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「遠くにないうちに、公女は実力行使に出るかもしれません」
ヴィルヘルムがそう教えてくれたのは、昨日、部屋に送り届けてくれる道すがらのことだった。
「実力行使…ですか」
そう言われれば、リュクレスにも予想がついた。
矜持を傷つけられ、涙ながらに去っていった公女にとって、リュクレスは意のままにならない、我儘な邪魔者でしかない。
言葉で言うことを聞かないのであれば、―――行動で。
人であるとも思われていないリュクレスを排除することに、かの姫は多分、なんの呵責を覚えることもないだろう。
何が起こるのか、ヴィルヘルムが明言しなくてもわかる。
そして、何を心配しているのかも。
だから、リュクレスは安心してもらえるように笑いかけた。
「私なら、大丈夫です。ほら、約束したばかりじゃないですか。ヴィルヘルム様と一緒に戦いますって。ヴィルヘルム様の傍に居たいのは私の我儘だから。だから、何を言われても、怖い目に遭ったって、私の想いは変わりません」
「傍にいたいと望むのは俺も同じだ。…君は強いな」
眩しそうに見つめるヴィルヘルムの中に、逡巡を感じて、リュクレスは彼の手を取った。
気が付けば、もう、部屋の前だった。
立ち止まり、真っ直ぐに、ヴィルヘルムを見上げる。
もし、本当に強くなったのならば、きっとそれは、彼のおかげだ。
「強くなっているのなら、嬉しいです。でも、強いからってわけじゃ…なくて、ヴィルヘルム様が守ろうとしてくれているの、ちゃんとわかっているから。私も、頑張ろうと思うだけなんですよ?」
共に生きることを望んだ。
一緒にいるために戦う必要があるのならば、リュクレスは、それを受け入れる。
ヴィルヘルムはオルフェルノの将軍だが、他国からすれば、一貴族でしかない。
明確な罪でも犯さない限り、ヴィルヘルムには公女を声高に非難することも、彼女の行動を止めることも難しいのだろう。
なぜならば、相手はフメラシュにおいて最も尊貴なる血統の姫であり、そして、彼女が仇なそうとしている自分は、しがない平民でしかないから。
理不尽であろうとも、それが現実。
一国の姫の、犯すかも知れない罪を、可能性だけで断罪することはできない。
多分、彼女の行動は監視されているのだろう。だから、ヴィルヘルムは、彼女がこれから起こす行動を正確に把握している。でも、国賓である公女を監視していることが発覚すれば、糾弾されるのはヴィルヘルムであり、そしてそれは、同時にオルフェルノの評価となる。
アルムクヴァイドがそこに口を出せば、尚更に、それは消しようがない国同士の確執となるだろう。だからこそ、彼らは忍耐をして沈黙を守る。
予測が、事実となるまでは。
(なら、私は何をすればいい?)
単純なことだ、行動を起こさせやすいように動けばいい。
例えリュクレスが平民であろうとも、王城内で剣を抜き危害を加えようとしたならば、それは言い訳のできない過失になる。
そこを押さえるのが、ヴィルヘルム達には一番都合がいいだろう。
ならば、リュクレスがすべきは、標的らしく、彼らが行動を起こしやすいようにいつも通りの行動をとること。
自分の瞳は、言葉よりも雄弁に、その覚悟を告げているはずだ。
本当は、彼がリュクレスを囮にしたくないと思ってくれていると、知っている。
それでも、ヴィルヘルムの役に立てるならば、リュクレスだって、危険だとわかっていても頑張りたいと思うに決まっているのだ。
静謐に沈む氷のような瞳は感情を上手く隠すけれど、繋いだ手が、彼の葛藤を示すように、強く握りしめられる。
じりじりと続いた沈黙を破って、ヴィルヘルムの低い声音が、諦めを含んでこぼれ落ちた。
「一緒に、…戦ってくれますか」
それはリュクレスが望んでいた言葉。
ヴィルヘルムに頼られて、リュクレスは全身に染み渡る嬉しさに、溢れんばかりの明るい笑顔で、勢いよく頷いた。
男の秀麗な顔に苦笑が浮かぶ。
降参ですと、囁かれた小さな呟きは、気のせいではなさそうだ。
苦いものを飲み込んだ彼の目には、もう、迷いはなかった。
強い灰色の眼差しが、リュクレスを貫く。
「今一度、囮をして欲しい。君を害そうとする者たちを、一掃する。必ず守ります。力を貸してもらえますか?」
リュクレスはその言葉に、「はい」と躊躇うことなく答えたのだ。
それなのに。
彼らに向けられた暴力さえ、リュクレスは自分に向けられたものと同じくらい怖くて、怯えてしまう。
戦争や戦うということはそういうことだと分かっているのに。
それでも、リュクレスにはその行為自体が怖いのだ。
叩かれることも、叩かれるのを見るのも、怖い。
何もできずに怖がってばかりいるリュクレスは、いつになっても、自分で戦うこともせず、助けられるばかりの卑怯者だ。
震える自分を叱咤して、リュクレスは自分からもヴィルヘルムに手を伸ばす。
「ヴィルヘルム様は、ちゃんと守ってくれています。どうしても怖いと思ってしまうけど、全然戦えていないけど…っ。でも、一緒に戦うって、約束したから。私なら、大丈夫なんです」
ヴィルヘルムは、守ってくれている。
謝ることなんて何もありはしないのに。
それなのに、リュクレスの態度がヴィルヘルムに後悔をさせる。
「心配かけてごめんなさい」
リュクレスは今思っていることを、たどたどしくてもいいから、一生懸命言葉にして伝えようと思った。けれど、震える声で出てきた言葉は、たった一つ。
「大好きです」
ヴィルヘルムはずっと、リュクレスをその心ごと守ってくれている。どれだけ怯えていたとしても、剣を振るうヴィルヘルムが怖いわけではない。
彼がこの国を守るためには、どれほどにも冷酷非情になれることを知っていて。
それでも、リュクレスは、己の意思で剣を握り戦う騎士たちに敬意を抱く。
ヴィルヘルムの傍にいたいのだと、その想いを瞳に乗せて、真っ直ぐにヴィルヘルムを見上げれば、彼はほっと表情を和らげた。
「生き方が違う、考え方も違う。だから、君のその恐怖も仕方がないものだ。それでも、君は俺を拒絶しない。受け入れてくれるだろう?それで良い、十分共に戦ってくれている。だから、謝らないで、今みたいに包み隠さず教えて欲しい」
世界が本当に優しさだけで溢れているのならば、きっと争いも悲しい出来事も起こりはしない。
けれど、そうではないから。
どれだけ柔らかなリュクレスの傍で微睡んでいようとも、自分の大切なものを守るためならば、変わらずヴィルヘルムは、冷酷に相手を排除することを躊躇いはしないだろう。
同じように冷酷無情に相手を屠るヴィルヘルムの傍にいようとも、リュクレスが今のその優しさや、暴力に慣れ、それを忌避する思いをなくすことは、きっとない。
「二人は、それでいいんじゃない?ほら、なんて言うんだっけ、こういうの。破れ鍋に綴じ蓋だっけ?」
どうにも真面目な場面を壊すのが得意なチャリオットの言葉にヴィルヘルムが冷たい視線を流した。
「……百歩譲って、ふさわしい伴侶、という意味でならまだ許すが、…チャリオット、誰が割れ鍋で、綴じ蓋だ?」
「あれ?違った?」
相変わらず、余計な一言が多い男だ。他に言いようがあるだろうと、確かに周りも思った。
ぽかんとしたリュクレスが思わず、笑う。
ヴィルヘルムやチャリオットにとっては見慣れた愛すべき笑顔。
だが、初めてそれを目にする者たちは目を瞠った。
ほんのりと頬を染め、ひっそりと開花した花のように慎ましくも温かな微笑み。
光を浴びて柔らかく細められる藍緑の眼に魅入られる。
それは、厳冬の中に、ぽっかりとやってきた花の便りのように、胸に色鮮やかに残る表情だった。




