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さて、時間は少し遡り、早朝のことである。
手を携えて、仲良く散歩から帰ったリュクレスとヴィルヘルムを待っていたのは、ノルドグレーン伯爵家からの使いが来ているという知らせだった。
思わず、リュクレスは顔を上げ、ヴィルヘルムの顔を見つめた。
自分に訪ねてくるとも思えないから、用があるとしたらヴィルヘルムの方だろう。
ならば、やっぱり仕事だろうか?と、彼女が予想したのは無理からぬことだ。
将軍という立場に、どうしたって突然仕事が舞い込むのは珍しいことではない。
(今日はお休みだって言っていたけれど…)
早々に休日返上となってしまうのだろうか。
リュクレスは自分の顔が曇るのを慌てて取り繕った。
一緒に過ごせるはずの時間が無くなることは、寂しいけれど我慢できる。
気掛かりがあるとすれば、貴重なヴィルヘルムの睡眠時間を減らしてしまったことだ。
(こんなにも早くからお仕事になるなら…もっと眠っていてもらえば良かったなぁ)
早朝の散歩など言い出さなければ良かった。
昨日だって夜遅くまで仕事をしていたヴィルヘルムが眠ったのは、きっとリュクレスよりも後のはずだ。
それなのに、起きたらすでに彼は目を開けていて、「寝顔を堪能していました」と、朝一番から眩しい笑顔で微笑んでいたのだから、睡眠時間は推して知るべしだ。
その時は、動揺のあまり「お粗末さまでした」と、何か間違った返事をして笑われてしまったのだけれど。
…ヴィルヘルムの身体を心配するのはまた別の話なのである。
疲れをあまり見せない人だけれど、だからこそちゃんと休んでもらいたい。
だから、朝早くから起こしてしまったのは失敗だったと反省はあるのに。
二人で過ごしたお散歩の時間がとても楽しくて、満足してしまっている自分もいたりして、リュクレスはそんな自分勝手な心に、気づかぬうちに肩を落としていた。
ため息を飲み込んだリュクレスの頭が、ぽんぽんと撫でられる。
「大丈夫。君と過ごす時間は君が思う以上に、私を癒してくれていますよ」
柔らかな眼差しでそう言われ、
「楽しかったと思っているのは、君だけじゃない」
言葉を重ねられて、心臓が跳ねる。
何も言っていないのに、どうしてヴィルヘルムには思っていることがばれてしまうんだろう?
どうして、欲しいと思っている言葉をくれるのだろう?
疑問は顔に出ていたのか。「君は本当に素直ですからね」とヴィルヘルムが笑った。
注がれる優しい愛情に、胸がしくりとする。
ああそうか、と思った。彼が昨日言った台詞。
遠慮ばかりされると不甲斐なく思うと言う言葉の意味がなんとなく、わかった。
ヴィルヘルムの言葉は今、リュクレスの思いそのものだ。
(私の言葉も、もしかして、そうやってヴィルヘルム様の胸に届いてたのかな?)
ならば、遠慮して言いたいことを飲み込むばかりじゃなくて、少しずつ、言葉にして伝えてもよいだろうか。
迷惑かなとか、我儘なことをとか、いろいろ頭を駆け巡るけれど、少しだけ、勇気を出す。
そして、いつもであれば遠慮して言い出せない願いを口にした。
「でも、身体もちゃんと休めて欲しいです。ヴィルヘルム様が無理していると、私も自分が不甲斐なく思えます」
「おや、そう返してきますか」
「生意気言ってごめんなさい。でも、本当の気持ちだから」
ヴィルヘルムがリュクレスを思うのと同じくらい、リュクレスだってヴィルヘルムを思うから。
大切に思うのも、心配をするのも、きっと、一緒だ。
真摯なリュクレスの言葉は男の胸に響いたのだろうか。
生意気な言葉なのに、呆れも見せず、冷徹な灰色の目は和らいだまま。
嬉しそうな表情を浮かべて、彼はしっかりと頷いてくれた。
「わかりました。ちゃんと休みます。ですが、今日のところは心配無用ですよ。仕事ではありませんから」
リュクレスの言葉をあしらうことなく、ちゃんと受け止めて、優しい声が杞憂を払う。
それを待っていたかのように、ノックの音が部屋に響いた。
騎士の案内で執務室に通されたのは、従僕などではなく、執事であった。
綺麗に伸びた背筋に、落ち着いた態度。お仕着せを隙きなく着こなす壮年の紳士は、まさにリュクレスの執事像そのものだ。
彼は丁寧な挨拶で、まずは突然の訪問を謝罪した。
鷹揚にそれを受け取って、ヴィルヘルムはうっすらと笑みを刷く。
その表情はさっきまでと同じようでいて、違う。いつの間にか、作り物のそれに変わっている。
どうやら、伯爵の訪問理由に見当がついているようだ。
そう察して、リュクレスは邪魔にならないよう沈黙を守る。
笑みを貼り付けたまま、ヴィルヘルムが口を開いた。
「用件は…と、聞くまでもないのでしょうね」
「主人との約束を覚えていて下さいましたか。感謝致します」
明言を避けた遠まわしなやり取りは、話の主題を理解させない。それでも、返される応えが、皮肉を含んでいるのはリュクレスにも感じ取れる。
そこはかとなく張り詰めた空気の中で、執事はリュクレスへと視線を流すとその硬質な雰囲気を和らげた。そうすると、途端に彼の印象が人懐っこいものに変わる。
「リュクレス様とお会いするのを、旦那様はとても楽しみにしておいでです。斯く言う私も、貴女の大きくなった姿を見たくてこの役を仰せつかってきたようなものですが」
「え…?」
突然話を振られ、リュクレスは当惑した。
「あ、あの、どこかでお会いしたことがありましたか?」
首を傾げる彼女に、執事は答えることなく、ただ静かに微笑んだ。
(自分のペースに巻き込むことが上手い御人だな)
というのはヴィルヘルムの感想である。
誠実故に、少々頭の硬いところもある伯爵を補佐するだけあって、彼は非常に柔軟で機転の利く質にみえる。なかなかに、侮れない人物だ。
優秀な右腕であろう執事に使い走りをさせたのは、ヴィルヘルムがリュクレスと会わせることを拒否した場合を考慮してのことだろう。確かに、彼ならばそれを覆すことが出来るかもしれない。
(流石のノルドグレーン伯も、痺れを切らせたか)
ヴィルヘルムは口元を歪めたものの、僅かのうちにそれを打ち消し、頷きを返した。
「わかりました。では、午後時間を作りますと伝えてください」
「畏まりました」
お手本のような綺麗な身のこなしで礼を取ると、執事は謎を残したまま、退出していく。
なんだかおいてけぼりにされたような心持ちで、リュクレスはその後ろ姿を見送った。
…ノルドグレーン伯爵は、ヴィルヘルムだけでなくリュクレスにも用があるのだろうか?
後見をしてくれているという彼に会うのは吝かではない。寧ろ、こちらこそ会ってお礼が言いたいくらいなのだ。だが、伯爵からの用事となると、皆目検討がつかない。
それに、あの親しみを持った声かけは?執事の口ぶりは、まるで、子供の頃のリュクレスを知っているかのようだった。
リュクレスの混乱を、ヴィルヘルムはわかっているのだろう。頭の上の「?」を追い払うように、ぽんぽんと頭が撫でられる。
「…伯爵様のご用は何なのでしょう?」
顔を上げてヴィルヘルムに尋ねる。
二人きりに戻った途端、彼は付けていた仮面を外していた。
見えない壁がなくなり、やんわりと包み込むような空気にリュクレスはほっとする。
「伯爵の用は君に会うこと、それだけです」
「私、に?」
「ええ、そうです。その理由は彼が話すでしょう。あの執事の意味深な言葉も、伯爵と会えば自ずとわかります。ですから、今は忘れて?せっかくですから午前中くらいは二人でゆっくり過ごしましょう。…ね?」
ヴィルヘルムにことりと小首を傾げられて、リュクレスは反射的に頷いていた。
頭を撫で下ろし、髪を梳くその手は優しい。
ヴィルヘルムがそう言うのであれば、伯爵のことはそれほど悩む必要もないのだろうと、なんとも楽観的になってしまうのは、見つめる視線もまた、その手と同じように優しいからだ。
考えなければいけないことなら、彼はそう言うだろう。
呑気かもしれないけれど、恋人と過ごす時間を大切にしたいのはリュクレスだって、どこにでもいる女の子たちと同じで。
だから、もう少し。
二人だけの安穏とした時間に、手を伸ばした。




