幕間 将軍様のご機嫌 前編
「忘れられない夜会になっただろう?」
にやりと楽しそうに笑ったのは、一段高い位置で椅子に座る華やかな美丈夫だった。
白みを帯びた金色の髪が、彼が動くたびにシャンデリアの光を受けて豪奢に輝く。
獅子王というに相応しい逞しい躰つき、そして堂々としたその存在感。
蒼天の瞳が見せる揺るぎなく強い眼光。
この国の国王はとても威厳のある素晴らしい人格者だ。
気高くありながら、弱い者の言葉にも耳を傾け、より良い国を作ることに努力を惜しまないその姿には、自然と頭が下がる。
高みに在る人なのに、それを鼻にかけることなく、その中身はとても大らかで明るくて、今も、笑っている姿は、悪戯好きの少年のようだ。
彼の視線を追いかけるように、リュクレスは視線を上げた。
すごく近いところに、とても秀麗な顔がある。それは、自分がその腕に抱き上げられてしまっているからだ。どの角度から見ても、彫像のように整った顔立ちは完璧で、繊細なほどなのに、触れている身体は硬く引き締まっていて、彼が鍛え抜かれた軍人であることを知らせている。紺青の髪を揺らして溜め息をついたヴィルヘルムは、リュクレスを腕に抱いたまま、王に向かって慇懃に礼をした。
……下ろしてくれる気は、なさそうだ。
「そうですね。忘れられそうにありません。こんなに可憐な姿を見てしまえば…ね?」
彼は親友の投げる意味深な視線を受け止めて綺麗に微笑み返すと、最後の言葉はリュクレスへと同意を求めてくる。
それに、どう返せばいいのだろう。
経験値不足に、リュクレスはただ赤面しておろおろするばかりだ。
「ヴィルヘルム様…もう、立てますよ?それに、王様の前ですから」
誤魔化すつもりではないけれど、居た堪れなくなったリュクレスはヴィルヘルムにそう言った。
そう、国王の前なのだ。どう考えたってこの体勢は無作法でしかない。
ちゃんと、立って挨拶をしなければと思う。
目で訴えても駄目だったから、下ろしてくださいときちんと口にしてお願いしてみたのに、それはあっさりと却下された。
「駄目ですよ。これは君が誰のものか知らしめるための、言わば宣伝なのですから」
「宣伝…ですか?」
「威嚇、の間違いだろ?」
首を傾げれば、アルムクヴァイドがそう言って小さく吹き出した。
夜会はまだ始まったばかりだというのに、ヴィルヘルムはもう、この場から退場するつもりのようだ。
王に述べていた口上は退室の許可を願うものだったから、間違いはないだろう。
将軍として国王夫妻の警護だとか、社交場でもきっとお仕事があるはずなのに。
いいのかな?って心配になって見つめれば、殊更甘く微笑み返された。
その視線に、びりびりとしたものが背中を這い、リュクレスは思わず背筋を伸ばす。
本能が危険を察知して、逆らっちゃいけないと告げるから、リュクレスは開けた口を慌てて閉ざした。
頭の中を過るのは、各言。
口は災いの元。
沈黙は金なり、だ。
「くくっ……やっぱり、リュクレスといるとお前、面白いな」
神妙な顔をして黙り込んだリュクレスと、大人げない親友に、アルムクヴァイドは笑いを堪えて肩を振るわせる。場所が場所だけに、爆笑するわけでないのが、逆にヴィルヘルムをいらっとさせるが、当然彼が、やられっぱなしでいるはずもなかった。
「貴方こそ、ようやく王妃に許してもらえたようで、良かったですね」
王のからかいは軽くいなされ、さらりと返される。
いつものように穏やかな表情だけれど、ヴィルヘルムの目にはあからさまに意地悪な色が浮かんでいた。
一瞬にして笑いを収めた王様が、リュクレスにはちょっとだけかわいそうに思える。
ヴィルヘルムはしれっとして、眼鏡の奥の瞳を眇めた。
「言われなくてもわかりますよ。その顔を見れば。どれだけこの夜会を渋ったと思うんですか貴方は」
王様でも夜会を渋ることがあるんだ、という驚きは、どこか共感を伴うものだった。
「彼は華々しいこういう舞台は好きではないのです。堅苦しい格好をしなければならないのが苦手なんですよ」
そこはかとなく沸いた親近感は、ヴィルヘルムの言葉を聞いて一層深くなる。
王族だけれど、王様の感覚は庶民に近いのかもしれない。
なんだか嬉しくなって、リュクレスは他の貴族の女性との話を終えたルクレツィアが王の傍らに戻ってくるのを見ながら、ふふっと笑った。
「なんだか勿体ないですね。正装の王様と王妃様は並ぶと本当に素敵で、お似合いなのに」
男らしい整った顔立ちにがっしりとした長躯のアルムクヴァイドと、見目麗しく女性の中では背の高い方であろうルクレツィアが寄り添うと、あたかも初めから一対になるための存在であったかのように、とてもしっくりくるのだ。
元からが素敵な二人だから、着飾った姿はもう、感嘆の吐息しか出ない。
「のせるのが上手いな。そう言われたら夜会も嫌とは言えん」
「?…ルチ様は王様の格好いい姿、とっても好きだと思いますよ?あ。もちろん、どんな姿でも大好きでしょうけど」
ルクレツィアは王様が大好きなのだ。傍にいるだけでとても幸せそうだ。
だけど、もしかしたらそういうのって、自分たちでは、案外気が付きにくいのかも知れない。
だって、ヴィルヘルムの傍にいられることは、こんなに幸せをもたらしてくれるのに、ヴィルヘルムが幸せかどうかは、リュクレスだって訊かなければわからなかったのだから。
だから、二人共とても幸せそうですよ、とリュクレスなりに伝えてみたのだけれど。
「アル、ここでのたうち回らないでくださいね。みっともないですから」
面映ゆそうに頬を掻いていた王様の手がふいに止まったと思ったら、呆れた顔でヴィルヘルムが釘を刺した。
「わかってる…!」
さりげなく明後日の方を向いた王様の耳は真っ赤だった。
そういえば王様恥ずかしがり屋だとヴィルヘルムに聞いたことがある。
時と場合という意味で、今伝えるのは拙かったのかもしれない。
(ごめんなさい、王様)
申し訳なく思っていたら、ルクレツィアがふんわりと微笑んだ。
その手が、そっとアルムクヴァイド腕に添えられる。
触れる手の感触に彼は妻に向き直り、美しいかんばせを見つめた。
「リュシーの言うとおり、どんな姿でも素敵ですが、こうして素敵なお召し物を身に着けた姿を見るたびに、私は貴方に繰り返し恋をしているのだと感じます」
愛おしいと告げるルクレツィアの瞳が、やんわりと細められる。
喧嘩をしていた分、仲直りをした後はいつも以上に仲良しみたいだ。
あまりに絵になるから、ぽうっとして二人のやり取り見蕩れてしまった。
ふたりの仲睦まじい様子は、この国ではすでに当たり前の光景になりつつあるらしい。今更、誰も驚きはしていないようだ。でも、失礼にならないようになのか、甘さに耐え切れなかったのか、そっと皆して視線は外しているのが、少し可笑しい。
「ね、国王夫妻がこうなのですから、君が私の腕の中にいることくらい大した問題ではありませんよ」
ヴィルヘルムがそうやって、言葉を重ねてくるから、リュクレスは困った顔をして、それから、ほんのりと紅みの残る顔で、はにかんだ。
「こうされているのが嫌なわけじゃないです…ただ、恥ずかしいだけで…。えっと、……ヴィルヘルム様にこうして触れられるのは、嬉しいんですよ?」
子供のようにえへへと笑って、彼の肩口に額を摺り寄せた。
他の誰かに無礼者と咎められないのならば、気恥ずかしさ以外、この腕を拒む理由なんてないから。
ヴィルヘルムの言葉ではないけれど、逢いたくても逢えなかった切なさに、少しだけ甘えたい気持ちになっているのかもしれない。
頼りがいのある温もりに、リュクレスの中に警戒心なんてまるでない。
「全く、君という人は…本当に無邪気に煽ってくれる」
複雑そうに呟いたヴィルヘルムだったけれど、リュクレスが顔を上げると、「なんでもありませんよ」と言って、うっすらと口角を引き上げた。
それから王へと視線を移す。
両手が塞がったままのヴィルヘルムは王に向かって恭しく頭を垂れた。
「さて、我が王、私たちはこれにて失礼いたします。後のことは宜しく」
遠巻きに見ている者達からすれば、吐息が溢れそうなほど優雅で、折り目正しい臣下の礼。けれど、周りに聞かせないその言葉は、ちぐはぐなくらいに砕けていた。
なんの頼みごとか、二人にだけわかるやり取りに、面白がっている感のある王様がきらりと白い歯を見せて笑う。
「任された」
表面上はいつもどおりの冷静で穏やかな表情のまま。
けれど、何処か性急なヴィルヘルムの心情を誰よりも理解している親友は、色々なものを含んで、承知の言葉を彼に送った。




