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突然鳴り響いた杖の音に、リュクレスは驚いて目を開けた。
目をまん丸にしてヴィルヘルムを見上げると、苦笑した彼に広間のテラス席を見るように促される。
さっきまでの、まとわりつくような甘い雰囲気はあっさりと霧散して消えていた。
いつもほっとするような柔らかなさで彼が微笑む。
ヴィルヘルムの指差す方には広間を囲むように迫り出したテラスがあって、そこには楽器を携えた奏者達が座っていた。
「楽団…?」
「舞踏会本番です」
彼の声が耳に届く。
一段上の席から王が王妃の手を引いて広間の中央へと降りてきた。
潮が引くように自然に開けられた空間で、二人は向かい合い礼をする。
それを合図に、指揮者が腕を上げ、流れるように滑らかに指揮棒を振った。
ゆったりと、柔らかに調和した楽の音が帳のように降りてくる。
奏でられる美しい旋律が、会場を包み込んだ。
その音は、まるでさざ波のようだ。
寄せては返し、重なり合って複雑に絡みあっては解けて消える。
そして、次の波に攫われる。
初めて聞く合奏に飲み込まれ、魅了され、リュクレスは楽器の歌う旋律にゆらゆらと揺蕩うた。
その視線の先には幸せを願う二人が居る。
柔らかに微笑みを交わす二人を見れば、心は柔らかに解けて。
慈しみ合い、幸せそうに見つめ合う二人の姿に、じんと胸が震えた。
仲睦まじい国王夫妻がダンスを終えれば、その後はたくさんの男女が手を取り合い、音楽に乗せて踊り始める。
身体に直接響くような打楽器のリズム、絡みつくように弦楽器がその音色に深みをもたらして、管楽器が軽やかに曲をまとめ上げる。
叙情的であったり、華やかであったり、典雅に優柔に、曲調も波のように変化する。
それに呼応するように、広間で繰り広げられる舞踊も変わるのだ。
色鮮やかも着飾った女性たちがくるりと回る。
軽やかにドレスの裾が翻り、ふわりとスカートが膨らんでは流れるように揺れていた。
こうして見ていると、舞踏会そのものが一つの舞台みたいだ。
感動して呟くと、ヴィルヘルムが笑って、リュクレスの腕をやさしく引いた。
「ならば、我々もその一部となりましょう。一曲踊っていただけますか?私のお姫様」
からかうような言葉なのに、そうと捉えられないのは、彼の瞳が余りにも真摯だから。
「あ、う…。は、はい」
恥ずかしさに顔が赤くなるのは止められないけれど、その手が嬉しくて、ヴィルヘルムの差し出した掌の上に手を乗せた。
ゆっくりと、広間の中央へ誘われ、リュクレスに向かい合うヴィルヘルムが、手を胸に置き優雅な仕草で腰を折る。その姿に見蕩れてしまったリュクレスも、動悸を抑えて震える手でスカートを摘まみ、膝を折ってお辞儀を返す。
(…どうか、優雅に見えますように)
ヴィルヘルムのようにいかなくても、少しくらいは様になっていると信じたい。行儀見習いとして礼儀作法の先生をしてくれたのはカナンだった。彼女が合格点をくれているのだからと、自信のない自分を励ます。
リュクレスの不安などヴィルヘルムはきっと、お見通しだ。
流れるような美しい動きで彼はリュクレスの手を掬い上げた。もう片方の手が腰に回され、安心させるような確かな力強さで引き寄せられる。
「素晴らしい成果ですね」
囁くように褒められて、見上げた先にあった柔らかな表情に、ほっと胸を撫で下ろした。
見つめ合う時間はささやかなものだったかもしれない。
演奏が、始まった。
踊り始めると、慣れないリュクレスの視線はつい足元に落ちていく。
「兄さんはダンスがあまり得意ではないから、好きじゃないんですよ」
そんな風にジルヴェスターから聞いていたが、揶揄われたのかと思うほど、ヴィルヘルムのリードは完璧だ。必死についていこうと、一歩一歩ステップを頭の中で確認して…そんなことをしていたら。
「気にせず前を向きなさい。…せっかくなのだから、楽しみましょう?」
ヴィルヘルムが優しく言った。
「俯かれると、君の顔が見えない」
拗ねたように、言葉を重ねて。
顔を上げたリュクレスは、ああ、確かにと納得した。
こんなに綺麗な音楽で、ヴィルヘルムと初めてするダンスが、楽しい思い出にできないなんて…勿体無い。
そして、こんなに優しく楽しそうな彼の表情を見逃すなんて、損だ。
(うん、楽しもう)
そう思えば、変な力が抜けてぎこちなかった動きも、教わったものが実を結んで、次第に自然なものになっていく。ゆったりとした曲調の上に、なによりも、やっぱりヴィルヘルムのリードがとても的確で、強引さはないのに、足の負担が少なくなるよう力強く支えてくれるから、羽が生えたみたいにふわりと踊ることができる。この調子ならば、彼の足を踏んでしまうこともなさそうだ。
一緒に踊るヴィルヘルムの表情はとても穏やかで、でも嬉しそうだったから、リュクレスはまた楽しくなった。
くるくると回り、リュクレスはヴィルヘルムの腕の中で、軽やかにステップを踏む。
夢のような楽しい時間は、それほど長くはない。
たった一曲だ。
それでも、旋律が終焉を迎え、名残惜しい気持ちで足を止めると、震える膝が折れる。立ってはいられなかった身体を、わかっていたかのように逞しい腕に支えられて、リュクレスは顔を上げた。
ありがとうございますと言いかけた感謝は、軽々と抱き上げられて小さな悲鳴に変わった。
「立っていられないのでしょう?仕方がないのだから、諦めて?」
「ちょっと休めば、大丈夫ですっ」
「駄目です。こんなに可愛らしい君を、これ以上他の男の目に晒したくない。このまま、ここから出ていけば、君が私のものだと公言するようなものだからね。牽制には丁度いい」
「ヴィルヘルム様…」
「独占欲の強い男に捕まったと諦めて下さい」
困ったように恋人の名を呼べば、彼はすました顔でそう言って甘やかに微笑んだ。
周囲の視線に顔が熱くなるのが、分かる。
でも、ヴィルヘルムが見せた表情があまりにも飾り気なく、嬉しそうだったから。
「ヴィルヘルム様…今、幸せですか?」
考える前に、言葉は零れた。
灰色の目が見開かれ、しげしげとリュクレスを見つめる。
それから、彼は、ふっと笑った。
「…幸せですよ、とても」
ヴィルヘルムの余りにも自然な表情に、広間にいた者たちが動きを止める。
彼を知る者は特に、目を疑った。
お互いしか見つめていないふたりは気づかない。
「ありがとう…ヴィルヘルム様」
リュクレスは、そっと男の胸に顔を寄せた。
思い違いでなく、ヴィルヘルムが幸せだと感じてくれるなら、それが何より嬉しい。
だから、「ありがとう」と、その感謝は。
ヴィルヘルムの愛してやまない春の微笑みと共に、彼へと届けられた。




