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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
一部  恩返し
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19

夜襲の報告は深夜のうちにヴィルヘルムの元に届いた。

夜明けを待たず訪れた屋敷は薄暗に沈むが、それでも襲撃の跡は生々しく無残な姿を晒していた。


ヴィルヘルムは割れた窓ガラス越しに東の空を見上げる。

朝靄にオレンジの光が棚引く。夜が明けようとしていた。

黒い森の離宮の惨状の中を、一人男は歩く。歩くたびに硝子を踏みしめる音が小さく響いた。

襲撃による死者は無く、使用人と騎士には撤収命令を出し、既にここを退去させている。

多勢に無勢であった彼らが負傷者だけで済んだのは人選によるところも大きいが、幸運であったことも確かだ。

何にせよ、普段であれば安堵をもたらす報告のはずだった。

だが、ヴィルヘルムの表情は厳しく、苛立ちをはらむ。


リュクレスの拉致は予定通り。


だが、報告を持ってきたのがソルではない事実が、全てが予定通りにはいかなかったことを物語る。

ヴィルヘルムは報告書を握りつぶした。


屋敷から消えたのは、リュクレスともう一人、侍女マリアネラ。

あれほど近くに、敵は居たのだ。


夜襲は陽動であり、リュクレスが何時捕らえられ、連れ去られたのかはわかっていない。

あれほど厳重に罠を張ったのにもかかわらず。関係者も全て調べ上げ、彼女の身の安全も出来るだけ注意を払ったのに、何の役にも立たなかった。

護衛とは別に配置したソルの部隊兵も、別働隊に足止めを食らい追跡は妨げられ、彼女の行く先が掴めない。


それが、ソルが此処に居ない理由で、ヴィルヘルムを苛立たせる原因だった。


囮の場所がわからないのであれば、罠の意味がない。

別働隊との衝突は偶然のものだが、こちらの企てが相手に悟られた恐れもある。


じわり、湧きあがる焦燥感が身を苛む。

罠はすでに効力を失っているかもしれない。

リュクレスに迫る危険は酷く増した。

早急に足取りを捕らえなければ、目的を果たすことが出来なくなる。

この黒幕を炙り出し、王の周囲が安定させ、落ち着きを取り戻さなければならない。

その為にも、リュクレスを見つける事。

それを今、最優先にあらゆる手段を講じている。

待つしかないのは、わかっている。


いつも彼女が過ごしていた居室の扉は蝶番が破損し傾いて開いたままになっていた。

室内は見る影もないほどに荒らされて、壁に飛び散った赤い飛沫、彼女が良く座っていたラグも血だまりに濡れている。

この血が彼女のものでないとわかっていることだけが唯一の救いだ。

少女がいないだけで、この部屋は酷く寒々しい。

息を詰めた男は表情消し、開けられたままの奥の扉に向かう。

開け放たれた衣装用の小部屋は薄暗く、いくつかのドレスが床に散らばっていた。ドレスを避け奥へと入ると、整然と掛けられたドレスの間を掻き分ける。

ヴィルヘルムが、リュクレスに伝えた隠し部屋の扉は開いたままになっていた。

言われたとおり、彼女はその部屋に逃げ込もうとしたのだろう。しかし、それは果たされなかった。

彼女の声をソルは聞いていないと報告している。つまり、此処を出る時にはリュクレスは意識を失っていたということだ。


彼女は走ることが出来ない…造作もなく捕らえられたことだろう。


「リュクレスは右足に怪我をしている。古傷でしょう。腱か何かを痛めていて、歩き出す際意識していないと、足が前に出ない。たぶん日常生活を普通に送ることでリハビリにしたのでしょうが、無意識では足先が上がらず、引っ掛ける。だからよく転ぶし、歩き出しが遅いんです。立ち尽くしていることが多いのも同じ。ソファは深く座るので立とうとすると、右足に力が入りにくくて足を置いた位置が安定せず崩れやすい。だから、出来るだけ立ちっぱなしを選ぶのでしょう」


ソルはよく見ている。

ヴィルヘルムは気が付けなかった。彼女は器用にも足を引きずる様なことを一度たりともしていない。


ヴィルヘルムは衣装室を出ると、被害の少ない寝台に近づいた。

ヘッドボードに置き去りになったままの植物図鑑。

綺麗に畳まれたトゥニカ。

卓に置かれた白い花。

微かな、…娘の甘い香り。

壊れた無人の屋敷の中に所々残った彼女の痕跡が、思っていた以上に胸を突いてヴィルヘルムの無表情に僅かな綻びを作る。


だんっ!


苛立ちを壁に叩きつけ、厳しい眼差しを瞼の下に隠す。


…スヴェライエに戻らなければ。


することは山のようにある。王の警護、膨大な情報処理、指揮統制。王を補佐すると決めた、自分にしかできないことだ。

王には隠さなければならない。この事実も、この苛立ちも。

王夫妻はリュクレスに好意的だ。この状況を知れば、王は必ずリュクレスの身を案じ救出を命じるだろう。…それでは、意味がないのだ。


「リュクレス…すまない」

絞り出す声は、自分のものとは思えないほどに、弱い。


…彼女は助けを求め泣いてはいないだろうか。


呟かれた謝罪が卑怯であることを、ヴィルヘルム自身が誰よりも知っている。






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