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日が傾き始めた頃。
強制的にお休みを言い渡されていたリュクレスは、約束通りルクレツィアの部屋を訪れた。
ノックをして名乗った途端、勢い良く扉が開いて、目を丸くする。
開き迎え入れたのは、やる気満々に意気込んだエステルだった。
「待ってたわ!こっち!」
固まって止まったリュクレスの片腕をがしっと掴むと、ぐいぐいと部屋の中を引きずる勢いで、奥の更衣の間へと引っ張って行く。
挨拶もままならず、おろおろとルクレツィアを見れば、のほほんと微笑んだ彼女に手を振って見送られたから、どうやらこのエステルの行動は予定通りのもののようだ。
唖然としてされるがままでいたのリュクレスは、鼻歌交じりに腕を引くエステルの背中と、部屋で待機していたクランティアを交互に見つめた。普段表情をあまり見せないクランティアさえ、櫛を片手にどこか楽しそうだ。
鏡台の上に準備された装飾品や化粧品、そして吊るされている青いドレス。
それが、誰のために準備されたものなのかなんて、さすがに訊く必要はない。
諦めの境地に、リュクレスは溢れそうになる憂鬱な溜め息を飲み込んだ。
「うわーさらさら。羨ましい髪ね。結ってしまうのが勿体無いくらい」
「素肌が綺麗だから、薄化粧でいきましょう。魅力的な目をしているのだがら、生かさないと」
嬉々としてエステルやクランティアが、あれがいい、こうしようと言いながら、リュクレスを着飾っていく。
着飾られる本人はただ、その時間を無心でやり過ごすしかなかった。
鏡を前に目を伏せて、他の事を考える。
王女の準備はいいのかと聞けばとっくに終わったってどういうことなんだろう?
「明日は夜が長いから、ゆっくり休んで私の部屋へいらしてね?」
そう言われたから、夕方にやって来たのに、隣の部屋で出来上がりを待つルクレツィアは白を基調とした華やかで品の良いドレスを身に付けて、既に着飾り終わっていた。
つまりは、エステルたちにリュクレスの手伝いをさせるために自分は早めに準備を終えたということだ。至れり尽くせりな感じが、どうにも落ち着かない。
コルセットを付けられて、準備されたドレスに袖を通す。
化粧をされて、綺麗に結われた髪の耳の後ろに飾られたのは大きく可憐な白い生花だ。
顔も髪の毛も、人に触られることに慣れなくて、くすぐられているようでこそばゆい。
ようやく、くすぐりの刑から開放されてほっとしていたら、いつの間にか完成したようだった。
きらきらとした眼差しで二人にため息を付かれ、リュクレスは居た堪れない思いで目を泳がせた。
多少はドレスを着るのに慣れたものの、着飾ること自体にはやっぱり慣れない。
だって、…どう考えても馬子にも衣装だ。
ルクレツィアやフェリージア、ルーウェリンナのような美しく見栄えのする女性ならばともかく。
リュクレスは貧相で子供のような自分を自覚しているから。
…勿体無いと思ってしまうのだ。衣装も、それを着せてくれる皆の労力も。
素直に喜べない自分が情けなくて、目の前の鏡からそーっと目をそらして、現実を直視することを避ける。
彷徨わせた視線はエステルの満面の笑みに止まった。
満足そうなその顔にはやりきった感のある清々しさがあって、その目には優しい光が瞬いている。
誰かの為に自分の出来ることを精一杯する。
その人のための力になれることが嬉しい。
そんな思いが溢れているから。
リュクレスは強ばっていた表情が和らいだ気がした。肩の力が抜けて、湧き上がってきたのは純粋な感謝の気持ちだった。
エステルたちの真心のこもった好意に、自然と笑みが浮かぶ。
大切にしてくれる、その思いがリュクレスの心をほっこりと温める。
「エステルさん、クランティアさん、ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をして精一杯、感謝を伝えれば、二人は微笑んで、それを受け取った。
「うん、リュクレスはやっぱり笑っていた方が可愛いわ。大丈夫、とっても素敵よ。ね、ルクレツィア様にも見てもらいましょう?」
踵の高い靴に慣れていないリュクレスの危なっかしい足取りに、エステルとクランティアが支えるように手を引き、ルクレツィアのもとまで向かう。
「ルクレツィア様、出来ました~!どうですかっ?!」
リュクレスの後ろから両肩に手をおいて、見せびらかすようにエステルは、改心の笑みをルクレツィアに向けた。
ソファに座って待っていた王妃は、輝くような微笑みで「まあ、可愛い!」と声を上げると、穴が開くんじゃないかというくらいじっとリュクレスを見つめてから、ほうとため息をついた。
「抱きしめたいけれど、せっかくの衣装と髪型が崩れるから…残念ね」
そんな風に渋々と、諦めている。
…お世辞だとわかっていても、そう言ってもらえるのはありがたい。
気恥ずかしいけれど、みんなの優しい言葉にリュクレスも嬉しくなった。
だからこそ、王家主催の夜会に参加するなんて、場違い過ぎてみっともないんじゃないかとか、ルクレツィアやヴィルヘルムに迷惑になってしまったらどうしようと思うと不安になって、やっぱり逃げ出してしまいたくなる。
「あの、でも、やっぱり…」
リュクレスが及び腰になって伝えようとした辞退の言葉は、最後まで言わせてもらえなかった。
「この期に及んで逃げないの。陛下も姉様も了承しているのだから誰にも文句なんて言わせないわ。…うん、やっぱりよく似合う」
ぴしゃりと歯切れの良く却下したのは、部屋にリュクレスを迎えに来たフェリージアだった。
本日の主賓であるはずの王女は、自分のことはそっちのけで、リュクレスのドレス姿をじっくり眺め、とてもご満悦な様子で微笑んだ。
…問題は、そこにヴィルヘルムの名前が無いことなのだけれど。
そんなリュクレスの気持ちなど当然理解しているからこそ、にこやかにフェリージアは言い切った。
「たまには将軍を驚かせて振り回したところで、バチは当たらないわ」
行きましょう?と鮮やかに微笑まれ、エステルとクランティアに背中を押される。
リュクレスは結局逃げ出せずに、売りに出された仔牛のような心持ちで会場に向かうことになった。
一緒に行く女性は、本日の主役だ。
会場に入ると、経験したことのないくらい、たくさんの視線を四方八方から向けられることになった。無遠慮なほどの強さでざくざくと突き刺さるのが痛くて、リュクレスは萎縮してしまう。
「やっぱり、そのドレスは正解ね。ほら、顔を上げて。皆可愛らしい貴女に釘づけよ?」
誇らしげにフェリージアが笑った。
(釘付けなのは、フェリージア様に、です)
すぐ横で向けられた素敵な笑顔に見蕩れて、リュクレスは顔が赤くなった。
リュクレスだけでなく、多くの参加者がフェリージアの美しさに魅入られている。紅味の強いその薄紅の髪と、明るい新緑の瞳が、そのきりりとした美しさを引き立たせるのだ。
けざやかな王女が、微笑みを浮かべれば、何処からともなく陶然とした吐息が聞こえてくる。惹かれるのは彼女の輝きにであって、自分への視線は、どこか好奇に満ちたものだから、リュクレスはフェリージアの言うように、前向きに視線を受け止めることはできなかった。
何故、侍女がここに?
小さな囁きがリュクレスの耳に届き、場違いだとわかっている分、非常に居心地が悪い。
「今は侍女としてではなく、将軍の婚約者としてこの場に招待されているの。顔をあげなさい。背筋を伸ばして。大丈夫、貴女はどこも見劣りなどしていない」
後ろから二の腕が掴まれ、はっとして顔を上げた。
フェリージアとは反対側の隣に立っていたのは、アスタリアだった。
いつもきっちりと上げている金色の髪を緩やかに編み込み、後ろ髪を綺麗に流している。
髪を下ろしたままなどみっともないと言われる社交場ではとても珍しい髪型ながら、金の髪が豊かに緩く背中を流れ、光の粒が溢れるかのように煌く様は息を呑むほど美しい。
今までになかった風をそこに吹き入れるかのような行動で、集まる視線を堂々と受け止めるその姿は、リュクレスの目にはとても凛々しく映った。
ゆっくりと顔を正面に戻す。子供の頃に染み付いた貴族の視線にどこか怯える心を、隣にいるアスタリアが、フェリージアが支えてくれるから。
今までに教わったことを思い出して、背筋を伸ばし強ばった肩の力を抜く。
息を吸って、吐いて。
すっと、前を向いた視線の、その先に。
誰よりも傍に居たいと望む、大切な人の姿を、見つけた。




