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「…ヴィルヘルム様」
「はい?」
ルーウェリンナとヴィルヘルムを交互に見上げ、リュクレスは遠慮がちに恋人の名を呼んだ。返される穏やかな眼差しに、背中を押されて、望みは素直に口を突く。
「あの、よければ、いつか、ルーウェリンナ様や王様との昔の話を聞かせてくれませんか?」
「面白いことはないと思いますよ?」
どこか拒否的な雰囲気を匂わす男に、リュクレスは後悔する。
しまったと、思った。
ヴィルヘルムを困らせる気はなかったのに、余計なことを聞いてしまったようだ。
無理に聞きたいわけではなかったから、ぱたぱたと手を振って、慌てて言葉を取り消そうとすると、ルーウェリンナがいいことを思いついたと手を打って、リュクレスの手を取った。
「でしたら、私とお茶会でもしましょう。アルと私で彼のことを聞かせてあげます。ソルも混ざりなさいな。貴方こそいろいろ知っていそうだもの、ね?」
「はぁ…」
王族の面々が参加するお茶会に普通に東方の民を招こうとするのは、きっと彼女以外にいないだろう。ソルは呆れたような、なんとも曖昧な返事をした。
実際、一癖も二癖もある、ルーウェリンナがソルは苦手なのだ。嫌いではないが、どう対応していいのか戸惑う。
「リン」
咎めるようなヴィルヘルムを無視して、美しい淑女はにっこりと微笑む。
「恋人の前で、別の女性を愛称で呼ぶような失礼な男に、こんな可愛らしい子預けていられませんもの」
「過去の女性遍歴もですが、どんなお付き合いだったか、まで話すあたり、ほんとにデリカシーというものがないですよね。彼女でなければ、はっきり言って叱られる内容ですよ」
呆れてものが言えないとはこのことですと、淀みなく悪態をつくのはソルだ。
「間違いなく、たくさんの人間を敵に回しましたわね。王妃も笑顔で怒っていましたもの。今の話を聞いたなら、この子がどう執り成そうとも、確実に結婚は延期ですよ?」
「…っ、お前ら、普段よそよそしい癖をして、こういう時だけどうしてそんなに連携がいいんだ」
「あら、共通の敵に向かうのですもの。敵の敵は味方と申しますでしょう?」
「ソル様とルーウェリンナは敵同士なんですか?」
「ふふ、そんなことはないわ。私は仲良くしたいのよ?ね、ソル」
「丁重にお断りさせていただきます」
…なんだか、すごく珍しいものを見た気がする。
「ソル様、ルーウェリンナ様が苦手なんだ…」
あんなに普段、動じない人なのに、ヴィルヘルムにすら、物怖じすることなく意見するのに。
こんなにタジタジに腰の引けているソルを見るのは初めてかも知れない。
「ソルは、彼女に押し倒されたことがあるからな」
「ふふ、懐かしいわねぇ」
「…っ!誤解を招くような発言はやめてくださいっ。悪かったですね、受け止めきれなくてっ。仕方ないでしょう、まだ発達途中だったんですから」
苦虫を潰したようなソルがまた珍しい。
一人だけ置いてきぼりを食いそうな状況で、そうならないのはルーウェリンナの会話の巻き込み方が上手いからだ。
ヴィルヘルムの腕の中でこっそりと疑問符を浮かべるリュクレスに、彼女は綺麗に紅の引かれた唇が弧を描いて、内緒話でもするように人差し指を立てた。
その瞳は茶目っ気たっぷりに輝いている。
「もう8年前くらいになるかしら。その頃のソルは今よりも繊細な可愛い少年だったの。今もだけれど、彼、とても綺麗な黒曜石の瞳をしているでしょう?私、間近で見て見たくて、覗き込んだら…ソルが逃げるものだから。ふふ、つい、追いかけたの」
「はあ…」
なんと返事をしたらいいものか、曖昧に相槌を打つ。見ると、ソルが輪をかけて仏頂面になっていた。
聞かないほうがいいような気もしたが、ここまで聞けば先は読める。
案の定、ソルを追いかけたルーウェリンナは足を挫いて倒れ込んだらしい。
「転びそうになった私に気がついて、咄嗟に支えてくれたのですけれど…」
「悪かったですねっ。ドレスがあんなに重いとは思っていなかったんですよっ」
倒れ込んできたのは華奢な女性だった。身長はソルよりもあったけれど。体重は…何も言うまい。とにかく、咄嗟だった。姿勢も悪かったから、受け止めようとして受け止めきれなかったのだ。
結果、二人して床に倒れ込み、ソルはルーウェリンナの下敷きとなった。
だが、自尊心にかけて言わせてもらえば、彼女に擦り傷ひとつ負わせてはいない。
転んだ驚きから立ち直ったルーウェリンナは、ソルの瞳をじっと覗き込んでにっこりと笑った。
「やっぱり素敵な瞳ね?…守ってくれてありがとう」
そう言って、額に口付けを落とした。今ならば、感謝を示すとても可愛らしい行為だったとわかるのだが、とても美しい年上の女性からのそれは少年だったソルには些か刺激が強すぎた。
以来、ソルは彼女が苦手で、いつだって逃げ回っているのだ。
「…えっと、微笑ましい思い出ですね?」
本当に微笑ましいと思ったのだが、ソルの何とも言えない表情に、リュクレスの言葉もぎこちなく、疑問形になる。
「…ね?って言われても…まあ、爆笑した失礼な人よりはましですか…」
はぁと、大きくため息をついたソルはそう言いながらも笑っている。
「もしかして、チャリオット様、ですか?」
「残念でした。ベルンハルトと、王ですよ。チャリオットは知りません。知ったら確実に爆笑するでしょうけどね」
楽しそうにヴィルヘルムが笑って、さりげなくルーウェリンナからリュクレスの手を奪い返す。
会話とは別のどこか大人げない攻防に、リュクレスはほんわかと緩む口元を隠して、ソルに頷く。
「秘密にしときます」
「…お願いします。まあ、俺のことは良いんですよ、それより話を戻しましょう」
「そうね。で、どうするの?将軍?」
質のよろしくない笑みを浮かべるルーウェリンナと、途端にげんなりしたヴィルヘルムと。
友人同士なはずの彼らは目だけで牽制し合う。
そう、ふたりは本当に、よく似ているのだ。性格も、嗜好も、惹かれる人間さえも。
ヴィルヘルムとしては、またしても、横槍が入るのかと気が気ではない。
だが、期待のこもった眼差しを、ヴィルヘルムのために隠した娘を見てしまえば、ルーウェリンナの提案を易々と拒否することも出来ない。
ふうと、ため息混じりに口を閉じた恋人を、リュクレスが申し訳なさそうに見上げていた。安心させるように微笑むと、纏められた髪型を乱さないように気をつけながら、頭を撫でる。
何を話されるかなんて、なんとなく予想は付いている。面白おかしく過去のことを掘り返されるのはできれば遠慮したいものだが、リュクレスが聞きたいというのならば、別にいいかと、諦める。
「何か気になることがありましたか?」
「え?」
「今まで私の過去のことを聞きたいなどと言ったことはなかったでしょう?」
単純に疑問に思ってそう問えば、リュクレスはなんとも困った表情を浮かべ、呆れた声がルーウェリンナから齎された。
「本当に、女心のわからない人ね」
ふたりの間に見えない火花が飛んだのを、リュクレスはそこはかとなく感じたようだ。少しだけ慌てたように、話し始める。
「あ、あのっ…ええと。10年前、今の私と同じ年だったヴィルヘルム様がどんな風だったのか、知りたいなぁ…って思ったんです。ルーウェリンナ様や王様と話すヴィルヘルム様はどこか肩の力が抜けて自然に見えて、…話し方も砕けていて、私と話す時とは全然違うから、とても新鮮で。でも、すこし寂しかったんです。私だけが、その頃を知らないから。好きな人のことだから知りたいと思ったんです。でも、迷惑だったならごめんなさい。」
「……」
娘の言葉を聞いていたふたりは沈黙して視線を合わせた。それから互いに、正反対の表情を浮かべる。
「将軍、この子、私が連れ帰っても良いかしら?」
悠然と笑みを浮かべて、首を傾けるルーウェリンナに、男は珍しく言葉を詰まらせる。
「…っ。駄目だ。リュクレス」
「は、はいっ」
姿勢を正したリュクレスの肩に手を置き、向かい合うとヴィルヘルムは少々決まり悪そうに笑った。
「以前君は言ったな。その胸を開いて私への気持ちを見せられたならいいのにと」
「は、はい」
「同じことを俺も思うよ。君への想いを、見える形で君に証明できればいいと思う。…口調は許してくれ。君には優しい俺でいたいから。あまり乱暴な言葉を使いたくないんだ。俺のことを知りたいと思ってくれたことも素直に嬉しい。ただ、その言葉はできれば俺だけの時に聞きたかったな。…彼女の前で君を口説くと、後で話の種にされるだけだから」
苦笑するヴィルヘルムは、けれどとても穏やかに続ける。
「私も君のことが知りたいと思った。同じように君が望んでくれるようになったんだな」
「困らせて、しまいましたか?」
「いや、また、一歩近づいてくれたようで嬉しいよ」
ほっとして微笑むリュクレスの頬を、ヴィルヘルムは手の甲で優しく撫でた。
「…ね、ソル。こんなに甘いのをいつも見ているの?」
少し離れたところでルーウェリンナが、ソルに耳打ちをした。
「この程度序の口です。俺、読唇術出来るの、本気で後悔しましたから」
「あらぁ…胸焼けしそうね」
そう言いながらも、ルーウェリンナのその笑顔は眩しく、とても嬉しそうだった。
同意するふりをして、ソルは。
その笑顔から静かに、目をそらした。




