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宮殿の中央から、右翼にフェリージアの部屋が、左翼にアリューシャの部屋はある。
1階は2つの葉が開くように左右が交差しない設計になっている為に、リュクレスは今までアリューシャに遭遇することがなかった。彼女たちの滞在する部屋は変わらない。そしてここは右翼の廊下。
待ち伏せをされていたことに、リュクレスはヴィルヘルムの忠告を頭の中で思い出す。
「彼女は君を傷つける言葉しか放たないはずだ。そんな言葉を聞く必要はありません」
けれど、目の前の姫の瞳には、侮蔑する色は見当たらない。
きらきらと、可愛らしい微笑みを浮かべる姫に、リュクレスは、どうすればいいのかわからなくなって、その場に立ちすくんだ。
「そんなに怯えなくても大丈夫ですわ。私は貴女にお伝えしたいことがあるだけなのよ。ふふ、遠目でも綺麗だと思いましたけど、近くで見ると本当に綺麗な目ね」
「あ、りがとう、ございます」
ぎこちない返事にも、アリューシャは気分を害したりはしなかった。ようやく、念願が叶うのだと、彼女は有頂天になっていたのだ。
微笑みは明るく、輝くようだ。両手を組み、甘えるように願う。
「私ね、ヴィルヘルム様の婚約者として、フメラシュから参りましたの。貴女が彼と何らかの約束をしているのは知っています。けれども、それは将軍を縛って不幸にするものだわ。貴女ならば、喜んで彼を解放し、私と彼の幸せを、祝福してくださいますね?」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
「戸惑うのも無理はありませんわ。けれど、これも神の采配。貴女は私たちの仲を深くさせるための、障害だったのです。貴女が私たちを隔てる壁となり、愛を燃え上がらせた。その功績には感謝していますの。望むのであれば、私たちの愛の巣に飾ってあげる」
とても優しく、慈愛に満ちた表情で、歌うように彼女は囁いた。
リュクレスは、彼女の目に見下す色がなかった理由に気がついた。
見下してさえいないのだ。
彼女は、リュクレスを同じ人間としてすら、扱ってはいない。
置物か、人形か。
鳩尾のあたりが、ひんやりとしてきて、血の気が引いた。
足が震える。
一歩近づいてくる公女に、リュクレスは後ろに下がろうとした。足首がうまく動かなくて、足先が上がらない。なんとかすり足で後ろに下げたものの、立っている感覚はおぼつかない。
広い歩廊に立ち尽くすしかなかった身体を。
優しい腕が、支えた。
「そんな妄想、正直にきくことはないですよ」
降りてきた、落ち着いた声は、リュクレスにとって耳に馴染んだ優しいもの。
見上げた先にあったのは、厳しい瞳で公女を見つめるソルの横顔だった。
来てくれた嬉しさに、ほっと安堵感が心に広がり、感謝と同時に心配が首をもたげる。
「ソル様…、どうして」
ヴィルヘルムもソルの存在はほとんど知られていないと言っていたではないか。
その彼が、こんなふうに堂々と姿を見せることは、本当ならしてはいけないことなのでは、ないのだろうか。
だって、秘密裏な仕事を中心とするソルが、王城の中で姿を現すことなど今まで一度もなかったのだから。
そんなリュクレスを安心させるように彼は笑うと、自分の身体で庇うようにして、アリューシャの前に出た。
振り返ることもなく、背中の少女に向かって話しかける。聞く人によっては冷たくも聞こえるその口調も、ソルが優しいことを知っているリュクレスには冷たくなど聞こえない。
「別に、絶対出てきてはいけないことはないんですよ。衛士たちはもう、俺のことを知っていますし。それにね。兄を自認する俺が貴女の危機に手をこまねいていると思いますか?」
リュクレスは大きく頭を振った。
背中を向けているソルが振り返ることないまま、ふと、笑う気配がする。
守るように目の前に立つ背中の頼もしさに、リュクレスは勇気をもらって顔を上げた。
公女はどこか興ざめしたような顔をしていた。ソルに対して、誰何することもない。
ソルを無視して、彼女はリュクレスに向けて、蜂蜜色の瞳を蕩けさせ微笑んだ。
「ねえ、将軍を思うのであれば、彼を諦めてくださいまし。優しい貴女なら、私の恋心を応援してくださいますわよね?」
愛は燃え上がったのではなかったのか?ソルは白々しい彼女の台詞に呆れたような顔をしたが、彼女にはソルなど全く目に入らないのだろう。
舌鋒鋭く切り返すのはお手の物だが、リュクレスが自分で立ち向かおうとしているのを感じて、ソルは見守るだけで、沈黙を通す。
「…出来ません」
鈴の音のような優しい声が、はっきりと否定の言葉を口にした。
そんな娘に対し、困った子ねと頑是無い子供を相手にするように、公女はふぅとため息を零す。
「将軍があなたと結婚しても何の利点もないのはわかっているのでしょう?それなのにあなたは一時の熱に浮かされた感情で、彼の将来を邪魔するの?自分勝手は良くないわ。ちゃんと、相手のことを考えてあげなければ。あなたは優しく誠実な娘なのだと聞いているわ。わかるでしょう?」
とても綺麗で、物腰の柔らかな貴族らしい話し方。愛らしく繊細な仕草。
自分勝手とたしなめられ、リュクレスはぎゅっと唇を結んだ。
確かにリュクレスにあげられるものなど、この想いと、リュクレス自身だけだ。
素晴らしい見栄えをしているわけでも、地位やお金、彼の立場を有利にするようなものを持っているわけでもない。
それでも。
それでも。
ヴィルヘルムが望むのは、リュクレス自身であると。
…言葉で。
その瞳で。
その抱擁で、間違ようもなく伝えてくれたから。
ここで、縦に首を振ることは、自分に自信がないというだけではなく、ヴィルヘルムさえ裏切ることになる。
彼を信じているから。彼を幸せにしたいから。
リュクレスが幸せなのは、ヴィルヘルムが貴族であり、地位のある人間だからじゃない。
彼がただ、笑ってくれれば幸せだ。
ヴィルヘルムだって同じだと思うのだ。…きっと。




