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ノルドグレーンの領主、クレイグ・ブロム・エドファルトは輝かしい武勲を上げながら、それに奢ること無く、礼節を忘れないこの年若い将軍が嫌いではなかった。しかし、個人的な感情とは異なるところで、警戒心を抱いていたのも事実である。

王に忠誠を誓う聡明で勇敢なる騎士。彼に助けられた者は多い。

ノルドグレーンとて、8年前、彼が援軍として駆けつけてくれなければ、戦場となった領都をあれほど速やかに奪還することは出来なかったはずだ。

…繰り返す悔恨。当時の忸怩たる思いがまざまざとよみがえる。


もう少し早く、彼が辿り着いてくれたのならば。

より多くの人命が、救われたのではないか。


それは将軍を責めるものではない。責めるとすれば己自身。

将軍の足を止めさせたのは今までの慣習であった。非があるとするならば、彼ではなくそれを打ち破ることをしなかった今までの領主たちなのだ。

足を引っ張る古き慣習と、覆ることの無い圧倒的な戦力差。それを言い訳にすることなく将軍は全力で戦い、国の損害を最小限に止め、最終的には勝利を勝ち取った。

謝意と敬意の念を抱くことはあっても、彼を恨むことなどあろうはずもない。

血と泥に汚れた鎧を纏い、灰色の瞳の鋭さはそのままに、「援軍に来ました」とにっこりとほほ笑んだ今よりも若い青年を思い出せば、確かめることもない小さな疑問が胸に湧く。

あの惨劇の場で、リュクレスは将軍に助け出されたのだと聞かされた。

ならば、あの時、彼はすでに彼女と出会っていたのだろうか?

小さな出会い以外に何の接点もない、住む世界の異なる二人。

そんな彼らが確かに絆を繋いでいるのだから、運命とはなんとも悪戯なものだ。


目の前に居る男は相変わらず穏やかでありながら、すでに将軍としての貫録と落ち着きを兼ね備えている。彼の影響力は、王の右腕ということを差し引いても、もはやだれも無視できまい。

王の臣として彼が信頼に足る人物であるというのは今までの行動で証明されている。

彼が力を得ることは、そのまま王を支える力となるだろう。

そう納得しながら、底の見えない彼の思惑とその行動力は不安を煽る。


一臣下としてはあまりにも。

彼は天賦の才を与えられすぎている。


望めば国を転覆させることは難しくないのではと、猜疑の火種を燻らせてしまうほどに。 

そんな本能的な感覚が、彼との近からず遠からずの距離を決めさせたと言っても良い。

だが、それを否定したのは他でもない、王だった。

「王族のルーウェリンナと結婚することもできたのに、大貴族に身分差の結婚を承諾させ、教会の庇護まで取り付けてまであの娘を望んだあいつが、高々権力なんかのために反乱を企てるはずがないだろう。争いが彼女に辛い思いをさせたと知っているんだ。己の全てを使って、何が何でも平和を維持しようとするだろうさ。万が一、あいつが俺に剣を向けることがあるとするならば。それは、俺が道を誤ってもう戻れなくなった時だろう。見張っておくならば俺にしておけ」

その口調はいつもの様に軽い。しかし、己の背中を預ける親友が信頼されていないことが我慢ならないとでもいう様に、その眼光は鋭かった。

王と将軍のとの絆。

そして、恋人を愛おしそうに見つめるヴィルヘルムを実際に見てしまえば。

王の言葉は真実なのだろうと胸に落ちる。


神の名を戴いて違和感のない男は、けれど。

確かに、その天賦の才を。

…ただ一人の娘を幸せにするためだけに使う気でいるのだ。


憂慮すべき疑念が消えたことは喜ばしい。

だが、しかし。

そうなると、余計なことが気になりはじめるのだから、人の心とはやっかいなものだ。


…彼程の容貌の男がこうもあからさまに愛を告げるのを見ていると、なんとも軽薄に感じるというのは、やっかみというものであろうか?

どこか不愉快な感覚に眉を寄せる。

将軍に厳しい目を向けていた伯爵は、彼の視線が流れるのを目で追って、視界の端へと視線を転じた。

そこにはじっとこちらを見つめるアリシアの忘れ形見。

目が合えば、綻ぶようにふわりと笑う。

「……」

幼い頃から変わらない笑顔に、いろいろ考えていたことなど無言で脇に置いて、手が伸びる。ほとんど無意識の行動でぽんとその頭に手を置いてから、初めて、頭を撫でたかったのだと気が付いた。ぎくしゃくときごちなく少女の頭を撫でる。慣れないその手つきは乱暴で、その柔らかな黒髪を鳥の巣のようにしてしまった。

そんなつもりはなかったのだ、断じて。

「……すまない」

居た堪れなさに謝罪が零れる。

それを聞いたリュクレスは目を瞬かせ、それから、また笑った。

「大丈夫です。気にしないでください」

朗らかなその表情に、数年前の姿が重なる。

細い身体は変わらないが、随分と娘らしくなった。

それでも。

その反応も、和らぐ瞳の中の光もあどけなく胸に残るその笑顔も、なにもかもが、あの時と。

「…本当に、変わらないな。君は」

「え?」

リュクレスが髪を直していた手を止めて、不思議そうに見つめてくる。ノルドグレーンは曖昧に笑った。

「…一度だけ、修道院に訪ねて行ったことがある」

覚えていないのなら、それでもいい。小さな呟きはリュクレスの耳に届いた。

「君にうちの子にならないかと…」

「あ」

「思い出したかね」

「は、はい」

頷く少女の頭に、横から将軍の手が伸ばされた。ぼさぼさになった髪を器用にも指で梳いて整えていく。その行為に、リュクレスが顔を上げると、彼は話を戻すように尋ねた。

「忘れていたのですか?物覚えの良い君にしては珍しいですね」

首を傾げられて、娘は困ったように眉尻を落とす。

「…そのこと自体は覚えてはいたんですけど…。ええと、あの…領主様と繋がらなくて…」

言葉を濁すその様子に、将軍が、殊更優しく微笑んだ。

「怖そうだったからわからなかったと、素直に言っても大丈夫だと思いますよ?」

厳格で通ってきた自覚はある、怯えられるのも珍しいことではない。

だが、しかし。…笑顔で言う内容ではないだろう、将軍。

「ヴィ、ヴィルヘルム様!違いますっ」

口角を引きつらせるノルドグレーンには気付かず、娘は慌てふためいて、揶揄する男を止めようとしている。その行動が男を喜ばせているなど娘はきっと気が付いていないに違いない。意地の悪い男だ。

(もう少し独占欲の控えめな、誠実な男の方が良くはないか、リュクレスよ)

親の心子知らず。

実際、親子ではないが、その心情的にはあながち間違ってはいないはずだ。

心の中だけで訴えかけながら、不機嫌な顔で将軍を睨めつける。だが、当の本人はどこ吹く風…どころか、むしろ愉しそうだ。

「え、えと、初めはちょっと、怖かったけど、もう怖くないですよ?本当ですよ?」

…そうか怖がらせたか。

リュクレスの言葉に将軍への文句も忘れ、こっそりと落ち込んだ伯爵は、そのあとに続いた言葉にすぐさま浮上した。

はじめはともかく、今は怖がられていない。

記憶の中の少女も、怖がることなく笑顔を向けてきたことを思い出す。

身分を隠して修道院に行ったあの日、元気に遊ぶ子供たちの声が響きわたる中庭で、建物の壁に掴まり、切り出しただけの簡素な木の枝を杖替わりにして歩く練習をしていた少女。危なっかしい足取りに、転びそうになった小さな身体を支えると、彼女は大きな眼で彼を見上げ、無邪気に笑ってお礼を言ったのだ。

向けられたあどけない笑顔に、挨拶も、事情説明も何もかもすっ飛ばして、ノルドグレーンはいきなり、「うちに来ないか?」と、誘った。

彼女がぽかんとしたのも無理はないだろう。性急に話を進めている自覚はあった。

それでも、小さな身体に歩くことすらままならない足。皹に痛々しい手と、体格に見合わない見窄らしい衣服。その姿があまりにも…哀れに映ったのだ。

このままここにいれば、日溜まりのように暖かで豊かな表情が、そのうち消えてしまうのではないか、そんな危機感が、彼を急かした。

だが、幼いリュクレスがそれを承諾することはなかった。

唐突過ぎたからではない。不安に思ったからでもない。

あの時既に、微睡む冬狼に見守られ、敬虔な祈りを捧げるあの場所で生きることを。

彼女はもう、決めていた。

他人がどう思おうとも、哀れまれるほどリュクレスは不幸ではなかったのだ。


「あの時の優しいおじいさんなら、ずっと覚えていましたよ。まだ足の怪我で上手く歩けない私の歩く練習に、その日ずっと付き合ってくれたんです」

寡黙な老人は、けれどとても忍耐強くリュクレスの危なっかしい歩みを見守ってくれた。

「なのに、彼の家の子にはならなかったんですね?」

どこか面白がるようなヴィルヘルムに、リュクレスは真面目に答えを返す。

「だって、冬狼様が見守ってくれるお家で、自分に出来ることを見つけようって決めたところだったんです。ラジミュール様に、薬草やポプリのつくり方を習ったり、刺繍を覚えたり。だから…」

「なるほど」

(楽に生きることを選ぶより、自分に出来ることを優先するあたり、今も子供の頃も変わらないか)

それが当然だと思っているリュクレスには、男が苦笑する理由がわからない。

しかし、老紳士には理解が出来ていた。

思わず肩が落ちる。

「私はタイミングが悪いようだな。あの時も、……今も」

もう少しリュクレスを、早く見つけることができていたならば。

いや、ダフィードの言葉など信じず、彼女をあの男から保護していたのならば。

「そうですね。今のリュクレスは私を幸せにするという彼女にしかできないことをしている最中ですから。きっと投げ出しはしないでしょうね」

……こんなふうに、したり顔で惚気けるような男に奪われることもなかったのではないかと思うと、悔しいかぎりだ。

それでも、この男ならば口先だけでなくリュクレスを幸せにするだろうと、どこか信頼にも似た確信を抱いてしまったから。

複雑な思いをため息一つで吐き出すと、ノルドグレーンは静かに見守ってきた娘の名を呼んだ。

「リュクレス」

「はい」

背筋を伸ばし、少し緊張した面持ちの少女を穏やかに見つめる。

「今まで、何もできなかったが。これからは、少しでも君のために何かをさせて欲しい。困ったことがあればいつでも頼りなさい」

リュクレスは子供の頃と同じように目を瞬かせると、少しして、嬉しそうにはにかんだ。

「今までずっと見守っていてくれた、それだけ十分です。誰かに気にかけていてもらえるって、それだけで嬉しいことなんですよ。だから、伯爵様、本当にありがとうございます。えへへ、ヴィルヘルム様、私、本当に幸せ者ですね。嬉しい」

頬を薄紅に染めて喜ぶ彼女のまわりには、ぽんぽんと音を立て花が咲いて見える。


笑う声はまさに花音かいんの如く、耳に心地よく響き。

彼らの胸の奥には、春陽の暖かさが差し込んだのだった。







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