10
時間にしたらどれほども経ちはしていない。
それでも、貴族として教育された女性は気丈にも立ち直る気配を見せていた。
すすり泣く声は小さくなり、しだいに嗚咽は収まりつつある。
リュクレスの隣に座るヴィルヘルムは静かに彼らを見守っていた。彼らのやり取りに水を差すつもりはなかったし、余計な気遣いをさせる気もなかった。
だが、将軍たる彼が此処に居るということは、そういうわけにはいかないのだろう。
オクタヴィアは手にしたハンカチで涙を拭うと、リュクレスと父親にお礼を言ってから、ヴィルヘルムに向かって頭を下げた。
「みっともないところをお見せ致しました。申し訳ありません、将軍」
ヴィルヘルムは首を振る。整った容貌に乗せられているのは微苦笑だ。
「貴女方はリュクレスに会いに来たのですから、私のことならば気にしなくて構いません。なにせ、おまけのようなものですからね」
「おまけ…ですか?」
何ともヴィルヘルムには似合わないその台詞に、リュクレスが不思議そうな顔をする。
首を傾げる恋人に、ヴィルヘルムが可笑しそうに笑った。
「そうですよ。ノルドグレーン伯も、ルウェリントン子爵婦人も用があるのは君にだけ。私はただ、君と離れ難くて同席しているだけなので、おまけというのがやはり一番適切でしょう?」
「おまけというよりは、邪魔者ですな」
「お父様!」
冷めた目で、しれっと言い返した伯爵に、慌てたのは娘の方だ。
「事実だろう。今日とて強引に申し込まなければ、リュクレスと会わせようとはされなかった。違いますかな?」
「まあ、確かに」
伯爵の恨み節を意にも介さず、ヴィルヘルムは躊躇うことなくさらりとそれを肯定した。
老人の顔に険が増す。
「陛下から聞き及んではいましたが、その執着心はその娘を縛り付けるものです。自由を奪い取るおつもりか」
責めるような視線に怯むことなく、ヴィルヘルムはうっすらと笑みさえ浮かべてみせた。
「ふむ、そうですね。籠に入れて私の目の届くところにいつも飾って…そう出来たのならば、私はとても安心するのでしょうね」
どこか、うっとりと己の望みを口にする将軍に、難しい顔をした伯爵の隣で、オクタヴィアは驚いたように彼を見つめた。
優しげな微笑みとその美貌で数多の女性を魅了しておきながら、愛を乞う相手を冷酷に切り捨てると噂されていた彼に、特定の女性が居なかったのは周知の事実。
最終的にはエルナード公爵と婚姻が決まっていると周囲が理解していたからこそ、彼の傍に侍っていたのは遊びであると割り切った女性だけであった。社交の場で目にする彼は女性の扱いに非常に長けていたし、男性としての魅力だけでなく、知性も教養もある。一夜の遊びであっても、彼女たちは十分に満たされていたのだろう。
だが、今。
目の前にある彼のリュクレスへの執着は、どこにも余裕などなくて、遊戯の色は欠片もない。絡め取る様な執拗さは、洗練された彼らしくなさすぎる。
まるで別人のようではないか。
その熱を一心に受けて、まだあどけなさを残す少女は困ったように将軍を見上げた。
「…ヴィルヘルム様」
ただ、そう。
彼女は男の名を呼んだだけ。
けれど、それだけで、男は蕩けるような微笑みを彼女に向けた。
「私から、逃げますか?」
試されているとわかっているのだろう。リュクレスはゆるゆると首を振る。
「傍にいます。でも。そうして籠の中にいるのは…きっと、もう私じゃないですよ?」
真っ直ぐに、アリシア譲りの瞳が将軍を捉えた。怯えることもなく、逸らされない瞳を、彼は眩しそうに見つめ返す。
男の中の焦燥は、それだけで、あっさりと少女に解かれたようだ。
「そうですね。…君には檻の中より空の下が似合います」
低く柔らかな声でそう囁くと、優しく恋人の髪を梳き、その頬を撫でる。
ぐっと、気配が甘くなった気がした。それを打ち消すように彼は笑うと、伯爵とオクタヴィアへと顔を向ける。その瞳には昏い劣情はなく、愛おしげに娘を見つめていた深い愛情があるだけだった。
「彼女はこのとおり、ちゃんと自分の口で私を叱ってくれますから。私は閉じ込めたい誘惑と戦いながら、彼女が彼女らしく生きられるよう努力を惜しまないでしょう」
アリシアに比べ酷く幼げな娘は、けれども母親に似て、とてもしっかり者のようだ。優しく窘められている将軍を見てしまえば、微笑ましさに自然と笑みが浮かんだ。
オクタヴィアは父を見て、小さく首を振る。
リュクレスは将軍の傍で幸せなのだ。
彼は、そんな娘を幸せにする努力を惜しむことはないだろう。
ならば、余計な手を差し出すことはない。
リュクレスがルウェリントンの認知を外れ、ただのリュクレスに戻ったと聞いたとき、あの男を憎んでいるのかと思ったけれど、多分違うのだ。
彼女は彼女でいたかっただけ。
そして、身分に執着することのない無欲な少女を、将軍は愛している。
安心したように、涙の跡が残る顔でオクタヴィアは微笑んだ。
「取り乱してごめんなさいね?…思い出したくない記憶でしょうから、アリシアはきっと私のことなど貴女に話していないと思っていたの。だから、驚いてしまって…」
リュクレスは小さく首を横に振った。
「お母さんはオクタヴィア様のことをずっと、ずっと大好きだったんですよ。だから、それが伝えられたのなら、本当によかったです。想い合っていたのに嫌われているなんて誤解、悲しいもの」
淡い藍緑の瞳がやんわりと細められ、リュクレスが笑う。
大好きだったアリシアはもういない。謝る機会は永遠に失われてしまった。
言葉を尽くして、ずっと届かない謝罪ばかりが胸の内で溢れていたけれど。
(そうね…。何よりも伝えたかったのは、大好きだという言葉だったのかもしれない。願っていたのは、嫌わないでと、ただ、それだけだったのだわ)
今もまだオクタヴィアはアリシアが大好きで、リュクレスは、アリシアもまた、オクタヴィアを大好きでいてくれたと、教えてくれた。
それだけで、救われた思いがする。
リュクレスの言葉は飾り気がない。子供のような純粋さで、好きとか大切と伝えてくれる。それが、どれほどの衝撃をもって心に響くのか。
真っ直ぐに向けられる透明な瞳、誠実な眼差しにどれほど癒され、安心するか。
信じられる暖かな言の葉が、どれほど嬉しいものなのか。
きっと、知らないに違いない。
知らないまま、こうして人の心を癒していく。
だからこそ。
欺瞞に満ちた世界で生きる将軍のような男が、これほどに彼女を大切にするのだろう。
彼女を手に入れた彼を羨まずにはいられない。
「…良い子ですわね、将軍」
オクタヴィアが言葉に乗せた羨望に、きっと彼は気付いている。
だが。
「本当に。誠実で優しく、素直で可愛らしい人です。この子は、私が幸せにすると決めているので。残念ですが養子にするなら他を当たってくださいね」
気付いていて、これである。
慎み深さだとか、謙虚、謙遜を何処かに置き忘れた男は臆面もなく恋人自慢までして、親子に向かってにっこりと微笑むのだ。
かなり消極的ではあったものの、4か月前、何かあれば養子に迎え入れて欲しいと望んだのはどこの誰だったか。結局はそうはならずに済んだことを喜ぶ将軍に、オクタヴィアは彼の子供っぽさを見た気がした。
「リュクレスを、本当に大切にされているのですねぇ」
「私の最愛の人ですから」
呆れ混じりのオクタヴィアの問いに答える将軍は、とても綺麗な笑顔をリュクレスへと向けた。それは、見せかけの表情ではなく、ヴィルヘルムという男の素の表情。
彼はこれほどに柔らかな表情ができたのか。
(彼に恋する女性が見たのであれば、きっと卒倒したでしょうに)
それほどに破壊力のある笑顔。少し照れたようなリュクレスが、けれども、嬉しそうに笑い返すのを見て、オクタヴィアは悟った。
彼女にとってあの笑みは特別なものではないのだ。
冷徹な男の恋した顔を、この少女は知っている。
「ご馳走様」
思わず、オクタヴィアはそう呟いた。
「え?」
きょとんとした顔のリュクレスの隣で、ヴィルヘルムだけが苦笑を漏らした。




