17
何時のもことながら、王の来訪は唐突だ。
リュクレスは部屋を出て、手すり越しに吹き抜けを覗き込む。
階段を上がる男性の後ろ姿が見えた。
螺旋状の階段を登る足取りはゆっくりして見えるのに、あっという間に上がりきって、2階の廊下をリュクレスの方に向かってくる。
目深く被ったフードで顔は見えないが、口元には確かに笑みが浮かんでいた。
大きな歩幅で距離を詰めると、少女の手を掴み彼女の居室へ向かう。
室内に入るやいなや後ろ手に扉を閉め、手を引いてソファに座らせると、彼自身も隣にどかりと腰を下ろした。
衝撃に、少女の身体が浮き上がる。
それを見て、彼は「すまん」と一言笑いながら謝罪した。
相変わらず豪快な人だなぁと、そんな感想を抱きながら、少女も笑う。
フードを取って現れるのは豪奢な金色の髪。
王の行動からして、今日は、覗かれていないのだろう。
されている場合、王はヴィルヘルムと同様に、真っすぐに寝台に向かう様にしているから。
聞かれている心配がない分、とても呑気に少女は王の近況を聞いた。
王の近況報告は所謂、のろけだ。
「王様、王妃様はお元気ですか?」
「おお、元気だぞ。相変わらず仲良しだ。この間は、子供が出来るなら男か女どちらがいいかという話をしていてだな…ああ、そういえば。どっちでも可愛いだろうってことで結論は出なかったな。男子を望む煩い奴らもいるが、流石にそれは神様の気紛れだからな」
大らかに笑う王はとても暖かく穏やかな瞳をしていた。
リュクレスは会ったことのない、けれど、とても美しいと聞いている王妃。王の様子に、彼女が笑っていられることが容易に想像されて嬉しくなる。
仲良しと言うのは口先だけではないだろう、王の惚気話はいつも楽しそうだ。
「お二人の御子なら、とても可愛いでしょうね。いいなぁ、赤ちゃん。見てみたいなぁ」
「俺たちよりも気が早いな。ああいいとも、生まれたら招待しよう。だがまず、この茶番終わらせてルクレツィアに会うのが先だな。彼女こそお前に逢いたがっているぞ。今日もずるいずるいと駄々を捏ねられて出てきたからな」
駄々…あまりに意外な言葉にリュクレスはぽかんと口を開けた。
顔をお互いに見たこともない二人であるが、王やヴィルヘルムに託して文通という方法でやり取りをしている。リュクレスはほとんど文字が書けないから、実際の所は手紙というよりも伝令の様に一言返すのがやっとだけれど、呆れることなく、王妃は毎回丁寧な手紙をくれる。内容も優しく、品のある清楚な女性というイメージが強いからか、その彼女が駄々を捏ねる様子が、リュクレスには想像できない。
王は、その顔に噴き出した。
これ程まで王夫妻が、リュクレスに親しみを持つことになったのは、リュクレスが夫婦の架け橋になったからだ。
初めて王に会った時、リュクレスは緊張のし過ぎで、頭が真っ白になった。
混乱しながら、とっさに王に向かって放った言葉はあいさつではなく。
「王妃と仲良くしてくださいっ」
と言う、何とも場違いなものだった。
ヴィルヘルムの言葉がずっとリュクレスの中で引っかかっていて、思わず出た言葉。
せっかく結婚したのに王様と王妃様が大切に想い合えていないのかと思うと悲しくて。
まるで、子供が「お父さん、お母さんと仲良くして」と願う様なそれに、王は呆気にとられた。
王族同士の結婚はほとんどと言っていいほど政略結婚であり、リュクレスの様に単純に幸せな夫婦生活などアルムクヴァイドもルクレツィアも望むことなく、それが当たり間だと思っていたからだ。
国同士の親交、利益。後継者を得るための契約。王や王妃に求められる結婚とはそういうものだ。
子供の様な娘は、それを理解しながら。それでも。
王も王妃もその役割の前に、ただの人でしかないから、そんなのはさみしいと思った。
「王妃は想い合うことの出来る相手にはなりませんか?」
リュクレスは訊ねる。
考えたことが無かったと王が素直に答えれば、
「なら、これからは政略結婚だとか、国の利益だとか難しいことじゃなく、ただ王妃様と夫婦として幸せになろうとすることは出来ませんか。」
だって、王妃様だって、一人の女の子ですよ?
真摯な思いを汲み取って、王は、初めてルクレツィアをまともに見たのかもしれない。
ルクレツィアはとても賢く、凛と背筋を伸ばした芯のある女性だ。
慈愛に満ちた微笑みに穏やかな気質。王族としての資質を備えた高貴な佇まい。
オルフェルノ国に嫁いでからも、彼女は完璧な王妃だった。
王を前にしても変わらない、そんな彼女を好ましいと思っていた。
…彼女の弱さ、年相応の娘らしい戸惑い、怯え、そういうものに。
情けないことだが、夫であるアルムクヴァイドは気がついていなかった。
第一王女だとか、王妃だとかそんなものを剥がしてしまえば。
そこに居たのはルクレツィアという名の泣き虫な娘。
誠実な性格、美しい容姿に惹かれ、彼女を大切にしているつもりだったが、何も見えていなかった。
「遠い異国からきて、理由があるってわかってはいても、旦那様と話したいときに話せない。笑いかけることもできないって、寂しくないですか?王妃様ちゃんと笑ってますか?無理してないかな?王妃様が王様のために頑張っているなら。王様は王妃様をいっぱい大切にしてあげてくださいね」
そんなふうに言われて、初めてルクレツィアの心情を思った。
愛人にのめり込んでいると装うため、表立ってはお互いに距離を置こうと話しあった。
彼女は嫌がるそぶりも見せず、穏やかに頷き了承をした。まさか彼女が寂しい思いをしているなど、リュクレスと会話しなければ思いもしなかっただろう。
きっと、あんなに泣き虫で、守りたいと愛おしく思える娘だと知らずにいた。
愛人役の少女に、王妃との結婚生活を真剣に心配され、これほどに二人の幸せを願われて、初めて自分と相手の心に目を向ける。
間違えたり、失敗したり。それでも向かい合って、お互いを思い大切にし合うこと。
地位も、名誉も、財産も、何もなくたって思い合う心、それだけあれば幸せは手に入れることができるのだと、朗らかに笑う少女。
「以前、花屋のおじさんが言っていたんです。幸せなんて案外安上がりに手に入るもので、だけど、無くしてしまうと、なかなか見つけることができなくなってしまう、とても小さくて細やかなものなんだって」
ずいぶん前に奥さんを亡くしてしまったその人は、とても優しい笑顔をしていた。
「失った悲しみに負けそうな時は、妻と作った思い出をそっと胸の奥から取り出すんだ。そうすれば、そこに幸せはあったのだと、彼女と出会えた幸せを見つけることが出来るから」
きっと、喧嘩したことも、傷つけあったことだってあるはずだ。それでも、目を背けずに共に生きてきたから、彼は今もそうやって向き合って生きている。
「お前たちは優しいな。…俺もそうやって彼女を大切に出来るといいんだが」
夫として不甲斐ない思いに王が苦笑をもらせば、
「大丈夫ですっ!ルクレツィア様を幸せに出来るのは王様だけだもの」
何故か自信満々に、そう言い切られ、澄み切った笑顔を向けられる。
純粋な信頼に答えようと行動を起こした結果、アルムクヴァイドは今まさに王妃と蜜月状態にある。
それは彼女が導きによって、夫婦で見つけた幸せだ。
幸せを与えてくれるわけでも、見つけてくれるわけでもない。
自分たちで見つけけた幸せは何にも代えられない、かけがえのないもの。
見つけたときの愛しさと、その大切さは与えられたのでは知りえないもの。
リュクレスは王夫妻にとって『幸せへの導き手』のような存在なのだ。
だからこそ、王も王妃もリュクレスを大切な友人だと思う。
それを彼女に伝えれば、恐れ多いと萎縮してしまうのだが。
リュクレスは楽しそうな王につられて、表情を緩めた。
ほんのりと頬を染め、ほんわりと微笑む。
「…嬉しいです。許していただけるなら、私もお会いしたいです」
アルムクヴァイドは満足そうに頷く。
「俺が許すんだから、誰にも咎めんさ。会いたいだけ会わせてやる」
何せ王様だからな
そんな風にふんぞり返って見せるのを、リュクレスは声を上げて笑った。
王が、気を使わない様にと気安い王を演じてくれていることに、リュクレスは気が付いている。
優しい王様だと思う。
人の気持ちのわかる人がこの国の為政者なのだ。
それは凄く明るい未来だと思える。
何も持っていないちっぽけな自分が、この人を守るお手伝いが出来るのはすごくうれしいことなんじゃないだろうか。
「本当に早く全部終わるといいですね。愛人の噂が嘘だって知っていたって、王妃様にとっては嬉しい話ではないでしょうし、きっと嫌なこともいっぱい、我慢してるんだと思うから」
申し訳ない気持ちで、王妃を想う。
辛いことを言われていないだろうか、悲しい思いをさせられていないだろうか。
ぽんと、頭に大きな手が置かれる。
「王妃のことは俺が慰めるから大丈夫だ。それより、お前のほうこそ、無理をするなよ。今後何があろうとも俺たちはお前の味方だ。本当なら、この策自体を中止したいが…お前も、ヴィルヘルムも聞かないだろうから、…ここは俺が折れてやる」
「はい」
真っすぐな眼差しに怯えの色が、躊躇う色が少しでもあったなら、アルムクヴァイドはヴィルヘルムに即座に中止を命じただろう。
彼女は、気丈にも、屈託のない笑顔を浮かべた。
やり遂げるだけの気概を持っている、といえば聞こえはいいが、つまりは頑固なのだ。
リュクレスはヴィルヘルムのために協力している。
だから、王であるアルムクヴァイドが言っても、囮は降りないだろう。
ヴィルヘルムがそれを望まない限り。
「その言葉信じるからな。ルクレツィアも自分の事より、お前のことを気にして不安になっているんだ。お前に何かあったら夫婦の危機、だからな。心しておいてくれよ、頼むから」
「はい!」
とても良い返事で笑顔を見せる少女に同じように笑みを返しながらも、アルムクヴァイドは危惧をする。
ヴィルヘルムは、彼女の身を守ろうとするだろうか。
彼女を犠牲にすることに親友が躊躇うことを、アルムクヴァイドは祈るばかりだった。




