幕間 幸せを願う者
まだ、日も地平に近い明け方の頃。
空気すら凍りついたような静寂の中、軋んだ音を響かせて扉が開いた。
石造りの建物から出てきたのは黒いトゥニカを身に纏う年嵩の女性であった。
細身ながらその姿勢の良さに弱々しさは感じない。トゥニカのフードは背中へと下ろされ、露わになった顔は気難しそうだ。きっちりと後ろでひとつに纏められた白髪混じりの髪型が生真面目な性格を伺わせている。彼女は修道女であった。清貧に、厳格に神に寄り添う存在。
この修道院の院長でもあり、名をラジミュールと言った。
外に出た彼女を、ひんやりとした冷気が包み込む。
足早に秋は過ぎ去り、すでに目の前には冬が迫っていた。
ぐっと落ち込んだ気温に、吐く息が白い。
遠目に見える山肌はまだ紅葉を残しているが、山頂の方はうっすらと雪化粧をし始めて白く、僅かに朱色を織り交ぜたような空色と、新雪の隙間から覗く赤と黄色が見事に親和して重なり合っている。
指を組んだ手を口元に寄せ、悴んだ指を吐息で温めながら彼女はそれを眺めやっていた彼女は、視線を戻すと何かを探すようにその場で立ち尽くし、耳を澄ませた。
「ラジミュール様」、と。
どこからか名を呼ぶ声が聞こえてくるのではないか、そんな気がして。
それが己の願望でしかないことをわかっていながら、そうせずにいられない。
あの子はいつも誰よりも早く起き出して、皆のために井戸水を汲んでいた。
凍えんばかりの水に、しもやけの出来た幼い子供たちの手が少しでも悴むことがないようにと、彼らの使うお湯を準備しておくためだ。
戻ってきた娘の頬は寒さに真っ赤になっているのに、彼女は朗らかに笑って、ラジミュールへと朝の挨拶をする。
朝日に淡く光に烟る黒い髪、きらきらと輝く柔らかな藍緑の瞳。年相応には見えない成長の遅れた細い身体。その理由が、ひもじい思いをしている年少者へ自分の分の食糧を分けてあげているからだと知っていて、ラジミュールには止めることが出来なかった。
多くの孤児を育ててきたラジミュールにとっても、その娘、リュクレスは本当に優しい娘だった。神に仕えるに相応しい敬虔さと労わりの心を持ち、誰かの笑顔をとても大切にする愛らしい少女。自分を慕う年少者にたどたどしくも、優しく読み聞かせをする彼女を、いつの間にかラジミュールは本当の娘のように思っていた。
ずっと、この教会に残るものと思っていた彼女がいなくなってすでに一年。
ラジミュールは未だに、ふとしたときにリュクレスを探してしまう。
当然、その姿があるはずもないと、わかっているというのに。
胸に燻る寂しさを振り切るように流した視線が、何気なく向けた先に来訪者を見つけて止まる。
(珍しい。こんな早朝に…)
開け放たれた教会の門の外に、その姿はあった。
立派な青毛の馬に跨った男性だ。顔は見えないが、手入れの行き届いた馬も、馬上の男の服装も彼が相応の身分であることを知らせている。だからこそ、修道院に縁のある者には到底思えず、不審に思ったラジミュールは相手をじっと見つめた。その視線に気が付いたのだろう。男は馬を降りると、手綱を引きながらゆっくりと近づいてくる。しかし、その容貌はフードに隠され、近づいても窺い知ることは出来なかった。
警戒心を隠すことなく厳しい顔を見せる彼女に、相手はそれを感じ取って軽く笑うと、フードを落とした。
さらりと揺れて現れたのは、紺青の髪。
黒い旅装に身を包んだ男は灰色の瞳を和ませると、優雅に礼を取った。
「突然の訪問をお許し願いたい。貴女がラジミュール殿ですか?」
その低く落ち着いた声色に、ラジミュールは短い驚きから立ち直る。
「ええ」
「失礼、私は」
「冬狼将軍様。そのお姿を拝見すればわかります」
男は目を瞬かせ、それから苦笑して頷いた。
本当は、容姿ばかりではない。
リュクレスから届いた手紙の中に彼の名があったからこそ、結びついただけである。
それほどに、縁のない人物。だが、そんなことはおくびにも出さず、修道女は用向きを問うた。
「何か、私に御用でしょうか?それとも司祭に?でしたら中へご案内いたしますが」
彼は思案げに首を傾げると、ほんの少しだけ目を細めた。
「そうですね。どちらかと言えば貴女に用がある。ただ、できれば先に聖堂を見せて頂けないだろうか?」
何か、意思を秘めた眼差し。それに気付きながらも、将軍の意図を読み取ることができない。
「…こちらへ」
ラジミュールは無為な詮索を止め、彼の望み通り、聖堂へと案内した。
それほど大きくない教会の敷地である。聖堂は、彼らの立っていた場所からは目と鼻の先にあった。辿り着いた先の正面の質素な扉を開くと、ラジミュールは端に避け将軍へと、場所を譲った。
こぢんまりとした小さな聖堂は入口からでも全てが見渡せる。薄暗いながらも、身廊内には色とりどりの光が降り注いでいた。石畳に映るその絵姿に目を落とした男は、ゆっくりした足取りで中へ進むと、ステンドグラスを見上げる。
それは静謐で、穏やかな世界。
緑と、黄色、桃色の草原の中、モザイクの紺色の狼が静かに伏せ、灰色の眼に深遠なる光を湛えてこちらを見下ろしている。
「敵わないな」
将軍は、ぽつりと呟いた。その横顔にあったものは、諦めのような苦笑。
後ろで沈黙を守るラジミュールを、彼は振り返った。どこか厳しさを纏わせたラジミュールの優しさを恋人から聞いていたから、彼の表情は穏やかなままだ。
「ラジミュール殿、貴女に許可が頂きたくて、私はここへ来たのです」
「…許可、ですか?」
初めて、ラジミュールが戸惑いを見せた。
将軍に許可をするようなことなど、思い付きもしない。
彼は、そうして戸惑う事を予想していたのだろう。
やんわりと微笑みながら頷いた。ただ、向けられた視線が、離れない。
「はい。私にリュクレスをください。彼女の母代わりである貴女に、彼女との婚姻を認めて欲しい。」
「!」
ラジミュールは目を瞠り、声もなく男を見つめた。
真摯な眼差しからは、偽りも何らかの思惑も読み取れはしない。
身分の差に対する躊躇いも、迷いすら欠片もなく、請うような言葉なのに、深い灰色の瞳は是という返答以外、認めるつもりはないと告げている。
驚きを飲み込めば、彼が何を求めているのか訝しさの方が先立った。
ラジミュールは慎重に言葉を選ぶ。
「…あの子は、なんと?」
「もちろん求婚を受け入れてもらいました」
「ならば、私の許可など必要はないでしょう」
本当に将軍がリュクレスを望むのであれば、そして、リュクレス自身も彼と共にいることを選んだのならば、ラジミュールに余計なことを言う必要はない。
無論、こちらの許可など不要であると、知っているはずだ。
失礼と取られてもおかしくないほどぴしゃりと言い切るラジミュールに、気分を害した様子もなく彼は静かに微笑した。
「先程も言った通りです。貴女はあの子にとって、母親のようなものだ。彼女には、皆に祝福をされて私の花嫁になって欲しい。幸せになってもらいたい」
そう言って、もう一度ステンドグラスを見上げる。
「この冬狼のように、これほどに無欲な眼差しで彼女を見守ることは、私には出来ない。強欲なただの男だ。それでも、できる限りあの子を守りたいと思っている」
その瞳に宿る温かな光が偽物だとは思えない。それでも、ラジミュールは頷くことが出来なかった。
「……あの子は、貴方も知っての通り孤児です。貴族に囲まれて、幸せになれるとは思えません」
膝を付き、頭を垂れるリュクレスの姿。その細い項を黒い髪が滑り落ちるのを思い出せば、その懸念を捨てることは出来ない。
肩身の狭い思いはさせたくない。あの笑顔が曇ることを避けたいと願うのは当然のことだろう。視線を戻した将軍は、そんなラジミュールの厳しい眼差しを真っすぐに受け止めた。
「ここでの貴族たちの対応は、あの子を見ていればわかります。ですが、貴族とて愚劣な者ばかりではない。王も、私の周囲の者たちも、誰ひとり、彼女を妻に迎えることに反対をしませんでした。それどころか、彼女を守る協力をしてくれている。…卑しいなどと言わせない。必ず、守り通す。ですから、どうか。貴女にも認めて欲しい」
「許すと、その言葉以外をお受け取りにはならないくせに?」
「それでも、です。彼女が幸せそうに微笑むのを見てしまえば、手放すことなどできない。彼女も、私を望んでくれたから。だが、あの子の大切な人に祝福してもらえることが、彼女を幸せな笑顔にするとわかっていて、それを諦めることもできない」
「…あの子の幸せのためだと?」
「周りの幸せの為に頑張っていた子です。彼女が幸せになるように願う者が現れてもおかしくはないと思いませんか?」
「……」
「私は、誰かのためではなく、彼女が自分自身の幸せに笑うことができればいいと思っています。彼女の笑顔は…胸を温かくしてくれる。幸せになって欲しいのです」
「貴方は、慈悲の心であの子と結婚をしようとされるのですか?…それは、あの子を幸せにはしません」
「はじめに言ったでしょう?私は強欲なただの男だと。小さく弱そうに見えて、自分の足で立ち、人の心を癒す野の花のあの強さと優しさに惹かれたのです。言葉を飾らないのであれば、ひとりの男としてあの娘が欲しい」
恋をしたのだと言葉にする男は、ほろりと優しい顔をした。
(ああ…真実なのね)
重ねられた言葉よりもその表情が、何よりも男の心情を表していた。
彼は表面だけでなく、深くリュクレスを理解している。そして、娘を大切に思うその想い故に、アズラエンから自ら馬を走らせて、此処までやって来たのだ。
愛する娘を笑顔にする、それだけのために。
リュクレスが憧れ、慕っていた将軍が、それほどに、今彼女を愛している。
ラジミュールは溢れ出しそうになる歓喜の感情を深呼吸ひとつで抑えつけると、姿勢を正し、静々と将軍に向け深く頭を下げた。
「…あの子を宜しくお願いします。どうか、幸せにしてあげてください」
自分にだけ向けられる、ほんの少し甘えるようなその微笑みを思い浮かべる。
僅かに相好を和らげたラジミュールに、ヴィルヘルムがふと尋ねた。
「ひとつ、お聞きしても?」
「なんでしょう?」
「なぜ、リュクレスを修道女にしなかったのですか?」
修道女になりたいと彼女なら望んだのではないか。
敬虔な信仰、そして、慎ましやかな生活を望む彼女を知るからこそ。
そう問われ、ラジミュールは淡く微笑んだ。
「娘の花嫁姿を見たくない母はいないでしょう」
子供のころから我慢が上手なあの子には、この先清貧、貞潔を捧げる修道女としての道を進むのではなく、誰かの隣で穏やかに笑っていてほしかった。
「その願いを、貴方が叶えてくれました。感謝します」
そう言った彼女は、その時自分が厳しくも優しい母親の顔をしていたことを、きっと知らない。
血は水より濃しとはいうものの、そうでない繋がりも確かにあるのだと。
目に見えない繋がりを見るように、ヴィルヘルムは目を眇め、微笑む。
「ここで、式を挙げさせてもらえませんか?彼女を幸せにすると、この守護狼に誓いたいのです。そして、貴女に。彼女が幸せな姿を見せたい」
あの子と式を挙げるのならば、きっとこの場所が最もふさわしい。
言い添えたヴィルヘルムの言葉に、声を詰まらせたラジミュールが、自分の感情の揺れを見事に律して嗚咽を飲み込む。
「ありがとう」
告げた感謝の言葉は、少しだけ震えていた。
こうしてヴィルヘルムは着実に準備を進めていたのだけれども。
リュクレス自身にこの話が伝わるには、暫しの時間が必要となる。




