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何時ものように話に花を咲かせながら、その日のフェリージアの部屋に飾る花を選ぶ。
話し相手は柔和な顔をした老齢の庭師だった。
「今朝はまた氷霧が出たからね、寒くなるよ。また、庭で立ち止まってないで、早く暖かい部屋に戻るんだよ」
窘めるその言葉をくれる庭師の眼差しにはリュクレスを心配する気遣いに溢れていた。
寒さに凍えた世界は、厳しくも凛として白く、あまりにも綺麗で飽きることがない。
リュクレスは、温室から花をもらった帰り道、いつも決まった場所でその光景を眺めてから帰るのが日課になっていた。
木の幹さえ霧が凍って白化粧し、幾何学模様の庭の栽植が、白いオブジェのように庭を飾る。
白一色に見えながらそこにはとても複雑に色彩が重なり合っている。
麗白の雪に落とされる青や薄墨の影。
光を反射する、銀の輝き。
朝陽の淡い橙が、白雪に色を写し、指先の温度で溶けた雪解けの雫は透過する水色。
風に粉雪が軽やかに舞う、その空は、―――深い、群青。
そして、庭のその向こうに見える淡い卵色の宮殿が、白の中にとても映えて、まるで絵本の中で見たお城のように幻想的だった。
来るたびに、毎日見蕩れてしまう。その光景に圧倒されて、ただ立ち尽くす。
それをどうやら庭師の老人は知っていたらしい。
「あ…ばれて、ました?ごめんなさい」
悪戯が見つかってしまった子供のように、申し訳ない顔をしたリュクレスの頭を、彼は優しく撫でた。
「ここから見えていたんだよ。この庭を気に入ってくれたのはとても嬉しいが、風邪でもひいて君が来なくなるもの寂しいからね」
「ありがとうございます、ちゃんと気をつけます。ロッテさんも、風邪ひかないでくださいね?」
ふわんと、幼げな仕草で少女が笑う。心配してもらったことに感謝の言葉も忘れない娘に、ロッテと呼ばれた庭師は、相好を崩した。
「大丈夫、心配しなさるな。外の仕事は、若いものに任せて、儂はこの温室から出ないからな」
一定温度に調整された温室は年中暖かい。夏はともかく、冬は確かに過ごしやすい環境ではある。だが、責任者である彼が、外を見回ることをしていないはずもなく、それが安心させるための言葉だとわかるから、リュクレスは素直に頷いた。
今度、身体の温まるお茶を持ってこようと、こっそり思いながら。
だから、今日は足を止めたくなる誘惑を振り払い、心配をさせないよう素直に、王女の部屋へと戻ろうと思ったのだ。
複雑に交差する庭の中を、最短の小道を選んで王宮へと戻っていく。
まだ、長くはないスヴェライエでの生活だが、リュクレスほど、この庭を散策している侍女はきっといないに違いない。小道も、咲く花の場所さえも、庭師に引けを取らないほど知っているのだ。迷路の様な栽植を抜ける時であっても、その足取りには迷いがない。
壁のような垣根の隙間から宮殿が見えてきて、途端に視界が開ける。回廊から繋がる外郭へと伝うように視線は流れ、リュクレスは無意識にもその外壁に、ヴィルヘルムの執務室の場所を探してしまう。いや、探すこともなく、その瞳は彼の部屋へとまっしぐらに向かって行ってしまうのだ。
だってもう、とっくの昔に場所は覚えてしまった。
カーテンの閉じられたその部屋の、窓の奥に人影は確認できないけれど。
多忙なあの人は、まだ、自室にいるだろうか?
それとも。
(…やっぱり、あの部屋で、もう仕事をしているのかな)
忙しいのは知っているけれど、あまり無理はしないで欲しいと思う。
「ちゃんと、休んでくださいね?」
届かない声をそれでも、音にして告げる。
ふと、止まってしまっていた足を見下ろして、苦笑い。
いけない、また、立ち止まってしまった。
ゆっくりと歩き出せば、靴の上に積もった雪は余りにも軽く、ふわりと綿のように滑り落ちた。
さくさくさく。
雪の上を歩く足音が、こつりと、硬い地面を踏みしめた。
雪を払い落とし、濡れた足元をきれいにすると、宮殿の中へ入ってゆっくりと、奥へと歩き出す。王妃の部屋と違い、貴賓室は全て1階にあるから、階段を登らずに済むだけでも、リュクレスにとってはありがたい。
この寒さからか古傷が痛み始めていた。いつもよりぎこちない歩みに、リュクレスは少しだけ困ったと思う。
「フェリージア様に気がつかれないといいなぁ」
心配させたくないから。
リュクレスの傷はスナヴァールの兵士にやられたものだが、それは、フェリージアにも、ルクレツィアにも全く関係も責任もないことだ。
それでも、怪我のことを知ったルクレツィアは涙ながらに謝罪を繰り返した。
フェリージアにまでそんなことをさせたくない。でも知ればきっと謝ろうとするだろう。だから、リュクレスは、隠し事は苦手だけれど、このことは隠したいと思うのだ。
絨毯の上を歩く足が重たい。
躓かないようにと下を見て歩いていたリュクレスは、その先に立つ存在に、気が付くのが遅れた。
青みがかった菫色のドレスの裾が目に入って、はっと顔を上げる。
そこには、とても嬉しそうな顔をした、甘い匂いのお姫様が立っていた。
腰から切り返しのあるベル型のドレス。
蜂蜜のようにとろりとした瞳に、金色の髪。
小さな顔に綺麗に並んだ目鼻口。見つめてくる垂れ目がちの目はとても可愛らしい。
逃げろと言われていたフメラシュの公女アリューシャが、今、にっこりと笑みを浮かべてそこに居た。




