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「ヴィルヘルム様とっても素敵です。格好良い」
見上げてくる湖の如き瞳はきらきらと輝いて、飾り気のない褒め言葉は、子供のように無邪気だった。
勲章の意味も、将軍という地位も、彼女にとってはそれほど重要ではないのだろう。ただ、ヴィルヘルム自身を見つめる無垢な瞳に、うっとりと男は微笑み返した。
王女から引き離し、なんとも頼りない足取りを支えるようにその身体に手を添えると、リュクレスは小さくありがとうございますと唇だけ動かした。
彼女の足が悪いことをフェリージア王女は知らないようだ。気を使わせたくなくて踵の高い靴も黙って履いているのだろうが、危なっかしくて仕方ない。
支えて歩くために自然に寄り添う距離となり、それがリュクレスに向けられる無遠慮な視線をはっきりと感じ取らせる結果になった。懸命に歩く娘は気がつかないが、その視線の中には熱の籠るものも少なくない。自分以外の目が彼女を映すことが不愉快で、ヴィルヘルムの機嫌は一気に下降していく。彼らの視線から隠すように、柱で死角となったバルコニーに誘い込み、ようやく安堵の息を付けば、悲しそうな眼差しがヴィルヘルムを見つめていた。
「ヴィルヘルム様、あの、ごめんなさいっ。私…」
しゅんとした娘が謝ろうとするのを、慌てて押しとどめ、情けなくも嫉妬をこぼす。
「違います。場違いなどではないし、そのドレスも本当によく似合っている。とても可憐で、まるで妖精が紛れ込んだようだ。余りに魅力的だから、君に惹かれて男たちが物欲しそうに君を見る。それが許せないだけです。まあ、みっともない男の嫉妬だ。君は気にせず笑っていなさい」
ヴィルヘルムが嫉妬するなど、リュクレスには思いもよらなかったのか。
驚いた顔をした恋人に男は苦笑した。
(君の中で俺は、どれだけ清廉潔白な紳士なのだろうね?)
欲に塗れたこの中身を覗かれてしまったなら、この子は逃げてしまうだろうか。
ほろ苦い感情がヴィルヘルムを支配する。ここにいるのは、唯の男でしかないのに。
穏やかな笑みの下に隠した情火の熱を、まじまじと見つめてくるリュクレスにゆっくりと流し込む。
可愛らしいあどけなさの中に甘く熱が生まれて、彼女は逃げることなく目を潤ませた。
苦しそうに吐息を漏らすその姿に、ヴィルヘルムの胸は歓喜に騒めく。
そこに居るのは、恋をして、恋に戸惑う娘だった。
そして彼女が見つめる相手は、間違いなくヴィルヘルム自身なのだ。
欲しいと望む相手が、己を欲することに高揚する。
鋼のような理性は、すでに焼き切れていた。
見上げる切ない視線に唆されて、赤くなった耳にやんわりと歯を立てる。どこもかもが美味しそうな愛しい娘は首を竦めて小さく震えていた。
人目のある場所で、こんなふうに触れ合うことを、我に帰ってしまったリュクレスが受け入れられるはずがないと知っていて、それでも、逃げようとすることを許さない。
捕まえて、柱の影に追い詰めて、他の男たちにその姿を見せまいと覆い隠し、「誰にも渡さない」と、その花びらのような唇を奪おうとして。
ダンスの開始の合図に邪魔をされる。
…苦笑するしかない。
余裕のある振りをすることすら、本気で忘れた。
驚いた顔で大きな目を更に大きくした少女には、先ほどの危うげな色はない。艶めいた気配は消え去り、そこには何が起きるのか分からずに不安そうにヴィルヘルムを見上げる、リュクレスの淡い瞳があるだけだ。
追い詰めるのはいつもヴィルヘルムなのに、それでも、リュクレスはこの狡い男への信頼を失わない。
奪いたいほど焦がれているのに、反面、この一途な信頼は男の獰猛な執着心を驚く程に満たしてくれる。
広間を指させば、楽の音が奏でられ、舞踊会が始まった。
まるで舞台のようだと、素直に感嘆を言葉にするリュクレスに、恭しく手を差し伸べる。
「一曲踊っていただけますか?私のお姫様」
「あ、う…。は、はい。…でも、いいんですか?」
躊躇いがちに乗せられた手に、嬉しそうな瞳。けれど、どこか申し訳なさそうに聞いてくるから、首を傾げる。
「いいですよ。…なぜ?」
「だって、ヴィルヘルム様は、あまりダンスは好きではないと、ジルヴェスター様が」
「おやおや、いつの間にそんな話をしていたんだか」
きょとりと、目を瞬かせた。大した時間を一緒に過ごしたわけでもないのに、弟とこの恋人はいつの間にか仲良しだ。
嫉妬を感じないで済むのは、ジルヴェスターの態度が、ソルに近いからだろう。
「確かに好きではないですが、君が頑張っていたのは聞いていますから」
初めての生合奏に感動して頬の染まったリュクレスの手をぎゅっと優しく握る。
「それに君とならば、ダンスも悪いものじゃない。たまにはいいでしょう」
全く縁のなかった王宮での生活を強いて、慣れない環境で王妃の侍女として働きながら、行儀作法やダンス、教養を学ぶ。それは、簡単なことではなかったはずだ。だが、彼女はへこたれることなく、不平不満を言うでなく、教えてもらえることを素直に感謝し、大変な経験も自分の糧として大切にする。
リュクレスは、踊るのが好きなのだ。基本的に身体を動かすことは嫌いではないのだろう。
彼女に言った言葉は嘘ではなく本音だ。
喜ぶ姿が見られるのならば、ダンスもそれほど悪いものじゃない。
リュクレスの細い腰に腕を回し、ゆっくりと彼女の動きに合わせて踊り出す。
ぎこちなさの残る動きに、気にせず前を向きなさいと囁けば、リュクレスは顔を上げる。
笑いかければ、彼女は肩の力を抜いてようやく楽しそうに踊り始めた。
支えているとはいえ、足の悪さを感じさせない軽快なステップ。ふわりと揺れるドレスと流れるような動きに、周囲から聞こえる感嘆の溜息。
ヴィルヘルム自身、月光に煌く湖面で踊る妖精のようだと、腕の中に捕らえながらもその眩さに目が眩みそうだった。
時折、掠める花の匂い。それはこの娘の匂いだ。
ゆっくりと余韻を残して曲が終わる。足を止めた途端、リュクレスは膝から崩れ落ちた。
(一曲踊るのが限界か)
ならば、これから先もリュクレスと踊ることが出来るのはヴィルヘルムだけ。
満足そうに、男はひとりほくそ笑む。
リュクレスの身体を抱き上げれば、彼女は狼狽して顔を赤くした。そのまま気恥ずかしげに顔を隠してしまうかと思いきや。
「ヴィルヘルム様…今幸せですか?」
思わぬタイミングで、そう尋ねられる。
澄んだ瞳が真っ直ぐにヴィルヘルムを見つめていた。
何か意図のある質問ではないのかもしれない。
時々、リュクレスは非常に本能的だから。
…君には、俺が幸せに見えたのだろうか。
(君が幸せそうに笑えば、心が満たされる。君もそうならいい)
ヴィルヘルムは、ふっと笑った。
「…幸せですよ、とても」
リュクレスが頭を胸に預けて甘えるように顔を摺り寄せる。
花の匂いが一段と甘くなった気がするのは、ヴィルヘルムの欲が生み出す幻覚か。
「ありがとう、ヴィルヘルム様」
その動作が愛おしくて、耳朶にそっと唇を落とす。意図せず滲む甘い声。
「愛してる」
誘惑するわけでもなく、ただこぼれ落ちる感情を言葉にして声に出す。
…ああ、なんて愛おしいのだろう。
彼女の一挙一動。
その心根も、表れる表情も、何もかもが愛おしい。
深まる想い。
ヴィルヘルムはただ、幸福に酔うばかりだ。
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ダンス中、少女に微笑みかける将軍の蕩けるような表情を見れば、それが本当に愛おしいのだと誤解のしようもなく。
その日、娘の可憐な姿とその心根を映す柔らかな表情に魅了された男は少なくはなかった。
だが、彼女を守るように、その傍らに立つ守護者の存在に、彼らは一様に諦める他なかったのだ。
手の届かぬ、水面の上の妖精のような娘。
将軍の最愛の女性を『湖水の君』と。
誰が言い始めたものか、この日を境に、将軍の大切な娘は、そう呼ばれるようになる。
ヴィルヘルムにとってリュクレスは花だけれど、他の人達にとって彼女の印象は、瞳からして、湖なのでしょう。




