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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
湖水の君と舞踏会
218/242

幕間  暁降ち  前編

Q:ヴィルヘルムがリュクレスを連れ去った先は…



リュクレスが目覚ましたのは、見慣れない部屋だった。

簡素だけれど寝心地の良い寝台と、暖かく身を包む肌触りの良い清潔なリネン。

かけ物の中に埋もれたまま、唐突な覚醒にまどろんでいると、小さく何かが爆ぜる音が聞こえた。緩慢な動きでそれに反応し、ゆっくりとそちらを向けば温かな朱色の灯り。

見つめる先にある暖炉の中で、火のついた薪がほろりと崩れた。

暖炉を囲む綺麗に磨かれた飴色のマントルピースには、アザミを模した緻密な文様が彫り込まれ、部屋の壁を琥珀色に染め上げる仄かな焔が、ゆらゆらとその彫刻に陰影を刻んでいる。朧な明かりに、天井の梁や露出した柱が黒光りして、部屋全体に重厚感のある落ち着いた印象を与えていた。

絵画や、調度品などの類が一切置かれていないのもその理由のひとつだろう。

寝台だけでなく、そこに置かれているチェストや椅子も、全てとても丁寧な作りの素晴らしいものだけれど、華美な装飾はない。

居心地の良い部屋だ。

そう感じるのは、その落ち着きだけでなく、そこかしこに部屋の主の気配が残っているからなのかもしれない。

夢見心地のまま、のっそりとリュクレスは身体を起こした。

分厚いカーテンの向こうは、まだ夜が深い。

変な時間に起きてしまったからか…頭が上手く回らずに、小さなあくびを噛み殺して、子供のように寝惚け眼を擦る。

するりと掛物が肩を滑り落ちて、ひんやりとした空気が肌を撫でた。少しだけ、眠気が飛ぶ。

意図せず流した視線の先に、縁なしの眼鏡と銀色のイヤーカフスが置かれているのが目に入った。その横には、二つに折畳まれた白い紙片。

流麗な文字で書かれているのは、リュクレスの名前だった。

「私宛て…?」

興味を惹かれて、手を伸ばす。かさりと小さな音を立て、折り畳まれたそれを開いた。

そこには、優しい言葉が綴られていた。


『おはよう。

君が起きる前には戻るつもりですが、もし起きてしまったのならば、私は隣の仕事部屋にいますから安心してください。不安なら、いつでも呼んでもらって構いません。

こんな些細なことを、と思うかもしれないけれど。

手紙をやり取りしようと約束したことを、覚えていますか?

すぐ傍で、些細なことでも君に伝えることができる。

それを、私がとても幸せに感じていることを、君にも知っていて欲しい』


目で追う文字が、ヴィルヘルムの声となって聴こえた気がした。

じんわりと、胸の奥に灯る熱。

過去の回想が感覚さえも伴って色鮮やかに蘇る。


「傍にいて、触れ合える距離で、それでも伝えられない言葉があるから。伝えきれない想いを言葉にして、君に送りましょう」


それは、まだ陽射しの強い夏の日の記憶。


心臓が柔らかに波打った。

交わした約束も、たわいのない会話も、ヴィルヘルムは大切に覚えていて、こうして機会を作っては、ちゃんと果たそうとしてくれる。

言葉だけじゃ伝わらないものは確かにある。

けれど、言葉だからこそ伝わるものも、いっぱいあるのだと。

こうして心を満たしてくれるのは、紙片に乗せられた想い。

湧き上がる幸福感に、胸が詰まる。目を瞑ると、リュクレスはぽてっと寝台の上に顔を埋めて丸くなった。

苦しい。

嬉しくて泣きそうだ。幸せで、本当に幸せで。


「ヴィルヘルム様…大好き」


はじけそうになる感情を、言葉という形にして吐き出す。

大切な人へ向けての嘘偽りのない純粋な想い。

それは空気を揺らして、音になり。

…どうやら、相手の耳にも届いたようだった。

「私もですよ。リュクレス」

「!」

返るとは思っていなかった応えに驚き、飛び起きる。

狭くはないが、広過ぎもしない部屋の扉の前に、いつからいたのだろう?

腕を組んで扉に凭れたこの部屋の主人の姿があった。柔らかなその表情は、とても嬉しそうだ。

作り物の笑みじゃない。

眼鏡もないから、輝かしいばかりのその魅力的な笑みが何にも遮られることなく、リュクレスの瞳に映り込む。それは見蕩れてしまうくらいに綺麗で、…リュクレスはやっぱり胸が締め付けられて、愛おしく温かい感情に、泣きそうな顔で笑った。

乱暴なくらいに大暴れする鼓動を抑えるように、胸の前で両手を握り締める。

その瞬間。

手の中で、くしゃりと嫌な音がした。

「あ…」

そろりと視線を下ろせば、大切な手紙をしっかりと握り込んでいる自分の手。

「わわ…っ」

慌てて手を開いて、ナイトテーブルの上で皺を引き伸ばす。

けれど、握りつぶしてしまった手紙の皺が、消えるはずは、当然なくて。

…歪に折れ曲がった跡が切ない。

がっくりと肩を落としたリュクレスの一連の行動が可笑しかったのか、始終を見守っていたヴィルヘルムが小さく声を上げて笑った。

せっかくもらった大切な手紙をぐしゃぐしゃにしてしまい、リュクレスは悲しいやら申し訳ないやら、間の抜けた自分の行動が恥ずかしいやらで、情けない顔を赤くしたり青くしたりと忙しない。

わたわたしている少女のもとに、扉から背中を離して、男がゆっくりと近づいた。

ただ歩いてくるだけの動きすら、自然で様になるから、目が離せない。

情熱を灯す瞳に、囚われる。

たどり着いた寝台の端にヴィルヘルムは片膝をついた。

伸ばされる手がリュクレスの黒髪を梳き、項をなぞって引き寄せる。

「私も、君が好きです」

愛を紡いだ唇が、優しくリュクレスのそれに重ねられた。

触れるだけの、掠め取るような接吻に、目を閉じることすら忘れて。

少しだけかさついた、柔らかな唇。

唇、頬、額へと、羽のように軽く触れてくるそれが、擽ったくて、首を竦める。

ふっと、吐息が漏れれば。

ヴィルヘルムが、少しだけ身体を離した。

「そんな甘い声を出しては駄目ですよ。ここにいるのは狼なのですから」

仕掛けたのはヴィルヘルムのはずなのに、彼は何かに耐えるような顔をして諭すようにそんなことを言う。

その『狼』が、冬狼を指しているわけでないことは、流石のリュクレスにだってわかった。けれど、何が彼の琴線を揺るがすのかまではわからない。

甘い声と言っても、そんなつもりは全然なかったから。

…もしかして、無意識に甘えていたのだろうか?

リュクレスは戸惑いを浮かべた。

「ごめんなさい。あの、どうすれば、いいですか…?」

本当にどうすればいいのかわからないのだ。

自分に自覚のないものは注意のしようがないから。わからないのに、「気をつけます」とは言えなくて。

助けを求めるように、ヴィルヘルムを見上げる。

そこには、すごく複雑そうな顔をした恋人が、いた。

…また、何か失敗してしまったのだろうか?

片手で額というか目の辺りを覆うと、深々とため息をついている。

「あの、えっと…。ご、ごめんなさい」

なんだか余りに疲れた様子に、申し訳なくなってもう一度謝罪の言葉を口にすれば、恨みがましい視線を返された。

「…その謝罪、意味はわかって言っている?」

「ヴィルヘルム様をとても困らせてしまっていることだけはわかります」

眉尻を落として、悄然とヴィルヘルムを見つめれば、彼はじっとリュクレスを見下ろして、

「まったくもう、君という人は……本当に。…振り回されるばかりだな」

吐息とともにそう言葉を吐き出した。

「ええと、あの…、ご」

「ごめんなさいはいらない」

先んじてそう言われてしまえば、リュクレスは口を噤むしかない。

ゆっくりと腕を下ろしたヴィルヘルムは怒ってはいなかった。胸の内にある色々なものを呑み込み、結局最後には苦笑に変えて、その瞳にリュクレスを映す。

そうして、優しい笑みが、ゆっくりと。

不穏な空気を漂わせたものに変わった。

嫌な予感に、リュクレスは僅かに身じろぐ。

だって。

(だって、ヴィルヘルム様、…今何か企んだ顔していたもの)

獲物を見つけた獣のようにすっと細められた目に見つめられ、全身が痺れたように、動かなくなる。

「いいですよ。今はいくらでも振り回されてあげます。その代わり、結婚したら覚悟していてくださいね?」

聞き返してはいけない。警報は頭の中で鳴り響くのに。

直情的な感情を秘めた瞳に、唆される。

「覚、悟…?」

少し震える声がそう問えば、男は甘く笑みを刷いた。

「ええ。もう我慢なんてしません。たっぷりと、俺の想いを思い知らせてあげますから、ね?」

(ねって、い、言われても……っ)

清々しいくらいの微笑みが、逆に、怖い。

『野生の獣にご注意ください』

何故か、里山の入口に立っている立板を思い出した。

…もしかしたら、リュクレスは狼の尻尾をしっかりと踏んづけてしまったのだろうか。

今も、尚。

美味しくなんてないですよ、って言いたいけれど。

お腹が空きましたって顔をされたら、拒否なんてできなくて。

だから。

「う、え、えっと……、お、お手柔らかにお願いします…」

うう、と泣きそうな顔をして、けれども、どうにかそれだけを言って顔を上げる。

そうしたら、今度はヴィルヘルムの方が珍しく顔を僅かに赤くして、リュクレスの頭を引き寄せた。

意地悪な表情とは正反対の優しく温かい腕に包まれて、男の顔が見えなくなる。

見えないけれど、でも。

「……全力で、努力します」

さっきまでの楽しむような口調ではなくて、すごく真剣で誠実で、真摯な言葉に。

リュクレスはほっと頬を緩ませて、シャツ一枚隔てただけの逞しい胸に、額を押し付けた。








A:将軍様の私室でした。

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