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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
一部  恩返し
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鐘楼の鐘の音が、薄明りの空に響いた。

夜明け前の静寂の中、こじんまりとした礼拝堂の身廊に人気はない。

主祭壇に置かれた燭台に、たった一つだけ灯された蝋燭の炎が頼りなく揺れる。僅かな光の中でぼんやりと浮かび上がるのは、祭壇に向け並べられた簡素な長椅子に座る一人の少女だった。

肩までの短い髪は黒く、しかし光に透けると茶色にも見える。

小柄で凹凸のない薄っぺらな身体は、袖から覗く腕や首が余計とその細さを知らしめていた。

まだあどけなさの残る子供のような容姿をしているが、16歳という年頃の年齢を迎える娘だった。その瞳だけは年齢相応の落ち着いた柔らかな光を宿している。

彼女はただ静かに、その時を待っていた。

ふいに、一筋、淡い光が舞い降りる。

待ちわびた朝日が身廊内に差し込んで、娘は輝き始めたステンドグラスを見上げた。

その円らな瞳は綺麗な藍緑色。透明感を持つ瞳はそれ自体が、まるで輝き始めたステンドグラスの一片のように美しい。

モザイクが描き出すのはこの地を守護する守護獣の最後の一場面である。


『獣は戦いを終えると、野の花が揺れる丘で、静かに眠りについた』


経典の最終小節を描くそれは静謐で、穏やかな世界。

緑と、黄色、桃色の草原を映すモザイクの中、紺色の狼が静かに伏せてこちらを見下ろしている。灰色の眼が、何かを問いかけているようだった。

眠りにつこうとする守護狼は何を思うのだろう?

このステンドグラスの狼と出会ってから、少女はずっと考えている。

静穏で、全てを見透かすような、受け止めるような深い眼差しに見守られながら。



吟遊詩人が歌い、子供の寝物語として聞かされて育つ。

紺青の獣神の話は、この国の国民ならば誰でも知っている、そんな身近な物語。

この国を襲った大きな戦争があった。

人も動物も、すべてが焼き尽くされようとした、その時。

狼の姿をした冬の神は深々と雪を降らせて大火を鎮め、凍てつく咆哮で敵を凍らせ、その牙で、その爪で、戦争を終わらせたのだという。

その争いが侵略であったのか、それとも内乱であったのか、詳しいことは語られていない。

ただ、戦いを嫌う狼がそれを退け平穏を齎したとだけ、伝承は伝える。



平和を好む冬の狼がのどかな風景に溶け込むその絵に、少女はいつも目を惹かれ、立ち尽くす。

抱くのは畏敬の念か。

孤児となり、初めてこの教会に来た幼い頃。

母を失い打ちひしがれていた、空っぽの少女を見下ろす、灰色の瞳に。

ステンドグラスの姿に見入っていた少女に、司祭は優しく教えてくれた。

「守護狼は戦争を起こしてしまう人すらもひっくるめて、世界を愛おしいと思ってくれる存在なのですよ」

「…まるでお母さんみたい」

そう言った少女に司祭は笑い、

「無償の愛情は、母も神も何ら変わらないのかもしれませんね」

彼も眩しいものを見るかのように狼の姿を見上げて、優しく少女の身体を引き寄せた。

改めて、だからこそと。

「裏切っても神はきっと悲しい顔をされるだけで、きっと、私たちを助けようとしてくれるでしょう。だからこそ、見返りを求めないその思いに、私たちは酬いることが出来るよう、生きていきたいものですよね」

穏やかに諭されたその言葉に、少女は大きく頷いた。

戦争で母を失い、神という存在が何時でも助けてくれるわけではないと理解していながら。

それでも、狼がのんびりと休むその姿に心が救われたのも事実だった。

今だ、灰色のその瞳が語る意味を、読み取ることは出来ないけれど。




「やはり、此処に居ましたか。リュシー」

掛けられた声に振り向けば、そこにはほっそりとした白髪の混じる年配の女性が立っていた。リュシーと呼ばれた少女は立ち上がると、その女性に向かって微笑む。

「ラジミュール様」

「おはよう、リュシー。…いいえ、貴女は眠っていませんね」

「ここを離れると思ったら、なんだか守護狼様にお会いしたくなってしまって。でも、夜の暗闇ではお姿を見ることは出来ませんでした」

ずっと、この修道院で暮らしているのだ。知らないはずはなかろうに。

ラジミュールは憂いを浮かべた顔で、少女を見つめる。

物腰の柔らかい話し方は元からだが、いつの頃からか少女はその柔らかな当たりで内心を上手に隠してしまうようになった。

けれど、修道院長であるラジミュールにとって、子供の一人でもあるリュシー…リュクレスの心のうちなど、隠していてもわかってしまう。

「無理に、行く必要はないのですよ?司祭様も貴族です。領主であるノルドグレーン卿へ窮状を訴えることもできるでしょう。いくら、実の父娘とは言え…貴女は彼の道具として生まれたわけではないのですから」

ラジミュールは辛そうな顔をして眉を顰めた。それは、初めて迎えがやって来たときの暴言を思い出したからだろう。リュクレスにとっても、それは衝撃的であった。

『勝手に産まれたのだから、産まれたからには役に立つぐらいはしてみせろ』

…実の子どもであろうとも、貴族の腹から生まれなければ、生まれることすら彼らの許可がいるのか。

少女にとって、その言葉は怒りも悲しみも与えなかった。ただ、諦観のような、脱力感が身を包む。

だが、逢ったこともない父親に道具の様に思われていようとも、母が慈しみ、ラジミュールや司祭が大切に育ててくれた自分を、価値の無いものだと思いたくない。当然の様に、意のままに使われる存在でありたくはなかった。

いとけない子供の様な姿をして、けれど彼女の心はしなやかで強かだった。

「いいえ、子爵は約束通り、皆がこの冬を越え、春を迎えられるだけの食糧と、必要なものを準備してくれました。…皆が穏やかに冬を越せるなら、私は安心して、子爵の元に行くことが出来ます。…このくらいのことしか私には出来ないから」

強がるわけでもなく、少女は言う。その表情に嘘はない。

彼女は唯々諾々と、父親の言いなりにはならなかった。相手を説き伏せ、己と引き換えに代価をしっかりと勝ち取ったのだ。

「ラジミュール様や司祭様が一緒になって戦ってくれたから、勝ち取れました。ありがとうございます」

「私たちはそんなつもりで貴女を守ったわけではありません。貴女を一人の人間であると、あの男性に、理解してもらいたかっただけです。まさか、貴女が自分と引き換えに取引を持ちかけるとわかっていたら…もっと早くに止めたでしょうに」

昨年の夏は干ばつによる凶作で、ノルドグレーン領だけでなく、その周辺もすべて食糧難を抱えている。領主は人道的な人だから、最大限の努力を持って食料の手配をしてくれているが、孤児を抱えるこの修道院では圧倒的に食料が足りなかった。

秋の間中、山で木の実などの採集で食糧確保に取り組んだものの、まさに焼け石に水。

深刻な状態で冬を迎えていたから、リュクレスの機転は、まさに修道院の皆を救うことになった。そのまま手をこまねいていたら、弱いものから餓死者が出た可能性もある。

だからこそ、ラジミュールも司祭も苦渋の選択を飲むことになったのだ。

だが、彼女が一言でも嫌だと言ったなら、どれほど大変な目に合おうとも、全力で引き留めるのに。

リュクレスはそんな血の繋がらない家族の優しさを知っているから、素直に子爵の元に行くことを決めていた。

ラジミュールは歯がゆい思いを抱えながら、娘の様に思う少女を抱きしめる。

「辛くなったなら、我慢せず、帰ってきなさい。約束ですよ?」

「…はい。でも、きっと大丈夫です。守護狼様が見守っていてくれますから」

少女は朗らかに笑った。やせ我慢ではない、嬉しそうな笑顔。

こんなに優しい人たちを助けることが出来るのだ。

自分に出来ることは、細やかなことだけれど、それでも確かに。

温かい人肌に、リュクレスも手を伸ばす。

日は昇り、色鮮やかにステンドクラスは輝いた。色とりどりの光が降り注ぐ。

冬の凍えた身廊で、その散りばめられた色彩と暖かさ。

飾り気のない石畳が、緑色に染まる。

光の野原の中、狼に見下ろされて。

…優しい抱擁はしばらく続いた。



翌日、日の出前に、人目を避けるように一台の馬車が修道院を発った。

ラジミュールは小さくなってゆく馬車を窓越しに見送る。

瞬きすら惜しむ様に、ただひたすらに、静かに。

窓辺に佇む彼女の、ぴんと伸びた姿勢の良い背中は小さく震えていた。

静かな別れに、お互いの前では流されなかった涙が、違えた場所で頬を伝う。

馬車の中一人、リュクレスは両手で顔を覆い、俯きながら嗚咽を堪えた。

指の隙間から、零れ落ちる雫がスカートの上に落ちては染みを作る。


彼女を乗せた馬車が向かう先は、王都ヒュリティアのあるアズラエン領。

それは、リュクレスにとって酷く遠い場所であった。







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