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終幕  結婚式



暦的には春半ば。


とは言え、冬の長いオルフェルノには漸く春の便りが届き始めたばかりである。

他国では新緑が輝き、風薫る鮮やかな季節だろうが、この国では風花が舞うことも珍しくはない。

いつもならば。


(……そのはず、なんだけどなぁ…)


リュクレスはどこかむず痒いようなくすぐったさを感じながら空を見上げた。

ほんのりと温かな日差しに、心地よいそよ風。

抜けるような青い空には薄らとした雲が呑気に泳ぐだけである。

なんて麗かな陽気なのだろう。まさに。

「お昼寝日和」

「……結婚式日和と言ってくださいよ」

のんびりとした呟きは、独り言のつもりだったのだけれど、どうやら隣にいる人にも届いてしまったらしい。エスコートしてくれるソルが、呆れ顔でリュクレスを見下ろしている。

えへへと笑って誤魔化してみれば、「仕方のない人ですね」と少しだけ肩を竦めて、彼は小さく笑った。

教会の入り口はすぐそこだ。

何となくもったいない気がして、少しだけ歩む速度が遅くなる。

それは意図せず二人とも同じだけ。

新郎の元まで付き添いを買って出てくれた人は、今日は黒い燕尾服に身を包み、白い手袋をはめている。褐色の肌に、漆黒の髪と黒曜石の瞳というその色彩だけでなく、すらりとしなやかなその立ち姿にとても似合っていて、迎えに来てくれた時は本当に見惚れてしまった。

「格好いいです」と言ったら、「主に八つ当たりされるのでその台詞はここだけでお願いします」と真面目な顔をして言われて、後ろで聞いていたトニアとレシティアが小さく噴き出していたのはつい先ほどの話だ。


「……泣くかと思っていました」

ふと、声が落ちてきた。

「え?」

「感涙の涙ですけどね。貴女は結構涙脆いから」

顔を上げると、ソルが前を向いたまま、ちらりと視線だけを向けていた。リュクレスは少しだけ考え込んで、首を傾ける。

「嬉しくて泣くのは、ヴィルヘルム様の前でいっぱいしたから……かもしれません」

「惚気?」

「ふえ?えっと、あの、そうじゃなくて」

慌ててそれを否定したら、ソルが面白そうに見ていたから、流石にからかわれたのだとリュクレスもわかった。やっぱり主従だからかなと、ふと思い出したのはヴィルヘルムのことだ。

「冗談です。続きをどうぞ?」

「ソル様、なんだかヴィルヘルム様みたい」

「?」

「ちょっとだけ、意地悪です」

「からかいやすいんですよ、貴女は。でも、俺は主ほど意地悪じゃないでしょう?」

どうやら、ヴィルヘルムみたいだと言われたことは不本意の様だ。表情こそ変わらないけれど、声だけがちょっとムッとしているのがわかる。

それが可笑しくて、リュクレスは笑みをこぼすと、その言葉に素直に頷いておいた。

それから、促されて、また惚気と言われないよう言葉を選びながら、答えを探す。

でも、やっぱり、リュクレスに選べた言葉はとても単純で、ありきたりなものでしかなくて、苦笑しながら訥々と話し始めた。

「幸せって、際限ないんですね。これ以上の幸せはないって思っていたのに、おめでとう、幸せにって言ってもらえるたびに、もっともっと膨らんで優しく包み込んでくれるんです。それが嬉しくて、私が笑うと皆も幸せそうに笑ってくれるから……ぽかぽかの日向に居るみたいに暖かくなって。だから、たぶん泣かない気がします」

本当にたくさんの人たちがリュクレスとヴィルヘルムの幸せを願ってくれている。それが嬉しい。

ほっこりと、胸を温めて笑顔をくれる。

だからきっと、今日は泣くよりもきっと笑ってられるだろうと、そう思うのだ。

「そうですか」

ソルはそう答えただけだけど、本当に優しい瞳でふんわりと微笑んでくれた。


「では、他の人にも、幸せのお裾分けをしに行きましょうか」

そう付け加えて。


教会の扉が開かれて、一歩踏み出す。

小さな聖堂の中を、ソルにエスコートされ祭壇の前までたどり着く。ゆっくりと手を離した彼は、いつもよりもずっと柔らかく微笑んでくれた。

「いつまでもソルと見つめ合っていないで、ほら、結婚相手は私でしょう?」

白い手袋をつけた左手がそうして攫われて、肩を竦めたソルがその場を下がると、ヴィルヘルムは少しだけ強引に、一歩リュクレスを引き寄せた。

紺青の髪は後ろに流され、いつもの眼鏡はしていない。髪に隠れていない耳朶には白銀のカフスが光る。金色の飾緒と光沢のある蒼いサッシュが飾られた白い軍服には、銀糸と美しい蒼い絹糸で刺繍が施されている。それはリュクレスの被る白いベール施された刺繍と同じ色をしていた。花と六華の刺繍は、上から白、銀、水色、そして裾に広がる蒼と、少しずつ色の深みを増していく。純白のドレスの上に白く透けるヴェールを纏う娘は、幾重にも大切に包まれた宝石のようだ。

じっとお互いを見つめ合う二人を、司祭は微笑ましげに見つめた。

何度繰り返そうとも、想いを通わせた者達を祝福するこの儀式は、司祭にとっても嬉しく誇らしいものだ。

花嫁が、この教会で育った娘であるからこそ、尚更に感慨深いものがある。

「あんなにも小さかった君が、こんなにも美しい花嫁になったなんて…通りで私も年を取るはずですね。素敵ですよ、リュクレス」

「司祭様…」

簡素な教会には王都の大聖堂のような荘厳さはない。けれど、人々の祈りの場は清浄な空気を纏って粛々としてそこに在る。悩み苦しむものを無条件に受け入れるその包容力と、身が引き締まるような厳粛さが相反することなく存在する場所で、色とりどりのステンドグラスの光が木漏れ日のように教会の中に降り注ぐ。

「さあ、手を取り合って。はじめましょう」

繋ぎ合わされた手を微笑んで見つめ、司祭はそう言った。

それを合図にリュクレスとヴィルヘルムの視線が祭壇へと向かう。


紡がれ始めたのは、恭しくも厳かな守護狼への祝詞。


経典を読み上げる司祭の優しい声が、朗々と身廊内に響き渡った。

長いようで短いような、リュクレスにとっては耳に馴染んだ経典の一節が読み上げられる。

捧げられる敬虔な祈りの言葉。

そして。

「愛し合う二人に祝福を。生きる糧を、平穏なる日常を。ともに歩む日々を、慈しみ合い、その手が離れることがないように」

贈られた祝福の言葉。

ぎゅっと握りしめた手は、痛いくらいに強く握り返された。

「さあ、誓いの口づけを」

二人を微笑ましそうに見つめていた司祭に、仕上げとばかりにそう告げられ。

恥ずかしさに頬を薄らと染めたリュクレスは、それ以上に溢れてしまいそうな幸福感に微笑んだ。

惜しまぬ愛情を注ぐ灰色の瞳に堪らなくなって、

「愛しています、ヴィルヘルム様」

気が付けばそう告げていた。

ヴィルヘルムは嬉しそうな微笑みを浮かべ、それに応えた。

「私もです。…生涯君を愛し続けることを君に、そして、この冬狼に誓いましょう」

ヴィルヘルムの頭上に、ステンドグラスの冬狼が見えた。目を伏せる狼のその表情が、ふと笑っている気がした。


優しくも愛おしいその存在に見守られて、リュクレスは目を閉じる。


柔らかな口づけが落ちてくるのはそれからすぐ後のことだった。























****





子供たちが声を掛け合いながら、楽しそうに走ってゆく。

さて、これで何人目だろうかと年嵩の女は畑仕事の手を止めて身体を起こした。

彼らの向かう先にあるのはこの町の教会である。

教会から引き返してきた子供が、他の子の手を引いて教会に向かう。

すると、今度は別の子が同じように引き返してきては、また他の子供を連れて行くのだ。

初めは気にも留めていなかった行動だが、子供の数が増えていくにつれて少しずつ興味が湧いてきた。

彼女は息を吸うと大きな声で、道行く子供たちに呼びかけた。

「そんなに急いでどうしたんだい?」

その声に子供たちは足を止めたものの、急いた様子で口を開く。その顔には「早く行きたいのに」と書いてある。けれど、同時に「聞いて聞いて」とも書いてあるのだから、全く器用なものだ。

「結婚式だよ、結婚式!おばさん、教会にすっごく綺麗なお嫁さんとお婿さんがいるんだって!」

代わる代わる答える子供たちの声は弾んで、きゃらきゃらとはしゃいでいる。

女は相好を崩して「そうかい、そうかい」と笑った。

子供たちの目は素直で、誤魔化しがきかない。

その彼らが言うのだから、花嫁と花婿はとても幸せなのだろう。

誰よりも美しく、誰が見ても輝いて見えるほどに。

「なら、あんたたちもいっぱい祝福しておやり。幸せにって私の分も伝えておいておくれ」

「はーい!」

「わかったー!」

返事をするのが先か駆け出すのが早かったのか、パタパタと足音を響かせて、彼らの姿は小さくなっていく。

満足そうに息を付いた女は仕事に戻ろうとして、はたと気づいた。

ほとんどが顔見知りと言ってもいいだろう小さな町だ。誰かが結婚するとなれば噂にもなる。

だが、ついぞ今日、誰かが結婚するなどという話は聞いたことが無い。

となれば、教会で式を挙げているのはいったい誰なのだろう?


「はて、こんな田舎にわざわざ式を挙げに来たのかねぇ…物好きな人もいたもんだ」


不思議そうに首を傾げ、陽射しを手で遮りながら教会を眺めやる。




その時。


カラン、カランと鐘の音が鳴り響いた。

祝福の音だ。

余りのタイミングに、女は声を上げて笑った。


「まあ、誰でもいいさね。お幸せになぁ!」

教会までは距離がある。きっとこの声は届かないだろう。

それでも、彼女は祝福の言葉を叫んだ。

誰ともわからぬ男女二人に、ただ幸あれと。






それが冬狼将軍の結婚式であったと彼女が知るのは、それから随分後の事。

吟遊詩人の謳う将軍の恋物語、その幸せな結末にこの町の名が謳われる時、彼女はいつもこの時のことを思い出し、笑みを浮かべるのだった。










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