祝福の欠片
リュクレス主人公に見せかけて、別の人のお話です。
かたんと何かを置く小さな音がして、それから。
「リュクレス様、終わりましたよ」
歌うように軽やかに、レシティアの声が届いた。
ゆっくりと目を開けると、化粧道具を置いたレシティアと鏡越しに目が合う。その顔に浮かぶのは輝かんばかりの微笑みで、朝早くから準備に追われていたというのに、疲れた様子はまるでない。楽しげな彼女の様子に、つられて頬を緩めると、手が伸ばされ丁寧にベールが整えられた。
「やっぱり、将軍にはもったいないと思うんですけど、…この衣装を見てしまえば、認めるしかないですよねぇ」
優しい仕草とは裏腹のどこか忌々しそうな口調に、リュクレスはなんと答えたらいいのやら…と、困ったような顔をして首を傾けた。
レシティアはリュクレス贔屓だから、ヴィルヘルムに対して手厳しい。本当に勿体無いのはヴィルヘルムの方だと思うけれど、本気でそう思ってくれているお姉さんのようなレシティアが大好きだから、リュクレスは否定も肯定もせず、少しだけ思案して、おずおずと尋ねた。
「少しは年相応に見えますか?」
流石に、似合いますかとまでは、聞けなくて。
彼女たちが今いるのは、教会の一室である。
古いが掃除が行き届いており、不潔には感じない。こぢんまりとした室内は簡素な作りで、置いてあるも家具も僅かなものだ。椅子が二脚に、小さな円卓がひとつ。それから年季の入ったチェストと、リュクレスが向かっている鏡台が壁際に置かれているだけである。どれも大切に使われてきたもので、リュクレスにはとても馴染み深いものだが、レシティアやトニアにとっては少し質素過ぎるように思える。だが、それを指摘しないのは、リュクレスの大切にしているものを、彼女たちも大切に思うからだ。
飾り気のない粛然とした室内で、唯一華やかなのはリュクレスの身に着けた花嫁衣裳だけだった。
ヴィルヘルムに贈られたその純白のドレスは素晴らしく美しい。
柔らかな流線を描くドレスは後ろに長く裾を広げ、光沢を放つ絹生地は動くたびに柔らかに煌めいては軽やかに波を打つ。
生地の上に淡く咲く銀糸の刺繍は控え目なものだが、一切の妥協なく細部まで丁寧に縫い上げられている。角度や光の加減で浮かび上がるその意匠は古くから伝わる花嫁の幸せを願う花紋様。乳白色の美しい真珠がまるで朝露の様に散りばめられ、とても上品に纏まったそれは、小柄で線の細いリュクレスにも良く似合う様に作られていた。結い上げられた髪、その頭上には白金のティアラが輝き、そこからベールが肩を滑り背中へと流されて綺麗なドレープを描いている。おしゃれなどとは縁のない所で育ってきたというだけでなく、基本的に興味の薄かったリュクレスでさえ感嘆の溜息しか出ないような素敵なドレスが自分に良く似合っている気がするなんて、思うだけでも図々し過ぎて口になんて出せはしない。
それでも、ヴィルヘルムがリュクレスに似合うと思うものを、リュクレスのためだけに作らせたのだと知っているから。彼の愛情に包まれているような温かい気持になって、くすぐったいような恥ずかしさに思わず頬を染めた。
だが、ふと、一人で百面相をしていることに気が付いて、慌てて我に返る。
顔を上げれば、目の前ではレシティアがトニアに宥められていた。
「レシティアさん?」
自分の挙動不審な行動に呆れられたのかと心配になって名を呼べば、それに応えたのはトニアの方だった。
「リュクレス様、心配は要りませんわ。余りの可愛らしさに抱きしめたいけれど、それをしたらドレスが乱れますからね。それを耐えているだけですもの。お気になさらず。…ですが、近寄ると襲われるので少し離れててくださいね」
などと、鷹揚に言ってレシティアを遠ざけるあたり、彼女もお茶目なものである。
「うう、ぎゅうぎゅうしたい」
小さな呟きは聞かなかったことにした方がよさそうだ。
なんだろう、身が絞り出そうな気がする。
「花嫁衣裳着ていて、よかったですね」
「ええと…はい」
結婚式前の緊張感を程よく解いてくれる二人に、リュクレスはほっと笑った。
そんなリュクレスの頬に温かくふっくらとした手が添えられた。慈しみ深い眼差しが、ほんのりと緩んで細められる。
「けれど、本当によく似合っておいでです。…貴女は素敵な女性ですわ。何も不安に思うことなどありませんよ。真っすぐ愛する人の胸に飛び込んでいらっしゃい。幸せな花嫁は世界で一番美しい女性なのですから、ね」
「はい!」
大らかな笑みに、リュクレスははっきりと返事を返した。
リュクレスを誰よりも綺麗にしてくれようとするレシティアもこうして背中を押してくれるトニアも、リュクレスの幸せを願ってくれている。
胸を張って前を向こう。
躊躇うことなくヴィルヘルムに手を伸ばせる自分でいよう。
愛する人と共に居ることが出来て、こんなにも自分とヴィルヘルムを祝福してくれる人たちがいる。
これ以上に幸せなことなんて、きっとないに違いないのだから。
(私は幸せです。……だから、いつか貴女も、自分の幸せを思い出せるといい。ずっと、そう願っているから)
そっと視線を窓辺に流す。
今、そこには人気のない中庭があるだけだけれど。
振り返ることなく走り去っていった背中を思い出し、リュクレスはそこに居ない一人の女性に、心の中でそう告げた。
****
リュクレスが窓辺に視線を投げたことに、トニアは目敏く気が付いていた。
何度となく、窓の向こうを気にしていたのは知っていたが、リュクレスの気を引くものが何なのかトニアには確認することが出来なかった。
彼女の視線の先には、緑の中庭があるだけだ。
茂みに落ちた陽の光が風に揺れる度にきらきらと葉を輝かせている。
外はとても明るく、長閑なものだ。
無造作に置かれた木のバケツや壁に立てかけられた土に汚れた鍬。無造作に積まれた麻袋が生活感を漂わせて、そこにあるのは良くある日常の光景でしかない。
しかし、何の変哲もないその中に、リュクレスは何か見つけたのだろう。
「彼女が来ていたのですね」と、尋ねてみたかったが、その瞳にトニアは口を噤んだ。
たぶん、尋ねても答えはしないだろう。彼女は弱々しげに見えてとても頑固なところがある。だから、己を裏切った相手でさえ、信じて手を伸ばす。
だが、全ての人間を無条件に信じるほど無警戒でも、恐れることを知らない無知でもない。そして、自分が裏切られないと盲信するほど愚かでもなかった。
その彼女が、まだ信じる女性。
(…彼女も祝福をしに来たのね)
あの離宮で、リュクレスに影響を受けなかった人間はたぶん少ない。
その中で、将軍と同じくらい、きっと変えられてしまった人。
そして同じくらいに、リュクレスの幸せを望んでいる人。
それなのに、きっと二度と傍にいることは出来ない女性。
赤毛の侍女を思い出し、トニアは静かにリュクレスの横顔を見つめた。
****
懐かしい顔がそこに在る。
彼女たちは相変わらずあの少女を主人と慕い、その傍で笑っていた。1年近く経つというのにあまりにも変わらない風景に、マリアージュは思わず笑う。ふいに、レシティアが慌て始めた。身振り手振りからすると、どうやら忘れ物をしてきたらしい。しっかり者の癖にどこか抜けている彼女らしい失敗だ。それを宥めるトニアの方は慌てても表情を変えてもいないから、何かで代用の利く程度のものなのだろう。
黒髪の少女に何事かを伝えると、彼女はふんわりと微笑んで頷いた。
侍女二人が一礼して部屋を出ていく。
一人になった少女はほっと息をつくと、窓の外に視線を向けた。
どきりと心臓が躍る。それは驚きのためか、それとも昂揚する感情故か。
ふふと声なく笑みを零し、室内からは死角となる壁際に寄ると軽やかに窓枠をノックした。
コンコンと、小さな音に。
期待通り、窓は開け放たれた。
驚いた様子もなく、小さな声が女の名を呼ぶ。
「やっぱり、…マリアネラさん」
窓越しに立つ元の主に、赤毛の美女は妖艶な笑みを向けた。
「ふふ、お久しぶりですわ。リュクレス様」
その表情に毒々しさはない。侍女として傍に居た時のような雰囲気に懐かしさを感じ、少女は少しだけ微笑んだ。
柔らかな表情に警戒の色はない。警戒心が薄いわけでもないのに、怖がりもしない彼女に、マリアージュの方が苦笑した。
「どうやらお気づきになっていたようね。どうして?」
「マリアネラさんの赤い髪はとても綺麗で目立つから。緑の中では特に」
「あらあら。私としたことが」
目敏い子。
隠れるのは得意なのに。
やはり、マリアージュに気が付いて、侍女が下がってから窓の外に視線を投げたというのは間違いないらしい。
艶やかな紅を引いた唇を引いて口元だけで嗤うと、綺麗に爪を伸ばした美しい手を柔らかな頬に触れさせる。
「ねえ、リュクレス様。私のことが怖くはないの?憎くは?人形として、人格も無視して貴女に恐怖と痛みを与え続けたのは、私よ?」
美しい面に歪な微笑みが浮かんだ。
泥のような粘っこい狂気が、自嘲と共に溢れ出す。それは自制を越えて、マリアージュを飲み込もうとする。馴染んだ感覚だ。
ふと、温かな感触が、頬に触れた。
建物の中に居る分、立つ位置はリュクレスの方が高い。少し前に屈むようにして伸ばされた手は、マリアージュの両頬を包んでいた。
「マリアネラさんは、ちゃんと守ってくれましたよ?」
慣れない温かさにマリアージュは灰緑色の眼を見開き、立ち竦んだ。その言葉に、声に責める色はなくて、マリアージュが好きだと思ったその優しい響きが、空が溶け込む湖のような瞳とともに向けられていることに、呆然とする。
「……」
「痛い思いもしたし、怖かったし、苦しかったけど。マリアネラさんは、ずっと、謝っていてくれたでしょう?」
「聞こえていたの…?」
「はい。マリアネラさんの中の感情はマリアネラさんだけのものだけど、私が感じたことは私の感情だから。いらないって思われるかもしれないけれど感謝したかったんです。貴女がいてくれたから私は離宮で孤独を感じることがありませんでした。…文字の練習に使っていた板と白い石。私が大切にしているのを知っていて、マリアネラさんがとても大切に扱ってくれるのが、本当に嬉しかったんです。時々からかわれたりしたけど、一緒にお茶を飲んだり、刺繍をしたり。貴女と話すのは、本当に楽しかった。とても綺麗で優しいお姉さんが出来たみたいで、嬉しかったんです。だから、一番伝えたいことは、やっぱり感謝なんです」
それは、貴女の信頼を得るための演技でしかなかったのよ?
笑ってそうやって返すこともできたはずだ。
甘い子ね、そんな風だから騙されて痛い目に合うのよ?
今だって、やろうと思えば彼女を攫うことは容易い。危険人物であると知っていて、一人で相対したのだから、自業自得でしかない。
このお人形が欲しいなら、攫って行けばいい。
頭の中で、悪魔が囁く。
信頼に信頼で返さなければいけないなんて、そんな甘いこと、この世界では通用しないのだから。
それなのに。
マリアージュの葛藤さえもわかっているかのように、リュクレスはマリアージュから手を離さず、真っすぐに見つめてくるのだ。
とても、酷いことをしたのに。笑えない人形の様な娘を胸に抱いて、痛みに苦しむ彼女が逃げ出せないことに、マリアージュは歓喜さえしていたというのに。
「ありがとうございます。お祝いに来てくれて」
彼女はありがとうと、感謝するのだ。
ぽつりと落とされた言葉が、暗闇の中に明かりを灯す。
綻ぶ笑顔に、色褪せた感情が仄かに色付く。
「……貴女が無事で良かった」
その笑顔がなくなることがなくて、…本当に、良かった。
呆然としつつ、安堵を含んで。
呟きは、無意識に零れた。
それを機に、あふれんばかりの色彩が堰を切って零れ出す。
呑まれるような奔流の激しさに、マリアージュは狼狽えた。
日溜まりのようなリュクレスの傍はとても居心地がよくて、…けれど、澱のような狂気に囚われた女には、眩しすぎた。
この胸に沸き起こる情動が、鮮やかすぎて今の自分には戸惑いしかないから。
これほどに心は求めるのに、…彼女の傍には居られない。
触れる温度を心地良く感じるのに。
狂気は渦巻いて混乱し、暗闇の静寂を求めて、己の大切な太陽を打ち落としてしまうだろう。
だから、遠くから見守ろう。
壊れ物を扱うかのように、そっと、少女の頬から手を離し、一歩離れる。
それだけで、彼女の手は届かなくなった。
伸ばしていた手をゆっくりと下ろし、リュクレスは窓の縁をぎゅっと握った。
多分、二度と会うことはないだろう。それを彼女も気が付いている。
忘れればいい。そんな風に思うのに。
ふわりと、リュクレスは笑った。マリアージュが欲しいと思った笑顔で彼女は願いを口にする。
「家族を思うように、貴女の幸せを願います。いつか……」
リュクレスが、その先を言葉にすることはなかった。
いや、もしかしたら言っていたのかもしれない。けれど、その言葉はマリアージュの耳には届かなかった。
続きを聞くことができず、逃げるように彼女の前を去ったからだ。
周りを気にすることも忘れ、走る勢いのまま、並ぶ馬車の一つに乗り込む。
腐って痛みすら感じることを忘れた傷が、じくじくと痛んだ気がした。
叩き付ける鼓動を感じることが懐かしい。
それは、あの少女と、今包み込んでくれる不器用な男のおかげなのだろう。
飛び込んできたマリアージュを受け止めて、いつもと違う様子に気が付いているだろうに男は何も言わない。
動き出した馬車の中、しばらくして男の心音に気が付いた。
ゆっくりとした鼓動に落ち着きを取り戻し始める。
温かい腕は、マリアージュを弄ぶものではない。
スナヴァール王の愛妾と知っていて、彼女を囲うこの腕は…退屈な程刺激のない日常を与えるだけで見返りを求めない。スナヴァールとオルフェルノ両国からお尋ね者になっている己を隠す男の立場は非常に危ういものになっているというのに。
「私みたいなのが幸せになっても良いのかしら」
ぽつりと、呟いた。
享楽を求め、人の不幸を蜜にして、好きなように生きてきた自分が、こんなにも穏やかな温もりを求めることを許されるのだろうか。
「君の会いたかった相手は、君に何を伝えた?」
心地よい低音が耳元で囁く。
「感謝の言葉…幸せを願う祈りの言葉…」
「ならば、幸せになるべきだ」
何とも都合の良い考え方だと自嘲する。
「憎まれている相手の方が多いくらいなのに?」
「それでも。たったひとりでも、幸せを祈ってくれる人がいるのなら、その人のためにも幸せになるべきじゃないか?それは、相手も幸せにすると思うよ?今あなたが、幸せそうに笑っているのと同じようにね」
マリアージュの皮肉に気付いていながら、男の反応は揺るぎのないものだった。
虚を突かれたのは、己の方。
男の胸に手を付き、距離を取る。正面から見据えた男は静かに微笑んでいた。
「…私、笑っていた?」
「ああ、とても素敵な笑顔だった」
「あら、あら」
どうしたことかしら。
頬が冷たい。
震える声は、嗚咽に戸惑う。
陽だまりは不似合いだと、逃げるように離れてきたのに。
今ここは、暖かいのだ。
(ねえ、リュクレス。貴女はこんな私の幸せを、願ってくれるのね…)
瞬くことも忘れ、零れ落ちる涙をどうすればいいのかわからないマリアージュに、男は苦笑した。
「貴女は、泣くことも笑うことも下手くそだな」
「…貴方に言われたくありませんわ」
拗ねたような言葉は、男をあしらうことに長けていた女にしては少しばかり情けないものだった。
賛否あるかもしれませんが、私はどうしても彼女にも幸せになって欲しかった。幸せを忘れてしまった女性が、本当に欲しかったものに気が付けるようになるまでは、もう少し時間がかかると思うのですが、支えてくれる人がきっと一緒に見つけてくれるのだと思います。




