幕間 暁降ち 後編
「もう少し眠った方がいい」
夜明けはまだ遠い。
ヴィルヘルムは少し落ち着きを取り戻したリュクレスに、そう言って微笑んだ。
人生経験の差か、さっきまでの動揺していた姿が嘘のように、彼自身は穏やかだ。
「ヴィルヘルム様こそ、ずっとお仕事していたんですよね?ちゃんと寝てください」
頬に僅かに赤みを残したまま、リュクレスは掛物を捲って、ヴィルヘルムを寝台に誘った。男としては据え膳としか思えない行動だが、リュクレスの仕草には色めいたものはなく、純粋にヴィルヘルムを心配する思いばかりが溢れている。これだから、狼になりきれないのだ。
苦笑を滲ませて、誘われるがままに彼女の隣に寝そべると、ヴィルヘルムは優しくその小柄な身体を引き寄せた。
「寝坊しちゃっても、いいですからね?」
腕の中で、囁くように少女は言う。
しっかり休んでほしいというリュクレスの優しさを嬉しく思いながらも、ヴィルヘルムは少しだけ心外そうに彼女の頬を撫でた。
「君との散歩を楽しみにしているのは私も同じなのですから。そんな残念なこと言わないでください」
頬に触れた手に重ねるように手を添えたリュクレスは少しだけ驚いた顔をして。
それから、とても嬉しそうに、ふにゃんと笑った。
「…はい。ふふ、楽しみですね」
南の庭園を散歩しようと、そう約束したのは、つい先ほどのことだ。
それは、舞踏会の会場からヴィルヘルムの部屋にたどり着くまでの小さな出来事だった。
****
静けさに、ふと、感覚を掠めたのは音、だった。
リュクレスを攫った恋人は、何処に向かうのかを口にしないままに進む。行き先が気にならないわけではないけれど、不安はない。
時に会話が途切れても、静かな沈黙が心地よかった。
外郭に繋がる回廊脇の歩廊に差し掛かった時のことだ。
遠くから、微かに音が聞こえてきた。
リュクレスは、惹かれるようにして、窓の外を見つめる。
じっと目を凝らして、耳を澄ませていると、「まるで猫のようですね」とヴィルヘルムが笑った。
「猫、ですか?」
きょとりと、目を瞬かせれば、彼は方向を変えて回廊へと向かう。
「じっと一点を見つめて動かなくなるところなんて、ルードとそっくりですよ。……丸くなって眠る姿も、手に擦り寄る仕草も。ふふ、いつか、にゃあと鳴くのかな?」
リュクレスは、猫を真似た自分を想像してしまって、ぱっと顔を赤くした。
甘えた声がにゃあと鳴くのを慌てて両手でパタパタ打ち消して、否定する。
「な、鳴きませんっ」
「おや、残念」
リュクレスの反応が楽しくて仕方がないとでも言うように、くつくつと喉の奥で笑いながら、ヴィルヘルムは扉を抜けて、回廊に出た。
冷たい外気に吐いた息が白くなる。
「外套を準備してくればよかったですね」
ヴィルヘルムはそう言って、心配そうな顔をするけれど。
今までよりもぎゅっと、抱きしめてくれるから寒くはなかった。
「さて、お姫様。君の気になったものは、ありましたか?」
リュクレスの好奇心に、ヴィルヘルムは付き合ってくれるつもりのようだ。
リュクレスは、自分の視線より少し高い位置から南の庭園を見渡した。
点々と灯される明かりが、庭先の植栽を薄ぼんやりと浮かび上がらせ、奥に見える木々はその影を闇に溶け込ませている。
明るくはない。だが、警備のために、目が慣れれば周囲が見渡せるくらいには、明かりが用意されているのだろう。
慎ましやかな灯火は、月の光を邪魔するほどの明るさではなかった。
頭上には、星が歌うように瞬いている。
薄い紗のような雲が月明かりに白く浮かび上がって、そこにあるのは夜闇と光の織りなす幻想的な空。
絵物語の挿絵のような世界が、そこにあった。
静けさが、リュクレスの耳に何かを届けた。
外に出たからか、雲をつかむような感覚が、少しだけ確かになる。
「…ヴィルヘルム様」
「どうしました?」
同じように庭に目をやっていたヴィルヘルムが、リュクレスの顔を覗き込んだ。
二人に降り注ぐ青白い月光が、見下ろす彼の顔に影を掛ける。
呼び止めてみたものの、どう言っていいものか。
とてもささやかで曖昧な感覚に言い倦ねる。
ヴィルヘルムが答えを待つように足を止め、沈黙が、今度は確かに音を届けた。
キィン…と微かに、何かが割れるような音が、聞こえた。
「あ、この音です……何の音でしょう?」
とても綺麗な音色だった。
さっきまで広間で聞いていたような楽器が奏でるような音ではない。
硝子を弾いたような音に近い。
でも、何か違う。もっと繊細で、優しい音に耳をすませる。
キィン…、キィン……
不規則なそれは一所から聞こえてきているわけではなかった。
包み込むように音が共鳴して四方から響いてくる。
耳に届いた音にヴィルヘルムは「ああ…」と小さく頷いた。
「樹氷の薄氷が割れる音ですね」
「樹氷の?」
「ええ。気温が上がると樹木の表面が膨張して、凍った幹の表面に亀裂が入るのです。その時、こんなふうに音を立てる。明日は、暖かくなりますね」
ヴィルヘルムの教えてくれた自然の天気予報に、リュクレスの胸の中には小さな望みがぽんと咲いた。
綺麗な音に誘われるように、思わず尋ねる。
「ヴィルヘルム様、明日はお仕事ですか?」
噛み合わない切り返しに、彼が目を瞬かせた。
言葉足らずは、リュクレスの悪い癖だ。
気が付いて謝罪すると、ヴィルヘルムはわかっているとでも言うように小さく笑んで、続きを待ってくれる。優しい眼差しに背中を押されて、リュクレスは口を開いた。
「暖かくなるのなら、一緒にお散歩したいなぁって、思ったんです。ヴィルヘルム様は知っていますか?お庭から王宮がとても綺麗に見える場所があるんですよ。特に朝陽に照らされると、真っ白なお庭が黄金色に輝いて、本当に綺麗で。一緒に観たいなぁって思っていたんです。でも、お仕事があるのなら」
「明日はお休みです」
最終的に自分の望みをしまい込もうとするリュクレスの先を封じるように、ヴィルヘルムが言葉を重ねた。
「私は、駄目ならば駄目とちゃんと伝えます。ですから、君は遠慮などせず、願いを口にしなさい。そうやって言葉を飲み込まれると、君に頼りにされていない自分を不甲斐なく感じてしまう」
「そ、そんなつもりは…」
「ないのならば、我慢はしないこと。いいですね?」
ジッと見つめてくる灰色の瞳は、否は認めないと無言で圧力を掛けてくる。
口を開いて、閉じて。
リュクレスは、「でも」も「だって」も言えなくなった。
だから、ちょっとだけ拗ねたように、珍しくも文句を口にする。
「…ヴィルヘルム様は、私を甘やかしすぎだと思います」
「おや、はいと、言ってくれないのですか?」
ヴィルヘルムが、すっと目を眇めた。眼鏡越しの瞳を真正面から受け止めてしまい、リュクレスの肌が粟立った。
とろりとした熱を燻らせる魅了の瞳に目眩がする。
でも、流されちゃいけない。
優しい恋人はいつだって、リュクレスに甘い。
甘すぎると思うくらいに、甘い。
…甘やかされるだけなのは嫌なのだ。
出来るなら本当は。同じくらい…甘えてくれる方が嬉しい。
冷たくなった指先に、リュクレスの手でヴィルヘルムを温めることは難しいとわかっている。この腕も彼を包み込むほど大きくはない。
それでも、抱きしめたいのだ。
「だって、私ばっかりは嫌です。ヴィルヘルム様にも、甘えて欲しい、です」
相手は10も年上の男の人だとわかっている。
リュクレスなんて、子供のように頼りないものかも知れない。
それでも、真剣にそう言ったのに、彼は。
思わずとでも言うように、吹き出した。
リュクレスを少し痛いくらいに強く抱きしめるのに、くすくすと笑いは収まらない。
だから、少しだけ不満そうな顔をして、本気なのにと呟けば。
「十分、甘やかされているのですけどね」
頭に頬を寄せたヴィルヘルムが、柔らかに囁いた。
****
「準備万端というか、…いや、これは用意周到というべきだな」
手早く入浴をすませ、堅苦しい正装をといたヴィルヘルムは、小さく独りごちた。
濡れた髪をぞんざいに拭きながら、私室から繋がる執務室の扉を開ける。
人気のない部屋は暖炉の火が入っていてもどこか寒々しい。
だが、そのくらいの方がヴィルヘルムにとっては、過ごしやすいのだ。
仕事机の中から書簡紙を取り出すと立ったまま、さらさらと何事かを書き込む。インクが乾くのを確認すると、踵を返して私室に戻った。
そこには、化粧を落とし、ドレスを脱いで、白い柔らかな素材の寝衣に着替えた娘が一人、寝台の掛物に埋もれるようにして眠っていた。すよすよと、気持ちよさそうな寝息が聞こえ、ヴィルヘルムの眉間の皺が消える。
「気疲れしたのでしょうね」
慣れない格好に、慣れない場所。緊張し通しできっと相当に疲れたのだろう。
浴室から出て、この部屋にきた時にはすでにとろりと眠気を催した目をしていたから、早々に寝台に押し込んでみれば、ものの数分で彼女は眠りの世界に旅立っていった。
樹氷の砕ける音に誘われて回廊に出たふたりを迎えに来たのはトニアだった。
本来であればここにいるはずのない彼女に、ヴィルヘルムはわずかに眉を顰めたが、すぐにその理由に見当がつく。
「ルーウェリンナ、ですか」
それに、トニアは満面の笑みで答えた。
「お手紙を頂きまして。本日よりリュクレス様が外郭のお部屋に移られるので、お世話に上がれと。ですから、万事が万事、準備を整えてお待ちしておりました」
丁寧なお辞儀をしてから、いつものように朗らかな声がそう説明する。
ヴィルヘルムは、抜かりないルーウェリンナに苦笑を禁じえない。
国王夫妻と暗躍し、ヴィルヘルムを嵌めた彼女自身は既に領地に引き返している。
西の大陸に出した狼の盾が、少々気になる情報をもたらしたのだ。
焦臭い空気に、ルーウェリンナはいち早く動き出した。
だが、その動きに追従するのは、彼女の報告を待ってからでも遅くはない。
それまでは、この平穏を満喫することに決めて、ヴィルヘルムは腕から下ろした少女がトニアに抱きつくのを微笑ましそうに見つめていた。
「なるほど。では、そのように。慣れない夜会に疲れているようですから」
「承知致しました」
再会を喜ぶリュクレスはとても嬉しそうな顔をしてトニアと話している。
王城の使用人であるはずのトニアやレシティアたち、厨房にいるはずのアルバの姿がないことをずっと彼女は気にしていたようだったから。
とても心配していたのだろう、元気でいたことに安心したように笑っていた。
その笑みを見つめ、ほっと、息をつく。
外郭に迎えられることに、誰よりも安堵したのは、ヴィルヘルム自身だ。
彼にとって、リュクレスが夜会に参加していたことは完全に予想外のことだった。だから、離したくないのは山々ながら、最終的には彼女を自室に送り届けるつもりでいたのだ。なんの準備もなく彼女を部屋に連れ込めば、悪し様に言われるのは間違いなくリュクレスの方だからである。しかし、外郭に迎える準備がされているのであれば、当然ながらヴィルヘルムに否はない。
トニアがリュクレスを案内したのは、ヴィルヘルムの私室、執務室の並びにある客室であった。
基本、賓客は王宮に宿泊するから、普段、この部屋が使われることはほとんどない。使われるのはヴィルヘルムの親しい人物が私的に滞在するときくらいだ。表向きは、外郭の方が、気が楽だという理由で。裏には、密談に適しているからという理由がある。この部屋には執務室と繋がる扉があり、廊下に出ることなく行き来が出来るようになっている。もちろん、隠し扉になっているから知る者は少ない。その扉を、今日は秘密の逢瀬のために利用した。
未婚の女性であるリュクレスを、婚約者だからといってあからさまにヴィルヘルムの寝室に連れ込むことはできない。だからといって、また明日と淡白に言えるほど、ヴィルヘルムはリュクレス不足を解消出来ていなかった。リュクレスもまた、離れがたい様子だったから、それを免罪符に客室に案内した彼女を、執務室を抜けてヴィルヘルムの部屋まで連れ込んだのだ。
気を張っている必要が無くなったからか、それとも、やはりヴィルヘルムの傍で安心したのか、すとんと落ちるように眠りに就いたリュクレスは、とても穏やかな寝顔をしている。
寝台の端に腰掛け、リュクレスの髪を撫でる。柔らかな髪は相変わらず、触り心地が良い。
梳き上げるように触れながら身を屈め、その額に口付けを落とす。
「ちゃんと仕事終わらせておきますから、起きたら頑張った俺にご褒美をくださいね」
そんな風に強請りながら、眼鏡とカフスを置いたままのナイトテーブルの上に手紙を置き、手元の洋燈を消すとヴィルヘルムは彼女を起こさないよう、執務室に戻った。
次に部屋に戻った時に、彼女の漏らした可愛らしくも、甘い告白を聞けるとも知らずに。
暁降ちはまだ、遠い。
暁降ちとは、夜がその盛りを過ぎて、明け方近い頃のこと。
朝を待つ夜の静けさに、お互いの温もりを求め合う、和やかで柔らかな時間。




