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入ってくるなり、どこか乱暴な動作でソファに身を沈めたヴィルヘルムを見て、アルムクヴァイドは苦笑を浮かべた。
私室に迎えたのは正解だったようだ。
執務室では、将軍としての仮面をつけて、決して見せない姿だったに違いない。
寛いだ姿勢のまま、持っていたカップをひょいと軽く持ち上げる。
「茶は?」
「いらん」
そっけない返事が予想通り過ぎて、アルムクヴァイドはつい、緩く笑うとカップをソーサーに戻した。
親友は昔から、苛立ちも怒りも基本的には表に出さない。全く出さないわけではないのだが、感情にどこか希薄なところがあって、決めたことを貫き通す信念の強さとは裏腹に、常に淡白で冷静な男だった。感情を調節する術を子供の頃から身につけていたからかもしれない。
その男が、燃え立つような怒りに身を焼いている。
リュクレスと出会ってからのヴィルヘルムには、アルムクヴァイドも新鮮な驚きを感じることが増えた。生身の男として共感できる点を感じられるのも親友としては嬉しい。暢気にそう思う点と、愛する者を危険にあわせながら、相手を完膚なきまでに叩き潰すことのできない苛立ちも理解するから。
申し訳なさと、リュクレスに対する罪悪感にアルムクヴァイドも少々複雑な思いを抱く。
だが、この国の王として、将軍が選択した行動と得られた結果には満足すべきなのだろう。
労いの言葉がどうにも不適切な気がして、アルムクヴァイドは不要だとは思いながらも報告を求めた。
「で、フメラシュ側はこちらの意向を承知したのか?」
灰色の瞳に冷たく、氷が張った。厚い氷の奥に燻る青い焔が怒りの深さを物語る。
「する以外選択肢はないからな。流石にクラウス公子は自国の実情を把握している。こちらを敵に回す気はないだろう」
淀みなく、すらすらと、その口調は平坦なほどなのに、全く取り繕わないヴィルヘルムの言葉の端々には、どこか火花が散って見える。
公子には簡単に心変わりすると思われ、公女には何よりも大切にしている娘が蔑ろにされたのだ。ヴィルヘルムが不愉快を通り越して、腹に据え兼ねていてもおかしくはない。
だが、それだけではなく。
危険な目に合わせることになっても、決して手放さないと決めておきながら、リュクレスを最優先出来ない己こそが、男にとって業腹なのだ。
守りきったのだからと、そう簡単に割り切れるものでもないのだろう。
わかっているからアルムクヴァイドも、敢えて何も言わない。
ただ、アリューシャ公女の愚かな行動が未遂に終わったことだけはどちらの国にとってもよかったのだと思う。
リュクレスという存在がいなければ、ヴィルヘルムは他の国との関係を牽制に使い、公女を上手くあしらって、適当なところで帰国を促しただろう。侍女も騎士たちも、ただ、失恋の痛みに泣く公女を慰めるだけだったに違いない。
だが。
リュクレスの存在があったがために、公女たちは間違いを犯し続けた。
あの娘さえいなければ…状況は変わるに違いないと。
公女は、リュクレスが物語の本筋を捻じ曲げていると思い込み、その考えに疑問すら抱かなかった。温室で育てられた花は、道端に咲く野の花の逞しさも優しさも知らず、その花を愛する男の気持ちなどついぞ、理解しようとはしなかったのだ。
彼女の愚行は、フメラシュにとって大きな誤算に見える。
事実クラウス公子にとっては、予想もしていない行動であったはずだ。
だが、果たしてフメラシュ公にとって、本当に全てが予想外であったのか。
慈愛に満ちた可憐で優しい深窓の姫。
非の打ち所のない評判に裏打ちされた、好感度の高さ。
それが作為的なものであることは、すでに明らかだ。
そもそも何故、彼女を外に出したのだろう?
秘せるからこその完成度。
彼女を覆っていたその被膜というべき脆い殻は王宮の最奥にいるからこそ完璧であったというのに。
公女自身が望んだから?
だが、こうして外で薄皮が剥がれ、中身が露見しては意味がない。
…彼女の望みは叶わない。
ならば。
公女が本性を曝け出すこの状況を、公爵は何処かで望んでいたのではないかと思うのは、穿ち過ぎか。
だが、娘には甘く、真実の姿が見えていなかったとは、どうにも思えないのだ。
「リュクレスがいなければ、ここまで見事に本性を晒すことはなかったんだろうが…それにしても、こんなに危険な姫をどうして、ここに寄越したんだろうな?」
辟易したように零すアルムクヴァイドは、蒼穹の瞳を不快げに細めた。
「公女が俺に執着したから、切っ掛けは単純にそれだろう。そして、この国が…いや、俺が、あの老獪な公爵にとっては都合が良い相手だった」
奴隷廃止、人身売買の市場の閉鎖を進めてきたオルフェルノの廉潔さ、そして、その交渉を成功させたヴィルヘルムの怜悧さを、フメラシュ公に利用された。
それは疑念ではなく、確信に近い。
公女の本質を見抜き、その上でヴィルヘルムであれば上手く対応すると判断されたのだろう。かの公爵に高く評価されているのは有難いが、非常に迷惑な話だ。
「全てが思惑通りではないにしろ、あちらの都合に巻き込まれたのは不愉快だ。フメラシュ公には一言釘を刺しておく。…まさか、唯の縁談がここまで、面倒な厄介事になるとは思っていなかった。悪かったな。随分、お前に我慢をさせた。リュクレスにも。彼女は大丈夫か?」
大丈夫でなければ、きっとヴィルヘルムの怒りはこの程度で済んではいないはずだが、それでも気になって、アルムクヴァイドは尋ねた。
妻から話しを聞こうにも、まだご立腹中の彼女は顔も見せてくれない。だから、聞ける相手はヴィルヘルムしかいないのだ。
「怖がらせたよ、とても」
淡々と返された言葉に、アルムクヴァイドの中でじわりと、苦いものがせり上がる。
ヴィルヘルムは眼鏡を少し押し上げ、目を閉じた。
「なのに、大丈夫だと、俺の心配をして謝るんだ」
「…そうか」
優しい娘はいつでも、人の心配ばかりだ。
「…まだ、警戒を解くわけにはいかないが、これ以上、公女がリュクレスに手を出すことはない。クラウス公子もいい加減、妹に好き勝手させないだろう。準備出来次第、帰国すると言っていたから、今日明日には出立するはずだ。船の方の手配は済ませた。いつでも送り返せる」
「こちらの準備も万端か。ようやく安心させてやれるな」
アルムクヴァイドの言葉に、ほっとしたあどけない顔が浮かんだ。その華奢な身体の柔らかな感触まで自然と思い出されてヴィルヘルムはたまらなくなる。
「本当に。こんなにも怖がらせてばかりいるのに、いつだって、あの子は俺の傍にいることを望んでくれる。…もう、何があっても、手放せないんだろうな」
守ると約束したヴィルヘルム自身が、彼女を危険な目に合わせる原因となる。
わかっていて、手放せない。
だからと言って、花のようなあの娘を閉じ込めて、枯らしてしまうのも嫌なのだ。
…矛盾だらけだ。
それでも、リュクレスが躊躇いなく、真っ直ぐにヴィルヘルムに手を伸ばすから。
苦く、甘い想いに胸を焦がしながら、その手を取る。
「お前な…そういうのを、惚気って言うんだぞ」
「知ってる」
照れもなく素で返す親友にアルムクヴァイドはどこか呆れて、妻の言葉を思い出した。
「…ルチアが相当怒っていてな。暫くリュクレスには会わせない、だとさ」
「言われると、思った」
目を閉じたままヴィルヘルムは、ソファにもたれ掛かり天井を仰ぐ。
その口元が苦笑に歪んだ。
「いいのか?」
「…あの子を上手く大切に出来ていない自覚は、俺にだってあるからな。叱られても仕方ない」
あっさりと受け入れるヴィルヘルムに、アルムクヴァイドは整えられた髪が乱れるのも気にせずに、その輝く髪をかき混ぜた。
「とばっちりで、俺までルチアに叱られた。夫婦別室だぞ。どうしてくれる」
恨みがましい言葉に、片目だけをちらりと開いたヴィルヘルムは、鼻で笑う。
「はっ、ざまあみろ。そういうのを、八つ当たりって言うんだ」
どうせ、痴話喧嘩だ。心配することもないと、ヴィルヘルムはむしろ煽るようにそう言った。
『その約束は必ずや、我が国の誇りにかけて果たすと誓う』
頭の片隅でクラウスの真剣な言葉を思い返す。
フメラシュは約束通り、騎士と侍女を罰するだろう。彼らの犯した罪は重い。
そして、公女がどのような責任を問われるのか。
それに関してはフメラシュ公の裁量次第だ。
だが、チャリオットが零したように、全く罰を受けないということはないように思う。
あの男はあの男なりに、しっかり彼らの関係を歪ませていたが、きっと、それが役に立つほど甘い罰にはなるまい。
なんにせよ、ヴィルヘルムが最優先すべきは、あの、人を責めることのない娘の安全が守られること。…リュクレスが彼らを恨むことをしないから。
同日。
半日をおいて午後、慌ただしくフメラシュの使節団は帰国の途に就いた。
同じ使節の立場であった数人を罪人として連れ帰る。
それは彼らにとって酷く苦く重々しい雰囲気を纏っての出立であった。




