34
真っ直ぐに目の前の女性を見つめる。
争うことは好きではないけれど、…こういう時くらいリュクレスだって、唯々諾々と従うわけじゃない。
「申し訳ありません。私は自分の心に誠実でありたいです。後悔したくない。ヴィルヘルム様を幸せにするって決めたんです」
「でしたら」
ぱぁっと花が咲くように公女は笑った。その笑みに、リュクレスはゆるゆると首を振った。
「私の幸せが、ヴィルヘルム様の幸せになるとそう言ってくれたから。だから、私はヴィルヘルム様の傍にいます。それが、私の幸せだから」
リュクレスはヴィルヘルムを一途に望む。
「では、あの方が別れてほしいと言ったら素直に別れてくれる?」
…以前であったならば、どう答えただろう?
けれど、今はもう、その答えは決まっている。
リュクレスはもう一度、首を横に振った。
「私は好きですって、伝えます」
「我儘ね」
憤慨して、アリューシャは失望を覗かせた。
「…はい、我儘です。でも、それでも、そんなに簡単に気持ちは切り替えなんて、できないから。私は、ヴィルヘルム様を想うことを、やめたりなんてしません」
「まあ、なんて…」
刺すような視線、どろりとした憎しみの光に蔑む色が鮮やかになる。
その先にある罵倒を覚悟して、リュクレスは毅然とその視線を受け止めた。
けれど。
「素敵な子」
公女に言わせることなく言葉を遮ったのは、麗しい声だった。
ぴくりと、目の前にあるソルの肩が揺れる。
初めて聞くその声は、楽の音のように心地よく。
振り向けば、輝く艶やかな金髪を纏め上げた麗人が口元に笑みを湛えて佇んでいた。
「…あ…」
遠目でしか見たことのなかったその女性は、戸惑うリュクレスに嬉しそうな笑みを向けゆったり歩み寄ると、親しげな仕草でその手を取り、優しく握りしめた。
「よかった。あなたが、簡単に諦めてしまう人でなくって」
「え?」
「ふふ。身分の差にあなたが諦めてしまうのではないかしらって心配をしていたのだけれど。ただ守られているだけの人ではないのね。ちゃんと戦える人で良かった」
含みのある笑みだが、その瞳は誠実な色をして、真っ直ぐにリュクレスを見つめていた。
事の成り行きに呆然としつつも、その慈愛に満ちた眼差しにどこか安心してしまう。
「ルーウェリンナ様…」
一人では戦わせないと、言葉ではなく、ルーウェリンナは掌から伝えようとするかのようだ。リュクレスはただ、静かに頷いた。
伝わった思いに、ルーウェリンナは、愛おしむように微笑む。
目配せに、ソルが目礼し一歩後ろに下がると、彼女は優雅な足取りでリュクレスの前に立ち、公女との間を割った。
「ふふ。フメラシュの公女殿下、彼女をお返し願いますわね」
その気高さと品の良さに、彼女が高貴な女性であることは一目瞭然。そして、10代の少女には太刀打ちできない大人の女性の艶やかさに公女は怯んだ。
身分に図ってしかものを見ない公女には、ソルの存在は無視できても、ルーウェリンナのことは無視できない。
「貴女は、どなた?」
本来であれば、訪問国の貴族の事は把握しておくべき事柄である。臣籍降下したとはいえルーウェリンナは元王族。それを覚えていないのであれば、まず先に名乗るべきは己から。
そんな当たり前の礼儀さえなっていない姫へ当てつけるかのように、ルーウェリンナは優雅な挨拶をしてみせた。
「ふふ、お初にお目にかかります、殿下。私はルーウェリンナ・リデルフォン・エルナード。彼女のことは、甥から頼まれていますの」
「甥?」
「アルムクヴァイド国王陛下ですわ。さあ、参りましょうか。リュクレス?」
「…待ってくださいませ。そこの娘は、将軍と私の幸せを邪魔していると気が付いていないのです。ちゃんと、言って聞かせなければ…誰も幸せになれないわ」
口調を強め、アリューシャは真摯に訴えかける。
あたかも、それが真実のように。否、彼女にとってそれは紛う事なき真実だった。
いつもであれば、信じられた言葉。
誰もが賛同したアリューシャの願い。
けれど、切実な彼女の言葉をルーウェリンナは軽くあしらった。
「あらあら、そんなことはないから心配しないで。将軍はとても幸せよ?あなたが邪魔をしなければ、ね?」
それどころか、彼女は面と向かってアリューシャの方が邪魔者であると、清々しいほどの微笑みに乗せて言い切ってみせたのだ。
それは、アリューシャにとって思っても見なかった言葉だった。驚きに染まった顔は次第に強張り、それから、見る見るうちに、蜂蜜色の瞳が潤んでいく。
「なぜ私に、そんな酷いことをおっしゃるの?貴女も私に嫉妬されているの?」
口元を覆い涙声で呟いたアリューシャに、華麗なる女性はくすりと笑った。
まるで見当が付かないと言わんがばかりに、ゆったりと首を傾ける。
「嫉妬?私が、あなたの何に嫉妬すると言われるのかしら?」
そこにいる誰よりも美しく艶やかな、牡丹のような女性からの失笑。
微笑まれることはあっても、嘲笑うことなどされたことのないアリューシャには、それはあまりにも大きな衝撃だった。受け止めることどころか、躱すことも、返すことも出来ない。
宮殿の奥で、真綿で包むように大切にされてきた彼女に出来ることがあるとすれば、ただ逃げ出すことだけ。
その場を取り繕うことなど出来るはずもなく、淑女としての嗜みも礼儀すら怠って、彼女はただ踵を返した。
その背中にあるのは、今だ、悲劇の主人公のような一方的な悲しみだ。
あの手の女性は嫌になるほど執念深く、自分の非を理解せず、自尊心が高い分、あきらめを知らない。
(尻尾を丸めて逃げてくれれば、いいのに。あの分では、それは期待できないわねぇ…)
ルーウェリンナはやれやれと肩を竦めた。
昨日はリュクレスに会わせないよう、フェリージア王女が彼女を撃退したという。だというのに、今日はとうとうリュクレスの目の前までやってきてしまった。
……まるで、子供たちの間で噂される怖い話のようではないか。
声を掛けられるたびに、家の前、庭先、玄関、家の中、部屋の中、そして背後へと迫ってくる、背筋が寒くなるようなお化けの話。
そのお化けも、確か女の子ではなかったか。
(捕まったら最後なところまで、そっくり)
お化けも怖いが、人であっても、行き過ぎた行動は気持ちが悪いものだ。
だが、彼女に捕まえなどさせない。
あの様子では、限界は近い。
明日には全ての方が付くだろう。




