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騎士たちの仕事場である外郭は、各室内の装飾以外、建築当初から一切手を加えられることなく存在している。それは、機能性を重視する彼らにとっても、外郭が非常に考えて造られた建物だからに他ならない。
一見したら、装飾のない白い漆喰の壁に、床は凹凸なく切り出された石材が整然と並べられているだけの簡素な造りの廊下も然り。素材は外壁と同じ硬いもので強度も耐火性にも富んでいる。外郭の外側に面している廊下の壁には、有事の際を考慮して小さな窓があるだけだ。にも関わらず、圧迫感や狭隘さを感じさせないのは室内戦を想定し、天井が高く、横幅も広く確保されているためである。
彩光が取りにくい構造上どうしたって薄暗くなってしまいがちの廊下は、だが、陽が昇り小さな窓を通して陽射しが斜めに差し込めば、白い壁に光が拡散し、明るく照らされるよう計算されていた。
隧道のような廊下は、朝が来れば印象を一変させる。
その明るくなった石造りの床に足音を響かせるのは、ベルンハルトであった。
赤い髪が、窓を通り過ぎる度に、陽光を受け止めて明るく輝く。
目が覚めるような、情熱的な色だ。
がっしりとした体躯、男らしい顔立ちに浮かべられるニヒルな表情は、騎士学校の同期であるヴィルヘルムやアルムクヴァイドとは異なる色気がある。実際、怜悧な性格と氷の美貌で近づき難い将軍などよりは、彼のほうが余程、女性に人気があった。
大抵が年齢以上に見られてしまうのは、外見だけでなく落ち着いた行動と、あたりの良い性格が包容力を感じさせるからなのだろう。
大人の貫禄であると、信じたい。
間違っても老けているなどとは思いたくないベルンハルトである。
そんな彼が、書類を片手に向かう先は、その美貌の上司ヴィルヘルムの執務室だ。
手の中には早急に確認しておきたい事案がひとつ。
書類のやり取りであろうとも、直接確認したほうが早いと判断すれば、ベルンハルトは自分で動くことを厭わない。
それは王も将軍も同じで「手続きや形式に拘り後手に回るなど愚の骨頂」というのが、彼ら3人に共通した認識である。
しかし、舞踏会の翌朝だ。
ベルンハルトもそうなのだが、ヴィルヘルムは本来、休暇日。恋人を堂々と攫っての退場の仕方を考えれば、仕事場にいるはずなどない。
だが、…どうせ仕事の虫は執務室にいるだろうと踏んで、部屋をノックする。
案の定、小さく応えがあり扉を開ければ、室内には予想に違わず、手元の書類に視線を落とすヴィルヘルムの姿があった。寛いだ装いで執務机の前ではなく、ソファに深く腰掛けた男は、ベルンハルトが何か言う前に、書類を持つ手とは逆の手で唇の前に人差し指を立てる。
静かに、ということなのだろう。
…言われるまでもなく、騒ぎ立てるつもりはない。
しかしながら、瞭然たる呆れた視線に気がついていながら、それを綺麗に無視する男に、然しものベルンハルトも何とも言えない顔をした。
仕事人間は確かに執務室に居た。だがしかし、そこには予想していなかったおまけが付いていた。
ヴィルヘルムの手が自分の膝の上に下ろされる。正確には、その上にある頭に。
黒髪に手のひらを触れさせると、優しい仕草で撫で始める。
室内の重厚な雰囲気に、書類の束。僅かに香るインクの匂い。
見慣れた部屋に、余りにも違和感のある存在が、男の傍らで、すよすよと気持ちよさそうに寝息を立てている。
黒髪の少女であった。少し身体を丸めて横を向いて眠る姿は、起きている時以上に幼く映る。ベルンハルトが見かけたときにはいつも括られていた髪は肩に下り、無骨な指に絡みもせずにさらりと梳かれるのが、なんとも触り心地が良さそうだ。
あどけない寝顔には何の警戒もなく、不安もない。彼女の頬を時々掠める指先にふにゃと微笑む様子は、こちらまでだらしなく頬が緩みそうになるくらいに可愛らしい。
その笑みに、ふっと、ヴィルヘルムも口角を引き上げる。
作為的なものではない、思わずといった細やかな、笑み。
男の放つ凍えんばかりの冷気は鳴りを潜め、穏やかな気配ばかりがそこにはあった。
冬狼の我城とは思えない和やかさに、非難するよりはつい笑ってしまう。
しかし、彼女のためにも一言物申しておくべきだろう。
「いくら婚約者とは言え…お持ち帰りはどうかと思うぞ?未婚の女性なのだから、変な噂を立てられては可哀想だろう」
昨日の今日でこの時間に彼女が此処にいるのであれば…、間違いなく、部屋には帰してはいないはずだ。
赤みの残る目元に、今此処で眠っている姿を見れば、昨夜は恋人に寝かせてもらえなかったのかと、なんとなしに想像はつく。だが、目の前で眠る娘の稚さに若干どころか、相当の躊躇いと後ろめたさを感じて、ベルンハルトはそれ以上考えるのをやめた。
衣装がすっかり変わっているのを一瞬不思議に思ったが、この男なら恋人の着替えくらい容易く準備してしまうかと、納得する。侍女の時に着ていたお仕着せでないからか、少女の様相はさながら一片の花弁のようだ。
起こさぬよう小声で忠告すると、ちらりと鋭い視線が飛んできた。
「そこら辺は抜かりない。今回は俺が、ではなく、リンが、だがな。客室に招く準備がしてあったよ。それに、…手は出していない。あまり余計なことを言って煽るな。流石に抑えが効かなくなってきているんだ」
苦く、どこかやるせない声に、瞠目する。
ベルンハルトは今、自分が間の抜けた顔をしている自信があった。
「…は?離宮でも、ドレイチェクでも、同じベッドで寝てたんだろ?」
王の代わりに愛妾役であった彼女の相手をしていたのはヴィルヘルムなはず。そして、療養と称して王城から離れていた時には片時も娘を傍らから離さなかったと聞いている。
小さく舌打ちが聞こえた。
「なんで、そんなことまで知ってるんだ」
「そりゃ、な」
言葉を濁して、頬を掻く。
勿論、情報源はチャリオットだ。わかっているから、ヴィルヘルムも詳しく聞き返さない。
苦々しい顔で呟く姿を見るに、どうやら同衾していたにも関わらず、手を出していないのは事実らしい。…不能になったか?という言葉は飲み込んだ。狼の眼を見れば、それはないのは一目瞭然。
余計なことを言って、がっつり食われるのは、そこの娘だ。
「…どうりで警戒なくお前の傍で寝られるわけだ」
眠っているのだから当然、無意識なのだろうが、髪を梳く男の手にすりすりと頬を寄せる姿は、まさに安心していますという全幅の信頼が寄せられている。
…では、目元の跡は『啼かされた』というわけではない、ということか。
「自分で蒔いた種とは言え、生殺しであることは間違いないな。だが」
「だが?」
「それでも、この温度が傍にあればそれでいいと思えるあたり、惚れた弱みだ」
「…惚気かよ。真面目に聞いて損した」
ヴィルヘルムの傍に眠る少女が変わらない理由が、ベルンハルトにも理解できた。
修道院にいたという彼女は、今もまだ純真無垢で穢れのない純潔のままなのだ。
なるほど、確かに。
婚前交渉などすれば、彼女は白いドレスを笑顔では着られまい。神から娘を奪い取った男はそれをよく理解しているから、神の祝福を受ける場でこの娘が笑っていられるようにと、我慢をするわけか。
なんでもそつなくこなす器用なこの男でさえ、思うままには振る舞えない。
(恋というのはなんとも悩ましいものだな)
喉元で笑みを殺して、ベルンハルトはその場から動くことなく腰に手を置いて首を傾げた。
「まあ、それはそれとして、なんでここに寝かせているんだ?ベッドに連れて行けよ。隣だろうが」
二人共、とても真面目な質だ。仕事と私事をきっちり分けて考える。そう考えると、この光景はとても不思議なものだった。
「休日くらい傍にいてもいいだろう?午後からはゆっくりできないしな」
「なんだ、また、王妃にでも取り上げられるのか?」
「違う。ノルドグレーン伯だ。朝っぱらから訪問の申し入れがあった」
その名前を聞いて、ベルンハルトは眉を顰めた。
「お前、まさか。…協力を仰いでおきながら、まだ会わせてなかったとか、言わないよな?」
ノルドグレーン伯爵がリュクレスに会いたいとヴィルヘルムに伝えていたのは、確か彼女が王城に上がる前の話ではなかったか。あれから既に4ヶ月が経過している。
軽く肩を竦めて見せるヴィルヘルムに、ベルンハルトは口元を引き攣らせた。
なるほど、これでは忍耐強いあの伯爵が痺れを切らせてもおかしくはない。…完全に悪いのはヴィルヘルムの方だ。
それにも関わらず、露程も申し訳ないとは思っていない悪友に、ベルンハルトはノルドグレーン伯の心情を思って、苦言のひとつも言いたくなった。
「お前なぁ」
「仕方ないだろう。いろいろ忙しかったんだ。俺だって、怪物の件が落ち着いたら会わせるつもりではいた。予想外だったのはフメラシュ王女の強襲だ」
「お前は忙しかったんだろうが、リュクレスはずっと王城にいただろうが。彼女に話をして手はずさえ整えれば、もっと早くに会わせてやれたはずだろう?」
「一人で会わせる気は初めから無い」
ヴィルヘルムの確固たる眼差しを、ベルンハルトはため息をついて受け止める。
「独占欲も大概にしておかないと、逃げられるぞ?」
「逃げないさ。この子は際限なく俺に甘いからな」
ふてぶてしいほど傲然と、ヴィルヘルムは言い切ってみせた。
一体その自信はどこから来るのか。惚気か?俺は惚気を聞かされているのか?と、なんとも言い難い気分に陥ったベルンハルトに、ヴィルヘルムは表情を改めると、緩く笑った。
「まあ、独占欲を否定はしないが、理由は別だ。…この子は貴族が苦手なんだ」
「ん?」
「目の前のことに集中していたから侍女をしていた時には、その感情も薄れていたようだが、一対一で貴族に向かい合うことはまだ怯えてしまうだろう」
「平民なら、緊張するのは仕方ないんじゃないか?」
「そういうことじゃない。初めて会った時、リュクレスは俺に向かって膝を付き、首を垂れた。当たり前のように、極、自然にな。その時点で、想像がつかないか?」
身分の差に跪くことを強要する貴族たち。
彼らの寄付がなければ、成り立たない孤児院。
ならば、この健やかに眠る少女が受けた仕打ちは……、想像するに難くない。
「蔑まれる経験をしたものが、その相手に苦手意識を感じるのは…当たり前か」
ベルンハルトは苦い顔をした。
「貴族は怖い。ならば、王はもっと怖いのではないかと、怯えていたのを知っているんだ。ノルドグレーン伯が清廉な人柄だと知っていても、一人で会わせることなど出来ない」
「なるほどな…」
自分たちの知らないところに、当たり前のようにある差別。それを考えると、歯がゆい思いがのしかかる。
聞いてしまえば、リュクレスが貴族に対して苦手意識を持つのは何ら不思議なことではない。逆に、そんな経験をしていながら貴族という括りで全てを見ることをせず、人の本質を見つめることのできるこの娘は、見ためのか弱さからは信じられないほど、しなかやで逞しい心を持っているのだろう。
なるほど、冬狼将軍が落とされるわけだ。
「確かに、お前には相応しい娘なのかもな」
ベルンハルトの言葉に、ヴィルヘルムは視線を落とし苦笑した。
穏やかに眠る娘を見つめる。
「いや。…俺の方こそ、この子に相応しくありたいと望むよ」
そうして共に在れる未来を。
ふと、差し込んだ気がしたのは、待ち望む春の陽射し。
(ああ、ここだけは春、だな)
広大な草原に揺れる桃色と黄色の花。ひらひらと蝶が舞う。
その中に静かに身を伏せて半眼を伏せる狼。
ベルンハルトは元々、ヴィルヘルム同様、信仰に篤くはない。
経典もまともに開いたことがなかった彼が、好奇心に誘われて最後の場面を目にしたのはつい最近のことだ。
威厳に満ちた吹雪の中の冬狼しか知らなかったからこそ、その絵は酷く印象的に映った。
初めて見た情景が余りにも懐かしく。
その可笑しな既視感に、ああ、これが憧憬というものかと。
この国の守護獣に抱いた感情は、―――親近感だった。
柔らかで穏やかなあの挿絵の風景が、ここにある。
思わず、素で笑みが溢れた。
ヴィルヘルムやチャリオット、ソルという男たちが惹かれるのはこの温かさなのだろう。人の心に雪解けを齎すこの娘の存在は、確かに貴重なのかもしれない。
教会の与えた「蒲公英」の称号。それは確かに、この娘に相応しかった。
草原を吹き抜ける春風。
風に揺れ、冬狼の鼻を擽る優しい花が、彼女の価値だ。
「そういうわけであまり時間はないんだ。先に片付くことは片付けておこう。要件は?」
「そういうわけでも何も、自業自得だろ?」
呆れるベルンハルトに肩を竦めながらも向けられるのは、いつもの冷静で思慮深い眼差しだ。恋に溺れながらも、決して仕事を疎かにしない姿勢は変わらない。春を知った狼は丸くなるどころか、一層牙の鋭さを増して見える。
ベルンハルトは苦笑いを浮かべ、持ってきた書類をヴィルヘルムへと手渡した。




