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「これほどに待たされるとは思ってもおりませんでしたな」
見知らぬ老齢の紳士は、開口一番、刺々しい口調でそう言った。
きっちりと撫で付けられた鈍い金色の髪。皺の刻まれた顔は険しく、老いてもなお衰えない眼光は鋭い。それを真正面から受け止めているのはヴィルヘルムであるが、彼は穏やかな笑みを絶やすことなく悠然とソファに座っている。隣にいるリュクレスの方が落ち着かずに腰を浮かせてしまいそうだ。
居心地の悪さに思わず身じろぐと、目敏い恋人がそれに気がついて、安心させるように、やんわりと微笑んでくれた。
ほっと、肩の力が抜ける。
(ヴィルヘルム様、大らかだなぁ…)
動じないどころか、リュクレスを気にかける余裕すらあるのだからすごいなぁと、安心して戻ってきた呑気な思考でそう思う。
……大らかなのではなく、単に図太いだけなのだが、残念ながら口にされなかったリュクレスの認識が修正されることはなかった。ソルあたりがいたならば、気づいて諭したに違いないが、こういう時に限って彼はいないのである。
今、リュクレス達がいるのは、外郭内の応接室だ。
隣に座るヴィルヘルムと、向かい合う席には見知らぬひと組の男女。
厳格な老紳士と目の前に座る女性はどことなく似ているから父娘なのだろうと、リュクレスは何となく推測して、二人に視線を戻した。
女性は目が合うと、リュクレスへ向かってにっこり微笑み、返す視線で老紳士を睨む。
「お父様、怖がらせてどうするのですか」
「す、すまん」
言われて初めてリュクレスの様子に気がついたのだろう。彼は、ばつが悪そうな顔でリュクレスを見ると、態とらしく咳払いをひとつして、その厳しい顔にぎこちなく笑みを刻んだ。
なんとも不器用なその笑みに、リュクレスは目を瞬かせる。
とても怖そうに見えたけれど。
伯爵は、思ったより優しい人なのかもしれない。
そんなふうに思えたら、自然と強張りは解けて、表情は緩んだ。
「怖がってしまってごめんなさい。もう、大丈夫です」
ぺこりと頭を下げれば、彼は驚いた顔をして、それから首を振った。
「いや、こちらこそ済まなかった。リュクレス、だね。元気そうで良かった」
安心したようなその言葉に、リュクレスは違和感を覚える。
そこにいるのは、ノルドグレーン伯爵その人だ。
故郷の領主であり、そして今、リュクレスの後見人を引き受けてくれているという。ヴィルヘルムを通じて、話には聞いていたものの、方や領主、方や孤児の娘である。当然ながら、面識などある筈もない。
それなのに何故、懐かしげな目を向けられているのか。
(やっぱり、執事さんも、領主様も、どこかで会ったことがあるのかな?)
過去の記憶をよいしょ、よいしょと手繰り寄せる。
リュクレスの居た修道院があったのは領都ではなく、少し離れた小さな町だ。7年前…いや、もう既に8年になるか。リドニアレールの惨劇と言われる領都の惨状に、逃げ出すしかなかった者たちは災禍を免れた周辺の地域へ一時的に避難した。
リュクレスもその当時、傷病者を運ぶ荷馬車に乗せられて、修道院に運ばれた一人である。救護院で治療を終えたリュクレスは歩けなかったためにリドニアレールに戻ることなく、そのまま修道院の中にある孤児院でお世話になることになった。
領都でも、修道院でも、領主と会う機会など無かったように思う。記憶のないほど幼い頃のこととなれば別であるが。
無意識に困惑は顔に出ていたのだろう。
「お父様、彼女が怪訝な顔をしていますわ。ちゃんと、順を追って話してあげませんと」
優しい声が説明を促した。女性は、30半ばを過ぎたあたり…生きていれば丁度母と同じくらいの年頃だと思う。落ち着いた居住まいが貴族の淑女らしさを感じさせる。
彼女は嬉しそうに目を細め、リュクレスを見つめていた。
「ああ、本当にアリシアとよく似ているわ。母娘なのだから当たり前なのだけれど…その目は母親譲りなのね」
やはり懐かしげにそう言われ、疑問がひとつ氷解する。
この人たちは、母を知っているのだ。
その瞳に映るのはきっと、記憶に残る母の姿。
自分の瞳に母を投影するその姿は、悲しい目をした黒髪のあの人を思い起こさせた。
母の名を呼んだ彼と、懐かしげにリュクレスを見つめる目の前の女性はどこか似ている。
少しだけ遠くに向いてしまった意識を、そっと取られた片手が現実に引き戻した。
「リュクレス、初めまして。私はオクタヴィアというの。隣にいるのは私の父で…ノルドグレーン伯爵と名乗ったほうがわかりやすいかしら?…私にとって貴女のお母さんはね、姉のように大切な存在だったの」
「あ、えっと、リュクレスと申します」
反射的に名乗ってお辞儀を返すと、リュクレスは眉を寄せ考え込んだ。
(姉のように…?)
母は平民だった。
そして微笑む女性は紛う事なき貴婦人である。
なのに、母を姉のような存在であると言う。
…もしかして。
ふと思い浮かんだ可能性に呆然として、リュクレスは不躾にも、まじまじとオクタヴィアを見つめてしまった。
初めて母のいた世界に触れることが、出来るのかもしれない。
脳裏に浮かび上がる懐かしくも温かな思い出。
慣れた様子で膝を折り、流れるような動作で頭を下げる。
「さあ、お姫様。お茶のお時間に致しましょう」
そう言って、侍女に扮した母が顔を上げて笑った。
「もしかして、お母さんの、お姫様…ですか?」
オクタヴィアは驚いたように目を瞬かせた。
尋ねながらも、リュクレスはどこかで確信していた。
(お母さんが侍女として仕えていたのは、この人のだ)
柔らかい、秋の麦畑のような明るい金髪に、美しい翡翠色の瞳。整った顔立ちは派手なお化粧をしていない分、森緑のように落ち着いた美しさを湛えている。
「お母さんはとっても優しくて美しいお姫様に仕えていたのよって言っていました。離れても大切な人だって。…オクタヴィア様のことだったんですね」
愛おしそうに母の名を紡いだオクタヴィアと、懐かしむようにお姫様の話をしていた母。その眼差しが重なる。
違和感なく、母から貰った記憶の欠片が、オクタヴィアへと繋がっていく。
嬉しくなって笑えば、彼女は目を瞠ったまま、固まって動かなくなってしまった。
その反応に、リュクレスは戸惑う。
何か言ってはいけないことを言ったのだろうか?
穏やかに微笑んでいた彼女がその笑みを消した理由がわからなくて、リュクレスは視線も逸らせず、おろおろすることしか出来ない。
逡巡の間、室内には重たい沈黙が横たわった。
暫くして、ようやく。
恐る恐るという様に、オクタヴィアが口を開いた。
「…アリシアは貴女に、私のことを話してくれていた…の?私のせいで辛い目に合わせてしまったのに……」
答えを聞くのを怖がっているのに、それでも聞かずにはいられない。
そんな、どこか懸命で悲しそうな瞳が、リュクレスに向けられる。
(私のせいで、辛い目に…?)
リュクレスはオクタヴィアの言葉を繰り返した。
なぜ、母が大切な主人のもとを離れたのか。
その理由、は。
そこまで考えて、初めてオクタヴィアがルウェリントン子爵に嫁いだ人なのだと気がついた。
意に沿わぬ結婚をすることになった彼女に母はついて行くことを決め、その町で父と出会った。
だが、オクタヴィアはそのことを知らないのだ、ただ、ルウェリントン子爵に乱暴され、傷心故に彼女の元を去ったと思っている。
(でも、違う。それだけが理由じゃない。オクタヴィア様の元を離れた理由は…)
母の恋と、産まれるまでどちらの子とも知れなかったリュクレスの存在だ。
ルウェリントン子爵に嫁いだオクタヴィアに、罪なんてない。
それに、彼女についていくことを決めたのは母だ。そのせいで辛いめにあったのだとしても、…母は絶対恨んだりしない。
だって、離れてからも、母にとってオクタヴィアは…大切なお姫様だったのだから。
それを伝えようとして、一瞬、言い淀んだ。
母が心に仕舞い込んできた秘密は、明かさない方が良いとヴィルヘルムが言っていたのを思い出したからだ。
ヴィルヘルムを見れば、優しい眼差しで静かに頷いてくれた。
温かく大きな手が、リュクレスの心を支えるように背中に触れる。
父のことは言えない。幸せな恋をしたのだと、オクタヴィアに、すべての事実を伝えることはできない。
…それでも、伝えられることもある。
リュクレスは首を横に振ってはっきりと否定を示した。
「お母さんはずっと、貴女のことを大切に思っていました。大好きでした。名前こそ口にしたことはなかったけれど、それはきっと貴女に迷惑をかけたくなかったからなんだと思います。…だって、いつだってお母さんはオクタヴィア様との思い出を宝物みたいに聞かせてくれたから」
嘘じゃない。
お母さんはお姫様のお話をする時、本当に素敵な笑顔を浮かべていたのだ。
幼いリュクレスがその関係に憧れを抱くくらいに。
伝わって欲しいと、繋がれた手にぎゅっと力を込めた。
その想いは手のひらから柔らかな温度に乗せられて、確かに届けられる。
翡翠の瞳を潤ませると、オクタヴィアは目を閉じて静かに、涙を流した。
俯いた彼女の膝の上にぽたぽたと零れ落ちる雫は弾けて転がると、じわりと染み込んでスカートを濡らしていく。
唇を噛み締めて嗚咽を堪えるその肩をノルドグレーン伯爵が抱きしめるのを、リュクレスは切なくなりながら見つめていた。
この人は今までずっと、母への罪悪感を抱えて生きてきたのか。
(お母さんは、きっと、オクタヴィア様が笑顔でいることを望んでいたはずなのに)
その為に何も言わず彼女の元を去ったに違いないのに。
悲しい涙を見ていると、胸が軋む。
少しでもその心が軽くなることを、その涙が心の中の澱を洗い流してくれることを祈りながら、リュクレスはただ、その手を握り続けた。




