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「お兄様、何かご用?」
朝から、騎士たちは誰ひとりとしてやって来ない。仕方なしに侍女を従えて、アリューシャは兄の部屋を訪れた。
いつもは朗らかな兄の、とても硬い表情に、アリューシャは首をかしげる。
「お兄様?」
「アリューシャ、話がある。君たちは下がりなさい」
侍女が静かに退室すると、代わりに現れたのは、アリューシャの金色の騎士と、もうひとり。
この国の将軍であり、アリューシャの愛しい人。
「ヴィルヘルム様!」
感極まったように大きな声で彼の名を呼ぶと、彼女は頬を紅潮させ目を輝かせた。
「ようやく、お会いできましたわ!やはりあの娘が私たちの間を邪魔していたのですね」
駆け寄ろうとする彼女の前にオルソが立ちふさがる。
アリューシャは驚いて、それから顔をしかめた。
「何をしているの、私の騎士。そこをどいて頂戴?」
「…いいえ。殿下、どうか分別を持った行動を」
「どういう意味?愛する人に近づこうとすることが分別のない行為と、そう言うの?」
「一方的な好意を押し付けることについて、オルソは言っているんだよ。アリューシャ、こちらに来て座りなさい」
「お兄様まで、何を言い出すの。私はこの国に将軍と結婚するためにやってきたのよ?」
「縁談をしに来たのは確かだ。だが、それはもう白紙に戻った。何度も言い聞かせただろう。アリューシャ、全てがお前の思うようにはならない。いい加減まだわからないのか」
先に進まない会話に、ヴィルヘルムはため息を付く。視線が集中するのを感じながら、彼は言葉を選ぶことをやめ、素直な気持ちを口にした。
「私はフメラシュ公を尊敬しています。クラウス殿下、このまま貴方の国との関係は維持していきたいと願っている。しかし、公女殿下については、これ以上この国に居て欲しいとは思わない」
聞いているだけでも疲れる。話している本人たちはもっと遣る瀬無い思いを抱いているだろう。
話せど、話せど、手応えのない、噛み合わない会話。
公平性と透明性を保つため、侍女を捕縛するときも、騎士のときにも、こちらが動く際にはフメラシュの騎士には同席してもらっている。
勿論、尋問においても、だ。
侍女については知らぬ存ぜぬを貫いていたが、少しずつ、公女のためだと責任転嫁の言葉を吐くようになってきている。行動を起こしたのは自己責任であるが、そもそも、責任など取ったことがないからこその愚かな行動であるから、それを言ったところで理解しようはずもない。
そして、同じく名誉ある騎士から虜囚へと転落した愚か者たちはと言うと、尋問などしなくても、どのように公女からリュクレスの殺害を受けたのか自ら誇らしく滔々と語ってくれた。興奮した彼らは、自己犠牲の境地に酔い、いかに公女が素晴らしく、どれほど選ばれた自分たちが光栄であるかと優越感を誇示するばかり。孤児風情が公女の幸せの邪魔をするとは…と、その後に続く平民に対する彼らの蔑視と侮蔑の言葉に、それを聞かされた同じフメラシュの騎士たちは唖然とし、嫌悪感を沸き起こらせると共に、あまりの申し訳なさに、各々がリュクレスへの謝罪を申し入れたほどだった。
余談にはなるが、彼らの誠意に折れ、リュクレスへの謝罪を許したヴィルヘルムが見たものは、苦悩するその表情を、謝罪した相手に心配され、逆に慰められ、どうしたらいいのか戸惑う男たちだった。
彼らの責められる覚悟でした謝罪は、柔らかに受け止められ、感謝でもって返された。
「自分のことみたいに怒ってくれて…ありがとうございます」
ふわんと微笑んで、ぺこりと頭を下げる姿は、何とも、リュクレスらしかった。
自国の騎士たちからの報告によって、公女が引き起こしたことを、クラウスは全て把握している。
事前に将軍がした忠告はあまり意味のあるものにはならなかった。フメラシュにとっては汚点でしかない今回の公女の行動を止められなかったクラウスの顔には苦渋が滲む。
「…宮廷の奥で育った妹がここまで人の気持ちの汲めないと気がつかなかったのは、こちらの不手際。不愉快な思いをさせ大変申し訳なかった。予定を繰り上げて、早急に妹と共に帰国させていただく」
「お兄様?!」
驚愕に、今までになく動揺をあらわにするアリューシャに、クラウスは、何かを堪えるように唇を噛み締め、首を横に振った。
アリューシャのためだけに、この国に来た訳ではなかった。この国との友好を深めること、より良い関係を築き、お互いに実りのある交渉をするためにやってきたのだ。視察も、会談もまだ多くの予定が残っている。その多くのことをやり残したまま帰らなければならないのは、心残りだがそれでも、これ以上妹をこの国に置いておくわけにはいかない。
そして、その妹を止めることのできなかった自分も、此処にいるべきではないだろう。
「お前はその手で我が国の品位と名誉を引きずり落とした。これ以上この国に迷惑をかける前に帰国しなければならない」
優しい兄の責めるような厳しい眼差しに、アリューシャは戸惑う。
「お兄様、何を言ってらっしゃるの?私は何もしていませんわ」
「公女という立場を笠に着て、無理やり将軍を奪い取ろうとするのは恥ずべきことだよ、アリューシャ。お前が、その想いを伝える機会くらいあっても良い、そう思って黙認していた私も悪かったのだと、今は後悔しかない。…今朝、お前の騎士たちは、将軍の婚約者の命を奪おうとした。あろうことか他国の城の中で剣を抜いて、だ。してはならないことを彼らはした。お前が唆したのか?」
アリューシャは恥じるどころか、ほんのりと顔の赤みを取り戻すと、キラキラと目を輝かせた。
「まあ、私のために、私の騎士たちが?お兄様、やはり、あの娘は初めに喜んで身を引くべきだったのです。だって、公女たる私を喜ばせ、私を幸せにするために、彼らは動いたのでしょう?彼女は駆除された?」
クラウスの両脇に下ろされた拳が、わなわなと震えていた。
悔恨も、罪悪感も妹にはないのだ。
「お前は、無自覚にどれほど残酷なのだろうな。…公女であることが、全てにおいて免罪符になるわけではないよ。お前はその手で周囲の者を不幸にしても気がつかず、ふわふわと笑っていられるのだね。…国民の上に立つ者として、それではいけない。市井の者であろうと貴族であろうと、それは身分でしかなく、心も感情もある同じ人間なのだよ。人は、自分がされて嫌なことは相手にもしないようにするものだ。人の想いを汲む事、それがお前には、欠けている。…そんなに甘やかして欲しいのならば、お前の為に生きてもらいたいのならば…、今回お前が唆した護衛騎士の誰かの元に嫁がせてやろう」
罪人の妻として。その意味を、アリューシャは理解しなかった。
可愛らしく首を傾げる姿は、この国に来る前の愛らしい妹のまま。
「騎士ごときの妻になど…おかしな事を言われるのね。全然、私には相応しくないでしょう?お兄様、何を怒っていらっしゃるの?」
何も、届かない。
激昂が、絶望に近い諦観に変わり、クラウスは顔を歪めた。
異常なほどに、アリューシャは現実を見ない。
瞼を閉じると、彼は静かに表情を消した。
目を開いた時には、個人の感情を切り捨て、そこには公人としての仮面をつけたクラウスが居た。
「すでに、お前に拒否権はない。泣こうが喚こうが、お前が嫁ぐ相手を選ぶことはもう、二度とないと、覚悟しておきなさい」
貴族の中では最も地位の低い騎士への降嫁。
それも罪人とあっては、公女にとって罰でしかないだろう。
だが、すでに恋情は消えているとは言え、かつて、愛しいと思っていた姫の余りにも軽々しくも残酷な言葉に、オルソは唇を噛み締める。
見下していたから、優しくしていたのだ。
温情を与えてあげることで、自分の立場に優越感を抱き、優しい自分に満足する。
そんな道具として、彼女に利用されていただけだと、騎士はもう気がついていた。
それでも、余りにも盲目的に、姫が純真無垢な娘だと思い込んでいたから、愕然とした失望はあまりにも、…重い。
アリューシャの心根は、優しいわけではない。優しいふりをしているだけ、否、己を優しいと思い込んでいるだけ余計に悪質だ。
こんな機会でもなければ、露見はしなかったのかもしれない。彼女は己の望みが叶う中では、『周囲のものを蔑むことのない、慈愛に満ちた己』に浸っていただろうから。
スナヴァールの王女との会話、そして今の言葉に、オルソもクラウスも、否定しきれないアリューシャの欠落を思い知る。
苦い後悔が、胸を焦がした。
(この妹を幸せにするために、私は、将軍の婚約者という女性を不幸にするところだったのか…)
「私は、お前をまるで見ていなかったのだな。父上でさえ…いや」
ふと、出発前の会話を思い出す。
もしかしたら父上は気がついていたのではないか?
この縁談に積極的だったクラウスと違い、父は珍しく流されるままだった。
成立しないならば、早々にアリューシャだけでも帰しなさいというあの時の言葉は、妹のことを配慮してのものではなかったのかもしれない。
父上はこの結末すら、予測していたのではないか。
クラウスの中で違和感がじわじわと膨らんでいく。
(…確認をしなければ)
父の意図を。
「…すでに、将軍との婚姻を望むのはお前だけ。ほかの誰も望んでいない。帰るよ」
「お父様はっ…望んでくださいましたわ!」
「それはオルフェルノとの関係を確固たるものにするためだ。だが、お前が障害になるならば、父上も国主として、お前の我儘を通すことはない」
公女は首を振った。その目にはやはり諦めの色はない。
まるで玩具を欲しがり、駄々をこねる幼子だ。
将軍が優しく感じるほど穏やかに、アリューシャに話しかけた。
この男は怒ることがないのかと、そう思うほどにこの国の守護者は冷静なままだ。
大切な婚約者がひどい扱いを受けたというのに、怒りすらその冷たさは凍らせるのか。
否。
そんなはずはない。一瞬だが、逆巻く焔の如き激情をクラウスは一度目にしているのだ。
その横顔を覗き見て、「ああ、やはり」と、言葉を飲み込んだ。
彼の双眸は氷のようでありながら、その奥には深い怒りが蒼い炎となって揺らめいていた。




