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湧き上がる安堵と歓喜に、リュクレスの顔には我知らず笑みが浮かんだ。
視線が合った、そう思ったら。
遠目にもわかるほど、彼は驚いた顔をして。
それから、ゆるゆると苦笑する。
その柔らかな変化に、胸の奥がきゅうと締め付けられる。
どうしてこの人は、こんなにもささやかな一挙一動でリュクレスの心を掻き乱すのだろう。
胸の奥が苦しくなって、でも、温かくて、…いつの間にか幸福感でいっぱいになる。
ヴィルヘルムが、ゆっくりと歩きだした。
流れるように人波を避けて進む彼を、リュクレスはただ見つめることしか出来ない。
段々と二人の距離が縮まっていく。
期待感?
ふわふわとした幸せな嬉しさに、リュクレスの顔が自然と緩む。
目の前にやって来たヴィルヘルムはいつか見た正装の軍服だった。
さらりとした髪とお揃いの色をした軍装はその美貌と相まって、燕尾服の多い男性の中、際立って目立つ。煌びやかなシャンデリアの光の下で、泰然とした想い人に、リュクレスは瞳をきらきらと輝かせた。
「ヴィルヘルム様とっても素敵です。格好良い」
彼は目元を和らげて、ふと微笑む。
リュクレスの手を取ると、優雅な所作で手の甲に優しく口付けを落とした。
「ありがとう。私も目を疑いました。全く、本当に君は私を驚かせる天才だな」
あ、と思う。
そう彼は驚いていた。勝手なことをしてしまったことにリュクレスは頭を下げた。
「あ、あの、ごめんなさい」
「謝らなくていいのよ。将軍、ここに連れ出したのは私よ」
隣から口を差し挟んだのはフェリージアだった。
態と居丈高な態度を示す彼女に、ヴィルヘルムは苦笑した。
「わかっていますよ。王も王妃も共犯のようですしね。道理でにやにやしていたわけだ」
ため息混じりにそう零した彼はリュクレスに視線を戻すと、形の良い口元に緩やかな弧を描いた。
「とてもよく似合っています。余りにも魅力的だから、…そのまま寝室に攫って行きたいくらいだ」
低く柔らかな声が、確かな熱を伴って甘く響く。大勢の人がいる大広間でヴィルヘルムはリュクレスしか見えていないかのように、うっとりと囁いた。
ぽんと、目に見えてリュクレスは真っ赤になる。心臓が苦しいくらいに高鳴って、目眩がして、ヴィルヘルムに感覚の全てを奪われる。
あれほど気になっていた周囲の視線さえ見えなくなり、ただ、灰色の熱い視線だけがリュクレスに注がれて…飲み込まれそうになる。
ふと、彼が笑った。
その柔らかさに、五感が戻る。
広間のざわめき、そして、近くから、呆れたようなため息。
「将軍、こんなところで口説かないで」
「すみません。あまりの可愛らしさに、つい。ようやく、愛おしい恋人に会えて、どうやら浮かれているらしい」
耳まで真っ赤にして顔を伏せたリュクレスとは対照的に、臆面もなく謝罪の言葉を口にした男は、反省の色など欠片もなく笑うものだから、フェリージアが呆れて返す。
「ようやくって、たかが数日でしょう?」
「数日であっても、逢いたい人に逢えない日々は辛い。とても忍耐がいるものでしたから。…ここからの彼女のエスコートは、勿論、私に任せていただけますね?」
将軍がリュクレスの手を取ったまま、真面目な顔でフェリージアに許可を求める。
フェリージアはじっと将軍を見返した。
口調は穏やかながらも、彼の発言は有無を言わせぬ強引なものだ。
いけ図々しく厚顔なところはあるものの、恋人を想う気持ちはどうやら真剣なものらしい。
素直に逢うことを我慢していた反動と、着飾る恋人の魅力に、どこか獰猛な欲求を瞳に潜ませた今の彼にはリュクレスを手放す気などまるでない。周囲から彼女に向けられる熱のこもった眼差しに、男の独占欲は刺激され、その心中は穏やかではないはずだ。リュクレスが気が付いていないからこそ、尚更に。
(ほら、もう、大切なその子から目は離せないでしょう?)
フェリージアはしてやったりの顔で笑った。
「ほかの誰にもその役は譲る気ないのでしょう?」
「当然です。私の花をこんなところへ、勝手に連れ出されたのですから」
将軍は表面上は穏やかにそう言うと、ゆっくりとリュクレスの細い腕を引いた。
王女から引き離され、戸惑うリュクレスが振り向けば、見送る彼女は楽しそうに笑っていた。
声無く、その唇が楽しみなさいと言葉を紡ぐから、リュクレスも笑って頷く。そして、ぺこりと頭を下げると、今度こそ躊躇うことなくヴィルヘルムに従った。
彼には踵のある靴に歩くのもやっとなリュクレスのことなど伝えなくても分かっているのだろう。
人にぶつからない様に注意しながら、さり気無く支えて歩いてくれる。
その手は優しい。けれど、時折、見上げる彼の横顔に不機嫌な感情が見え隠れするのだ。
やっぱり、勝手したことで、怒らせてしまったのだろうか。
膨らみ始めた不安はリュクレスの中で、雪だるまみたいにゴロゴロと転がって大きくなっていく。ちゃんと謝ろうと、胸に小さく覚悟を秘めて彼の背を追う。
彼が足を止めたのは、大広間の端の小さなバルコニーだった。
「ヴィルヘルム様、あの、ごめんなさいっ。私…」
振り返ったヴィルヘルムに勢い込んで告げた謝罪の言葉は、そっと、唇に押し当てられた彼の人差し指で止められた。怒ってはいないと首を振る、その表情はとても穏やかだが、どこか苦い。
そして密やかな囁きは、またしてもリュクレスの感覚を奪い取っていった。
たくさんの人達がいるのに、ヴィルヘルムといると、周りを忘れてしまう。
彼しか、見えなくなる。
「謝らなくてもいい。…言っておきますが、私が不快だと感じているのは君へ、ではなく、君への視線ですよ。わかっていますか?」
…侍女が、似合いもしないドレス姿で現れて、きっといい笑いものに違いない。
ズキリと胸が痛んだ。
「私への視線…やっぱり、場違いですよね」
そうと思うと、傍にいてくれるヴィルヘルムに申し訳なくなった。しょぼんと肩を落とすリュクレスに、彼は困ったように笑う。
「違います。場違いなどではないし、そのドレスも本当によく似合っている。とても可憐で、まるで妖精が紛れ込んだようだ。余りに魅力的だから、君に惹かれて男たちが物欲しそうに君を見る。それが許せないだけです。まあ、みっともない男の嫉妬だ。君は気にせず笑っていなさい」
まるで嫉妬などと縁のなさそうな男が告げるそんな言葉に、リュクレスは驚いてヴィルヘルムをまじまじと見つめた。
彼はとても穏やかに笑うのに、その瞳は火傷しそうなほどに熱い。
とくりと胸が踊るのは、緊張か、それとも。
じわりとリュクレスの中にも熱が生まれて、頬は赤く染まり、火照り出す。
灰色の瞳に溺れて、薄らと唇を開いた。
……陸に打ち上げられた魚みたいだ。
息をすることも、苦しい。
ふたりの距離が近づく。腕の中に囚われて、身長差に見上げる姿勢に、ふと、その距離に気がついたリュクレスは、顔と言わず全身に朱を散らした。
(ここには大勢の人間の目があるのに…っ)
触れ合うことには慣れてきたものの、それが人前となれば別の話だ。
恥ずかしいし、何よりも人前では自粛するのが当然であるという禁忌の思いが強い。
慌てて身を引き後ろに下がったら、逆に軽々と引き寄せられて、距離は零になる。
仰け反ったせいで、真っ直ぐにヴィルヘルムの視線とぶつかった。
欲を隠そうともしない男の眼でリュクレスを映し込む灰色の瞳を、見ていられなくて、思わずぎゅっと目を閉じる。
「…それは誘惑でしかないと、前にも言っただろう?」
真っ暗な視界で、ヴィルヘルムが吐息だけで笑うのが聞こえた。
息が頬に掛かる感触に身体を震わせると、耳を軽く喰まれる。
…慣れたなんて、大嘘だ。
何度口付けをしようとも、ヴィルヘルムに触れられることに慣れることなんて、きっと、一生来ないに違いない。
だって、大好きだと思うだけで、こんなにも胸が痛くなる。
愛する人にこんなふうに触れられて、愛していると行動で示されることに、どうして慣れることが出来るだろう?
リュクレスは、どくどくと鳴り止まない鼓動の音に翻弄されて泣きそうになった。
涙の滲んだ目尻を、優しい指がそっと撫でる。
小さく息を吸うのが聞こえて、ヴィルヘルムが何か言おうとした、その時。
カンカンカンッ
高らかに硬い床を打ち鳴らす杖の音が広間に響き渡った。




