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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
一部  恩返し
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20



頬のひんやりとした冷たい感触に、リュクレスは目を覚ました。


ぼやけた視界に、薄く埃の積もった木板の床が映る。

手の届きそうな距離に、一脚の木製の椅子。少し離れた所に配置された簡素な机の脚に沿って視線を上げてゆけば、天板の裏側が見え、机の足の間から向こう側に閉じた扉が見える。その低い視点にリュクレスは初めて自分が床に転がっていることに気づいた。

そこは、そっけないぐらいに飾り気のない見知らぬ部屋だった。


頭がズキズキと痛む。

頭重感に思考も鈍り、上手く考えが纏まらない。それでも、瞬きを繰り返し、痛みも我慢して身体を起こそうとした。肩に当たる床の感覚。床に手を付こうとして、引っかかる。前に出ない腕は、腰のあたりで戒められていた。

蹲るように身体を丸め、膝をつくと手を使わずに勢いで上半身を起こす。

途端にグラグラとした目眩が襲い、その気持ちの悪さに座り込んだまま、リュクレスは目を閉じた。ゆっくりと回復を待って、今の自分の状況を確かめる。

縛られているのは、手首だけだった。硬いところに寝かされていたために体中が軋むが、特に怪我はしていないようだ。立ち上がってみようと膝に力を入れるが、目眩に揺れる身体の、あまりの不安定さに立ち上がるのは諦める。


ようやく、自分の置かれている状況を思い出してきた。

笑顔のマリアネラ。

彼女は、王を暗殺する側の仲間だった。

頭の痛みは、意識を失う前に首筋に刺された何かが原因なのだろうと思う。なにか眠り薬の類だったのだろうが、まだ痺れのようなものが身体に残っている。

座り込んだまま、ぐるりと自分の放り込まれた部屋の中を見渡した。殺風景な室内に人気はない。質素な作りの漆喰の壁は一部、石組みが露出したままで、時折どこからかねずみの鳴き声が聞こえてくる。扉と向かい合う反対側の壁には高い位置に小さな窓。そこからは草の生い茂る地面が見えていた。どうやらこの部屋は半地下にあるらしい。部屋の隅には古ぼけた置物や家具、木箱や麻袋が乱雑に置かれており、一見して倉庫のようだ。

リュクレスは自分も荷物のように押し込められているこの状況で、この部屋に誰もいないことに少しほっとした。ここにいる人間は王に仇なすために、リュクレスを誘拐した者たちのはずだ。誰も居ない方が安心できた。

部屋の中は暖かいオレンジの光に照らされて明るい。

光の差し込む角度から、日が傾いているのはわかる。ただ、それが明け方なのか、夕方なのか、リュクレスには判断できなかった。


(あれから、どのくらいたったんだろう…)


意識を失い、離宮から連れ去られて、今起きるまでにどれだけ時間が経ったのか。

ソル様達は無事だろうか?

扉の向こうから聞こえていたのは、とても激しい衝突だったから。

無意識にため息が漏れる。

緊張感がぽかりと抜け落ちたように、リュクレスはぼんやりと窓を見上げた。

暗いところは苦手だ。

心細くて、不安で、怖くてたまらなくなるから、今この部屋に明るさに少しだけ救われる。

立て付けの悪い窓がカタカタと揺れて、埃っぽい室内に、隙間風が少しだけ土の匂いを運んできた。

かすかに湿った空気が、リュクレスに雨が近いことを教える。

雨の匂いは嫌いではない。

紗のように世界を隔てる静かな雰囲気も、雨音の刻む音楽のようなリズムも。

…唐突に起きた現実から、心はそっと逃避して、現実感を伴わずにいられたのに。

身近に感じる雨の匂いが、逆にこれが現実だと知らしめて。


…打ちのめされそうになる。


弱虫で、右往左往する心。


それでも。


自分が薄氷の上に乗っているかのような、剣呑な状況に置かれていることも理解しながら、リュクレスは、もう逃げようとは思わなかった。

確かに逃げたいと思っていた時は、逃げてはいけないと我慢した。

今は唯、自分に出来る事をするだけだ。

覚悟が決まったというよりは、捕まってしまった諦めや悟りに近いような感情だけれども。

なるようにしかならないという、開き直りなのかもしれない。

いろいろ考えると、怖いけれど。

ヴィルヘルムが望む結果がもたらされるまで、ここで頑張るために。

リュクレスは折れることなく、背筋を伸ばす。


首だけを巡らし、扉を見つめる。

誰もいないのではないかと思うくらいに、扉の向こうからは、物音すらしない。

見張りもいないのかもしれない。

「にゃあ」

「わっ!」

突然聞こえてきた猫の鳴き声に、リュクレスは文字通り飛び上がった。

草と地面しか見えていなかった窓の外に、カリカリと硝子を引っ掻く猫がいる。

小窓をスライドさせようと、隙間に爪に引っ掛けているところで、ようやく黒猫はリュクレスの視線に気がついたようだ。琥珀の瞳と目が合った。

「驚いた…猫かぁ…」

可愛らしい来訪者に、リュクレスはほっと胸をなでおろす。

一方、警戒するように動きを止めていた猫は、何かに釣られたように視線を外すと炯々と目を輝かせ、喉を鳴らす。

その視線を追いかけて視界に捉えたのは、部屋の隅っこを物陰に隠れながら、駆ける灰色の小さな影。

…なるほど。

硝子越しに、獲物を狙っている。

彼?彼女?の努力は、至って無駄ではないようだ。

紙が1枚挟めそうな程度だった窓の隙間が、リボンぐらいなら通せそうな幅に広がっている。黒い前足をそっとその隙間に入れ込んで、ぐりぐりと頭を押し付ける。

ガタリ立て付けが音を立て、また少しだけ横へとスライドした。

これではいつかこの黒猫が部屋に入って来てしまう。

しかし、侵入はともかく、脱出方法は考えているのだろうか?

「ここは危ないから、来ない方がいいよ。早く帰って?」

黒猫はもう一度リュクレスを見ると、首をかしげるような仕草を見せた。

リュクレスは少しだけ楽になった身体で、もう一度立ち上がろうと試みる。

膝を立て、足に力を入れる。少し足はふらついたものの、思ったより、目眩は軽く済んだ。

ゆっくりと、驚かせないように窓の方へ近づいていく。

見上げるようにして、顔より少し高い位置にいる猫に向かって笑いかける。

「ダメだよ。ここには怖い人がいるから」

手を伸ばしたいが、手首を拘束する紐は緩まない。直接紐に当たる皮膚が少し、擦れて痛んだ。

リュクレスのいう意味が伝わったのか、ただ単に警戒しただけなのか、黒猫はじっとリュクレスを注視した。カリカリと名残惜しげにガラスを引っ掻き、それから、しなやかな身体を翻し、草むらの中に消えてゆく。

「行っちゃった…」

小さく呟いて、リュクレスは残念そうに笑った。




それから毎日、日課のようにその猫が訪れることを今のリュクレスはしらない。





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