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「リュクレス、これを」
ヴィルヘルムが手渡したのは、筒状に巻かれた羊皮紙だった。封蝋には教会の紋章が刻印されている。
何かわからずに、ヴィルヘルムとそれを交互に見る。
頷きを返されて、恐る恐る封を切り、中を開いたリュクレスは、文字に目を滑らせ絶句した。
内容を知っているヴィルヘルムはなんということでもないように、淡々と告げる。
「それは、君に対する教会の庇護を証明するものです。その決定に関しては王であっても覆すどころか口を出すことすらできない教会の不可侵の権利だ。地位としての何かは与えられなくとも、教会がその威光で守ろうとするほどの人格者となれば諸侯とて無視できない。それは、君を中傷から守る盾となるはずです」
「そ、…んな、…とんでもないです!頂けませんっ」
リュクレスは畏れ多いと言わんがばかりに慌てて、それをヴィルヘルムへと返した。
「リュクレス、教会は平らかに慈悲の手を差し伸べますが、しかし、こうした特権はほとんど与えません。安易に与える特権は、教会の威信を失墜させることになりかねませんから」
「わかってますっ。だからこそ、受け取れるわけないじゃないですか!こんな大層なもの、私には分不相応です。受け取る資格なんてどこにも無いですっ」
知らなければ、受け取れたかもしれない。だが、リュクレスは教会の修道院で育ったのだ。その影響力と稀少な価値を知らないはずもなかった。
「資格があるかどうか、決めるのは君じゃない。教会です。大司教は、私の願いだからといって求めに応じたりしません。君が行ったこと、そして、君の人となりを見て庇護を認めたのです」
ヴィルヘルムは厳しい顔でリュクレスを嗜める。
「で、でも…っ」
教会の与える称号というものは、過去には聖女や聖人の神聖性を保証したものである。簡単に受け取れるような代物ではないのだ。リュクレスが得たことで、過去の聖者たちの評価を貶めることになっては悔やんでも悔やみきれない。
そんなものが欲しいわけではない。
ただ、ヴィルヘルムの傍に居られるだけで十分だ。そのためなら、中傷だって我慢できる。
青くなるリュクレスに、ヴィルヘルムはやれやれと、溜息をついて苦笑した。
そんな見返りを求めないリュクレスだからこそ、大司教は認めたのだと説明しても説得は無理だろうか。
辛い思いをしても自分のことは二の次で、周りを幸せにしようとする娘自身が、たまには報われることがあってもいいではないか。控えめで優しく、思いやりに溢れた行いがこうやって認められ、彼女自身を幸せにする手助けになるのであれば。
それは、与えられたものではなく、リュクレス自身がその行動で手に入れた称号で間違いないのだから。
「この国のために王を守る協力をし、毒を受けた私を、その身を呈して守ろうとしてくれたのは他の誰でもない、君ですよ。その君が望む場所が私の傍だというのならば、君はまさに冬狼の鼻先で揺れる蒲公英です。どうか、その名を受け取ってはくれませんか?」
「……っ」
瞳はゆらゆらと揺らめくのに、まだ折れない。「頑固ですね」と優しい顔で言って、ヴィルヘルムは握る手に力を込めた。
灰色の瞳に見つめられ、熱した鋼の近くに居るみたいにひりひりとする。
「大丈夫、絶対に君が教会を貶めることなど有り得ないと、私が保証します。だから、もし君が自分を信じられないのであれば」
首を傾げられ、紺青の髪がさらりと揺れた。
「俺を信じてくれ。……それとも、俺が、信じられない?」
困ったように眉を寄せられ、下から覗き込まれる。
ずるい。
リュクレスは悔しくなって、声を絞り出した。
「それは…っ!ず、ずるいですっ」
だって、リュクレスにとって、ヴィルヘルムを信じることは息をするのと同じくらい当たり前のことなのだ。
それを知っているくせに、そんな風に聞いてくるのは、本当にずるい。
否定する以外、ないのに。
ヴィルヘルムは、堪えもしていない様子で、今更だと笑った。
「ずるい男だと知っているでしょうに」
「う~~っ」
「おや、誘惑されているのかな、俺は。そんな顔していると…襲いますよ?」
恨みがましく睨んでいるつもりなのに、誘惑ってなんで?
そんなこと、微塵も考えていないのに。
言葉で敵うはずもない相手に、口を開けては、あうあうと意味を持たない音ばかりが零れていく。
ヴィルヘルムは意地悪な表情を和らげて、低く柔らかな声音で笑った。
「そんなに深刻に考えなくてもいい。君が私の花であると、それだけ認めてくれればいいのです」
「ヴィルヘルム様の花…?」
「そう、私の特別。教会が認めてくれたものは、私たちを繋ぐ絆です。そう思えば、重たいものではないでしょう?」
どうしよう。やっぱり丸め込まれている気がするのに。
ヴィルヘルムとの絆と言われてしまえば、尊さは同じなのに、敬遠する思いなんてなくて、ただ愛おしいと思う気持ちばかりが溢れてくる。
いらないなんて、思えない。
あまりの変わり身の早さに、自分のことなのに呆れてしまう。
本当に、どうしよう。
さっきまであんなに要らないと強情をはっていたくせに。今更欲しいだなんて、言ってもいいのだろうか。
「ちゃんと欲しがってもらわないと困ります。じゃないと私が可哀想でしょう?私の片思いになってしまう。」
口にしていないのに、ヴィルヘルムが冗談めかしてそう返してくる。
ヴィルヘルムの片思いなんてありえない。リュクレスは否定するために首を振った。
「片思いなんかじゃないですよ?」
「ならば、リュクレス。俺の蒲公英になってくれ。……冬狼を一人にしないで」
希う男の声に、葛藤はたいして続かなかった。
教会から称号を与えられるということには抵抗がある。
けれど、こんなふうに恋われたら。
拒否する思いはリュクレスのどこを探しても見つからない。
震える唇を一度噛み締め、ゆっくりと開く。
「貴方の傍で、貴方のために咲くならば」
言葉を切って、真っ直ぐにヴィルヘルムを見つめる。
紡がれる言葉がリュクレスの中の真実であると伝えたくて。
「私は、貴方の花に、なりたいです」
藍緑の瞳を揺らすことなく、はっきりと告げた。
傍に居ること以外何もできないけれど。
それで構わないのならば。
…受け取っても良いのだろうか?
―――その花の名を。
その時、ヴィルヘルムが浮かべた微笑みは。
リュクレスの胸を詰まらせるほどに、とても。
…とても、綺麗なものだった。
くるくると丸められた筒状の羊皮紙がリュクレスの手のひらの上にそっと乗せられる。
手渡されたものの形のない重さに、リュクレスは一度だけ、大きく深呼吸をした。
「君が思うよりもずっと、君は私に、王に。そして、この国に影響を与えている。だから、過去の聖者たちと比較して自分を卑下することなどないよ。彼らに負けず劣らぬ結果をすでに君は出しているのですから」
「え…?」
告げられた言葉に、リュクレスは小さく戸惑いの声を上げた。
ヴィルヘルムは、ふわりと優しく目を細める。
「リュクレス。この国は、今、変わろうとしています」
真摯な光を宿す灰色の瞳が見つめるのは、この国の今、そして未来、リュクレスには大きすぎて形さえ掴めない雲のようなもの。
ヴィルヘルムがなにか伝えようとしているから、繋がれた手を握り締める。
彼はそれに応えるように、話を続けた。
「私は、王が…アルが望んだ国になるよう、その道を切り開いてきました。ときに強引に、手段を選ばずに。それが、一番手っ取り早かった。けれど、独りよがりなその道筋は、今、他の貴族たちが変わり始めたことで、私だけでは思い付きもしなかった方向へと進み始めている。柔軟でそれもとても良い方へと。そのきっかけをくれたのは君です」
「私、ですか?」
「ええ、形ばかりでしか何かを守ってこなかった私に、守るとはどういうことなのか教えてくれたのは君だ。守るばかりと思っていた市井の者たちが、どれほど強かで逞しく生きているのかを教えてくれたのも。アルを守った人々がいたように、誰もが家族や友人だけではなく、国や、我々を守ろうとする気骨を持った民であると……戦争の最中も彼らはあんなにも勇敢だったのにね。私は目の前の敵ばかりを見て、背中を守る彼らを見ていなかったんだな。君が、身分で人を量る愚かさを、私に、そして、ほかの貴族たちに伝える呼び水になった。確かに今、周囲の国の身分制度に対する不穏な情勢も味方している。けれど、君の存在が、貴族たちに貴族と平民とのあり方を、考える機会を与えたのですよ」
真剣な顔で話を聞いていたリュクレスはヴィルヘルムを見返した。
その表情をふにゃりと緩め、ゆっくりと首を横に振る。
「私は何もしていません。ただ、皆、知らなかっただけなんだと思います。相手のことも、自分のことも」
「相手のことも、自分のことも、ですか?」
ヴィルヘルムが不思議そうに問いかけてくる。
素地はみんなの中に最初からあったのだ。それは与えられたものじゃない。良い方向に進んだのであれば、それこそが皆が持っていた力で思いなのだと思う。
それに気がついてほしい。
リュクレスにできることは、それを伝えることだけだ。




