箱庭の日常3
夜も更け、真っ暗な外とは対照的な、明るい応接間。
日が落ちて気温の下がった室内を暖炉の火が温める。
美しい装飾のランプの中の炎が揺らめく度に、影が揺らめく。
ヴィルヘルムは天鵞絨地のソファに深く座り、膝の上で書類を広げていた。
夕食を終えてリュクレスは部屋に戻っている。
侍女が湯浴みの準備をしていたから今頃入浴中かもしれない。
彼女に向けていた柔らかい表情は、すでにない。冷淡な表情は、少し離れた位置に立つ男に緊張を強いていた。ただ、その緊張感はいつものものだ。
「変化はないですか」
「はい。使用人の中にも不審な動きをする者は見受けられません」
「まあ、我慢できずに動くのはあちらでしょうから、こちらは焦らず待ちましょう。作戦は予定通り。変更はありません」
「承知しました」
「ところで、リーンハルト」
「はい?」
「そちらの部下一人、明後日結婚記念日だそうですね?」
唐突な会話の転換に、リーンハルトは困惑した。彼がいうのは、コレクトのことだろう。
何故知っているのか。
一騎士でしかないコレクトとヴィルヘルムでは話をしたことさえないはずだ。訝しむ様子はそのまま、将軍に伝わる。
彼はひどく面白そうな顔をしていた。
親指で背後の窓を指す。窓の外、そこは衛兵の立ち位置だ。
「このすぐ向こうで話をしていただろう?」
「は、申し訳ありません。仕事中に私用の話をしていました」
「別に咎めようとは思っていません。謝罪は不要。ただ、お願いされてしまったのでね」
言葉のとおり、叱責をする表情はない。
「…お願いですか」
「明後日、コレクトに休暇を。ああ、ロームス通りに女性の好む宝飾店があるそうですから寄っていくと良い。当日でも指輪ぐらいであればサイズも直してくれるでしょう」
「…それは」
「その日は王も来られますから、護衛の数は足りるでしょう。私からは以上です」
「ありがたいですが、こちらも仕事です。そのような…」
「夫婦の記念日は蔑ろにしてはいけないそうですよ。私は詳しく知りませんが、騎士コレクトの妻はとても誠実で一途な方ようだ」
何かを思い出すように、将軍は口元を緩めた。
「今回のことは彼女への可愛らしい天使からのご褒美です」
お願い、可愛らしい天使、…彼らの話を聞いていたのは囮の娘か。
リーンハルトは何とも言えない表情になる。
「あの娘が何かを望むことは少ない。たわいない願いくらい叶えても良いでしょう」
自分のための願いであることがほとんどない、というのは何とももどかしいことだが。
それでも、叶えられたのなら彼女は笑うだろう。
ヴィルヘルムは仕方なさそうに首を竦める。
幾つかの願い。たとえば食事。
この屋敷ではリュクレスも使用人も、騎士たちも皆、同じメニューだ。それはリュクレスが望んだことで、料理長も皆で同じものを食べたいという、リュクレスの言葉に賛同して全員分の食事を用意している。彼女の摘んだ植物も、皆に食べてもらうためにせっせと摘んでいるのである。ただ、このことは、料理長とリュクレス二人の秘密だ。
彼らはここの食事が美味しいと喜ぶ皆を見て嬉しそうにするだけだ。
リュクレスは食事や美味しいものに興味がないわけではない。ただ、自分が食べるよりも人が食べているところを見るのが好きなのだ。そうして食べ損ねる要領の悪さを知っていれば、彼女の分を別にそっと準備をしてあげればいいだけ。
ヴィルヘルムも料理長も、彼女の優しい気持ちをそう受け止めている。
「彼女の我儘です。貴方達も協力してくださいね」
ヴィルヘルムは詳細には語らない。
ただ、この屋敷の居心地の良さが、少女の我儘であることを、遅まきながら、リーンハルトも知ってしまった。その優しさを、将軍が大切にしていることにも。
ソル、騎士バルロス、料理長のアルバ、そしてリーンハルトが今回の作戦を知らされているメンバーである。護衛と言いながら、事が起きればリーンハルトはリュクレスを守るのではなく、誘拐が成功するように動く役を担っている。そして。
何が起ころうとも、首謀者が現れない限りは、彼女を助けることはしてはならない。
「…本当に予定通りで、よろしいのですか」
リーンハルトは、堪え切れなくなって、訊ねる。
囮にする少女を、将軍は本当に道具として見ているのだろうか。
…実際は、もう見ることが出来なくなっているのではないか?
リーンハルトにしてもそうだ。
初めから見捨てられる可能性が高い駒。
それを本人も知っていて、それでも周囲のことを思いやる子であるならば。
そんな少女を囮にしようとすること自体。
純然とした疑問が生じ、その残酷さに愕然として、一気に冷静ではいられなくなる。
『誠実たれ騎士たちよ』
その言葉を胸に抱く、己に。
「全ては王のために」
灰色の瞳は毅然と、戦場と同じ瞳で部下を見据える。
冷徹で無情な判断をする冬狼将軍に、はっとしてリーンハルトは敬礼にて服従を示す。
言われるほど将軍は冷血漢ではない。
それでも、王の右腕として彼は王を優先し、葛藤を綺麗に隠す。
命じるとき、彼は将軍としてぶれることが無い。
だからこそ、誰もが彼に従うのだ。
玄関ホールに降りたヴィルヘルムは、パタパタと可愛らしい足音に顔を上げた。
駆け足というほどの速度ではないが、いつものゆっくりとした歩調に比べれば、酷く慌てた足音。現れたのは予想した通り、顔を紅潮させたリュクレスだった。
風呂上りなのだろう、髪はまだ少し濡れている。
「どうしました?風邪を引きますよ」
春とはいえ夜は冷える。
「あのっ、髪を切る約束を…覚えていますか?」
子守唄に眠りに落ちて、すっかりと寝坊した時のことだ。
そんな話を確かにしていた。
「ええ、覚えていますよ。…もしかして切ってくれるんですか?」
「ヴィルヘルム様がお忙しくなければ…あ!いえ、忙しいのは分かってるんですっ。ただ、その…少しでも時間があるのであれば…」
おもねる様な言葉は良く聞く。だが、こういう気遣いは、ここに来ないと聞けない。
ふっと、零すように笑みを漏らしてヴィルヘルムは、少女を誘う。
「是非、お願いしましょう。ここは冷える。応接間にしましょうか」
「はい!ハサミとかソル様にお願いしてきますね。ありがとうございますっ」
してもらうのはヴィルヘルムのはずなのだが、礼を言って奥に戻ろうとするリュクレスを、やんわりと引き寄せる。
「ソルなら先ほどの会話を聞いて奥に引き込みましたから、すぐハサミは届きますよ。君は私と一緒に応接間で待機です」
触れた手が冷たい。リュクレスが自分の事には無頓着な性質だと流石にヴィルヘルムも気が付いている。さっさと、暖かい部屋に放り込まなければ。
先ほどまでいた部屋に戻り、彼女の言うなりに、ソファに座る。
出来の良い家令は髪切りバサミと、鏡、そして大きめの紙を用意する。
「さて、私はどうすれば?」
「えっと、眼鏡を外して、膝の上にこの紙を広げて持っていてください」
言われるがまま、その通りにすると、少女はそっとヴィルヘルムの髪に触れた。
「眼も閉じててくださいね。髪が目に入ると痛いですから」
「はいはい」
なんだかいつもと逆で、二人して可笑しくなる。小さく笑いあってから、リュクレスはゆっくりとハサミを動かし始めた。
さく、さくと、小気味よく、髪を切る音だけが響き、丁寧だが、とても手際よく髪が落とされてゆく。
暫くして、そっと顔を払う小さな手の感触があって、ヴィルヘルムは瞼を上げた。
「終わりましたか?」
「はい。…どうですか?」
手鏡を渡され、覗き込めばさっぱりと短くなった前髪。自然に切りそろえられ、なるほど、得意と言っていたのは、事実の様だ。
下手なら下手でも構わなかったのだが、そうであれば自分からやるとはリュクレスの性格では言わないかとも思う。
「店で切ってもらうのと遜色ないですね。これからは君に頼みましょうか?」
冗談めかして言えば、それは嬉しそうに笑うから。
ヴィルヘルムは、このまま彼女がここにある生活を、一瞬思い浮かべてしまった。
2階の窓越しに、少女が小さく手を振っているのが見える。
「良い夢を」
声は聞こえずとも、伝わればいい。
ヴィルヘルムは軽く手を上げ彼女に答えると馬車に乗り込む。
己を含めて彼女を取り巻く現実は残酷だ。
それでも。
少しでも安穏に過ごしてほしいと。
それがとてもずるい願いだと、わかってはいたが。




