葉は大きな棘となって、自分の胸にも突き刺さった。なぜならば、声となって相手にも届いてしまった言葉は、ヴィルヘルムを傷つけるものだから。

 言ってしまった言葉は取り返しがつかない。


 違う、嫌いなんかじゃない。


(ヴィルヘルム様を傷つけるような酷い言葉を投げつけて、……何をやっているんだろう)


 ごめんなさいと謝罪の言葉は頭の中で飛び交っているのに、贈り物を捨てられてしまったその事が、どうしても心のしこりとなって胸をじくじくさせる。


「ヴィルヘルム様の気持ちだって、思いだって言ったじゃないですか…っ」


 それを容易く捨てられて、悲しくて辛くてどうしたらいいのかわからなくなる。

 ヴィルヘルムからもらったものは全部が全部宝物だ。……大切にしたかったのだ。

 物が欲しかったわけじゃない。

 贈ってくれたその思いが嬉しくて大事にしたいと、大切だと思っていたのに。

 それが伝わっていなかったことが悲しくて、ぽろぽろと涙は止まらない。


 一体どれくらい泣いていただろう。大した時間ではない気もするけれど、よくわからない。

 こんこんと控えめなノックの音が届いて、驚いてリュクレスは顔を上げた。身じろぎに狭い室内で靴が壁に当たった音が響く。

 息を顰め、真っ暗な中、音のした方の扉を見つめれば、リュクレスの名を呼ぶ、ヴィルヘルムの声が届いた。

「リュクレス、申し訳ありませんでした。許さなくていいから、謝らせて」

 あんなに酷い言葉を投げたのに、ヴィルヘルムは変わらず優しい。それが申し訳なくて、やっぱり涙が止まらない。





 

 隠し部屋をこんなふうに立てこもるために使われるとは思わなかった。

 リュクレスの隠れた部屋の前に膝をつき扉に触れる。

 扉を隔てた向こうで愛しい娘が泣いている。遮るこの扉がリュクレスの心のようで、ヴィルヘルムは無理やり開くことができない。

 こんこんと、驚かせないようにゆっくりと扉をノックする。

 隔たる扉の向こうの恋人は、それでも驚いたのか、小さな音が中から聞こえた。

 問いかけに返事は返らない。

 けれど、堪え切れなかったのだろう小さな嗚咽が聞こえて、ヴィルヘルムは胸を軋ませた。


「君の顔を見て謝りたい。お願いです。ここを開けてくれませんか?」


 思いがけず口に出してしまった嫌いという言葉は、ヴィルヘルム以上にリュクレスを傷つけているのだろう。どう考えても、ヴィルヘルムが悪いのに、リュクレスはそう思っていない。

 何も持たない孤児と物に困ったことのない貴族。

 身分ではなく、その生きてきた生い立ちがふたりの間にこうやって横たわるとは思っていなかった。

 贅沢に慣れることは容易いようなのに、なんでも手に入るとしても彼女はそういったものを望まない。

 それでも、与えられる環境に戸惑いを隠して、ヴィルヘルムの貴族としての生活に一生懸命合わせようと努力してくれていたのだ。

 ならは、ヴィルヘルムもリュクレスの物を大切にする思いや、質素を旨とするその無欲さを大切にすべきなのだろう。

 ……与えたくてたまらないのに。

 与えるばかりで無欲な娘ゆえに。


「ごめんなさい。ヴィルヘルム様…嫌い、なんて言ってしまって」


 小さな謝罪が、扉の向こうから聞こえてくる。


「顔を見てしまうと、挫けてしまいそうで、こんな風に謝るなんて、ずるいけど」


 訥々と話すリュクレスの声が、掠れて。

 こつんと小さく扉の中で音がした。


「……好きです」


 吐息のような告白に、堪えが効かずヴィルヘルムはその扉を力任せにこじ開けた。


「わっ」


 小さな悲鳴を上げてまろび出てくるリュクレスを受け止めて、その小さな体を抱きしめる。


「謝らせてとお願いしているのに、先に謝ってしまうのだから。…狡いな、君は」


 その言葉に身体を縮こませるリュクレスが愛おしくて切なくて、絶対的に悪いのはヴィルヘルムの方なのに、まるでリュクレスのせいのような口ぶりで。

 …本当に狡いのはヴィルヘルムの方だ。

 少しだけ身体を離し、両手で顔を上げさせる。

 遠慮がちに伏せられるその瞳が、いつものように無邪気に明るく輝くところを見たい。


「本当にすみませんでした。君の気持ちを踏みにじるような行為をしてしまいました。気がつかなかったとは言え…いいえ、気がつかなかったこと自体、俺が悪い。物で君の関心を引こうとした子供のような俺を許して欲しい」


 物を与えて喜ばないなら、君に何が与えられるだろう?君が無くなってしまわないように、君を満たせるものは。


「ヴィルヘルムさまに話すことができて、ためらわずに手を伸ばすことができる。それだけでいい。十分。私にはそれだけで幸せです」


「もっと、求めてくれ。俺ばかり求めている気分になる」


 いつか、それが高じて君を食べ尽くしてしまうかもしれない。

 君にもなにか与えたい。


「いっぱい貰ってますよ?」


「俺が君に与えたいものを与えているだけだろう?そうではなく、君に、望んでほしいんだ」

 



 何かを耐えるような顔で言い募る男を、リュクレスは涙に濡れた眼差しで見上げた。

 優しく頬を撫でるこの手も、その温もりも。

 愛おしいと伝えてくれる言葉もその瞳の熱も。

 惜しげもなく与えられて、これ以上望むのは贅沢過ぎると思うけれど。

 ヴィルヘルムが本気でそう言っているのも理解してしまったから。

 その骨ばった優しい手に自分の手を重ねて。


「…いつか、ヴィルヘルム様との赤ちゃんが欲しいです」


 胸の奥にひっそりと仕舞い込んでいた自分の望みを口にした。




 かたがたと理性を薙ぎ倒すような強力な一撃に、ヴィルヘルムは昏倒寸前になった。

 そのために必要な行為のことを、リュクレスはきっと念頭にないのだろう。

 食らいつかなかった自分を褒めて欲しい。

 鋼の自制心がこんなふうに役に立つとは思わなかった、と、どこか自嘲しながら。

 きっと優しい母親になるであろう彼女に向かって、男は少しだけ困ったように微笑んだ。


「いくらでも……と言いたいところだけれど。子供と君を取り合う心の狭い父親になりそうだから。もう、しばらくは私に独り占めをさせてくれ」


 せっかく彼女がほしいと望んでくれたことは、結局ヴィルヘルムを喜ばせるだけのものだった。








****



 ……聞き終えたフェリージアは思わず額を押さえた。

 なんという、天然。

 気恥ずかしげに頬を染めているが、そもそも恥ずかしがるところが間違っていると思う。


「ねえ、リュクレス?」


「はい?」


「まさか貴女…赤ちゃんはコウノトリが運んでくると思っている……とか言わないわよね?」


「え?」


「赤ちゃんを望むということは、あの将軍に食べられてしまうことだって、……理解しているわよね?」


 ……

 …………

 きょとんとした眼差しでしばし考え込んだリュクレスが。

 ぽむっと全身を真っ赤に染め、自分のその言葉の意味に気がついたのは、あれから随分時が経った、今だった。


 狼はきっと虎視眈々と、その時を待っているに違いない。








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