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「相手のことも、自分のことも、ですか?」

問い返したヴィルヘルムに、リュクレスはほんのりと微笑んだ。


「はい。ヴィルヘルム様は強くて、誰よりも多くのもの守れるからこそ、先頭に立って戦っていた。前を向いていたから、その後ろで戦っていた人たちの姿を知らなかったんだと思います。守ろうと思う気持ちが強くて皆が貴方を守りたいって声は聞こえなかったかもしれない。でも、聞こえたなら。…私のこんなに頼りない小さな手でも、ヴィルヘルム様は拒まなかったもの」


リュクレスの華奢な手が、ヴィルヘルムのそれに重ねられる。

向けられる瞳は、どんな空よりも海よりも美しく澄んだ色。

解けた柔らかな表情が、男の中の情動を揺さぶり起こす。


「貴族の人たちも、きっと一緒です。身分の差が当たり前だと育てられたなら、それが悪いなんて思わなかったかもしれない。膝を折り、頭を下げられることに疑問を抱くことだって無いんだと思います。でも、その頭を垂れる人たちも、同じように誰かを好きになって、大切な人と共に居たいと望む。慎ましやかな生活でも、家族との団欒を大切に精一杯生きているって知ったなら、自分たちと何も変わらないんだって、思わず納得しちゃったんじゃないかな?身分の違う相手であっても、そう思えるってことを、そんな自分を、知らなかったんです。その変化は誰かが与えたものじゃない。きっと皆元から持っていた温かい心です」

ふふっと、溢れるように笑い声を漏らしたリュクレスの頬に、ヴィルヘルムは沸き起こる感情を抑え、優しく触れた。

慈愛に満ちた藍緑の瞳がやんわりと細められる。


「自分たちが本当は優しいんだって、皆気が付ければいいですね」


リュクレスの言う世界は優しい。

世界がどれほど辛辣で冷酷かを知っていて、それでも、人の中にある優しさを決して疑おうとしない。

辛い思いに合わされても、残酷な言葉で罵られても、与えられた優しさを忘れずに、自分も誰かに優しくあろうとする。

些細な優しさでさえ、宝物のように大切に受け止める。


リュクレスは出会った頃から、何も変わらない。

そんな彼女に、ヴィルヘルムは恋をした。


そして今。

新たにもう一度、恋をした気さえする。

色褪せることなく、彼女への想いは日々を重ねるにつれ、より一層鮮やかになっていく。

まるで万華鏡のように、ころりと転がせば知らない色で煌く。

ヴィルヘルムは、改めて彼女に出逢えた奇跡を信じもしていなかった冬狼に感謝した。


敬意の念を込めて、恭しく彼女の手の甲に口付けを落とす。


「リュクレス、改めて誓わせてください。生涯をかけて君を守り通すことを。必ず幸せにします。…いえ、一緒に幸せになりましょう。だから、どうか」


一度目の求婚と同じようで、少しだけ違う。

あの時は、ただ、ヴィルヘルムはリュクレスが欲しかった。


けれど今は。


「…どうか、私と家族になってくれますか?」


愛おしいこの娘と家族になりたい。

二度と失わせたりしない。新しい家族を作るのだ。


初めは、二人で。


男の想いは、確かに届いたのだろう。

リュクレスは声もなく瞠目し…ぽとりとひと雫だけ。

涙を零した。


潤む瞳で見つめ返す娘の表情は、繊細で、儚い。

けれど、歓喜に頬を染め、喜びの涙をこぼしたその姿は、まさに朝露に濡れる花のようだった。

リュクレスが求めるように手を伸ばす。それを受け止めて、ヴィルヘルムは彼女を抱きしめた。

弱々しく震えているのに、男の背に回された小さな手は懸命に男を抱きしめる。


まるで守られているようだと、ヴィルヘルムは思った。


それは、気のせいではなくて。

守るべき存在である娘は、野の花のような逞しさで男を守ろうとしている。

「泣いても構いませんよ?」

「だめ、です。泣いたら、しばらく、返事、できなくなっちゃう、から…っ」

……泣くまいとする理由が、そんな可愛らしい理由だとは思わなかった。

聞いてしまった男は暴走しそうになる自分の欲求を、力尽くでねじ伏せる。

それはもう、苦労の末に。

ぎゅうと、ヴィルヘルムにしがみついていたリュクレスはそんな男の心も知らず、暫くして顔を上げた。

きらきらと輝く瞳は、泣くのを我慢過ぎて赤く充血している。

それでも、見蕩れるほど綺麗な笑顔で、リュクレスは答えた。


「はい…っ!家族に、なりましょう…っ」


いつだって、ヴィルヘルムはこの愛おしい娘を幸せにするつもりで、自分が幸せになっている。

一生、彼女以外を望むことなどないだろう。

この目も眩みそうな幸福感を知ってしまったのならば、他に変わりなどいらない。


きっとこれからも、何度だって望むことは同じもの。


君と時を刻むこと。

楽しむことも泣くことも、怒って喧嘩することも仲直りして笑い合うことも、何一つ疎かにしない。

慈しみ合い、愛おしさに手を伸ばす。

巡る季節を、繰り返される毎日を大切にしていきたい。

きっと、同じ日なんて一日たりともないのだから。


泣くのを我慢する娘に、額を合わせて男は笑った。

両手で彼女の頬を覆い、少しだけ悪戯っ子のような顔をして。

「本当は今からでも式を挙げたいところなのですが。もう少しだけ、我慢します」

「…?」

何を我慢するのかなんて、きっとわかっていないに違いない。

けれど、本当に大切なのだ。

だから、君が誰よりも幸せな花嫁になるのならば。

(もう少しくらいは、耐え忍びましょう)


「結婚式は、君の育ったあの教会で。まどろむ冬狼に誓います」

驚くリュクレスに、ヴィルヘルムは幸せそうに微笑む。

「君のもうひとりの母親にも、君の幸せな姿を見て欲しいから」

堪えていたリュクレスの涙腺を崩壊させて、ヴィルヘルムは満足気に彼女の背中を撫でた。

(泣くのも笑うのも、我慢なんてさせない。覚悟しておいてくださいね?)

我儘とは無縁の少女を、とことん甘やかして幸せにしてやろう。

そんな男の野望など、知らず。

「あり、が、とう」

その声は嗚咽に紛れた、小さな感謝の言葉は。

確かにヴィルヘルムの耳に届いて、彼こそを幸せにする贈り物となった。


こうして泣きつかれてうとうと眠りについたリュクレスに、ヴィルヘルムが膝を貸して。ベルンハルトがやって来るのは、それから少しだけ後のことである。








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