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混乱と恐慌と、自分の行く末の悍ましさに、侍女はとうとう意識を手放した。
崩れ落ちる女に、チャリオットは手を出しもしない。
オルフェルノの騎士たちは、誠実な紳士たちだ。悪女であろうとも、倒れるままにはせず、彼女を支えた。それを、少し残念に思いながら、まあいいかと思う。
どれだけ後悔しようとも、もう遅い。彼女は手を出してしまったのだから。
青くなった意識のない女の顔を見て、少しだけ溜飲が下がる。
種は仕込んだ。
この国で彼女たちを裁けないのであれば、自滅させてやればいい。
チャリオットのささやかな意趣返し。
公女の処遇に関して、オルフェルノは無干渉を貫くだろう。
そうすれば、この国に問題は残らず、かの国に暗黙の貸しが作れる。
彼女たちは生きたまま、自国に帰国し、反省のないあの公女は、それほど大きな罰を受けずに済むかもしれない。あの女すら、公女の請願で助命されてしまうのではないだろうか。何しろ、彼女は公女にとってなんとも都合の良い使用人なのだから。
だが。
あの女の胸に芽吹いた不信感と屈辱感はきっと、今までの関係を壊すに違いない。特別だと思っていた自分が、名すら覚えられていなかったというのは、彼女の自尊心をどれほど深く傷付けたか。
毒の知識を持つ魔法使い。
彼女の悪意の矛先が、この先、どこへ向くのか見ものだ。
(簡単に罰を受けて殺されちゃわないでね、フォロイのお姉さん。ちゃんと生きて苦しんでもらわなくちゃ、割に合わないから)
チャリオットはほくそ笑むと、意識のないまま、引きずられていく侍女を眺めやり、大きく伸びをした。
「あー、疲れた。俺、イオライネ城から戻ってきたばっかりなんだけどなー。将軍の横暴」
物騒な気配を消した伝令騎士は、いつものちゃらんぽらんな雰囲気に戻っていた。
ヘルムート領、南西の国境城塞イオライネ。
確かにそこから帰ってきたばかりなのは事実だろうけれど、自ら首を突っ込んだくせに、上司に対して酷い言い様である。そんなんだから、将軍に冷たくあしらわれるのではと、その場の誰もが思ったものの、口には出さない。
沈黙は金なり、と反面教師のようなチャリオットに、彼らはしっかりとそれを学んでいた。
伝令騎士はたった一人で戦場を駆け抜ける危険な仕事だ。
前線にいるよりも余程に危険と困難が付き纏う。
だからこそ能力が高くないとあっという間にあの世行きだ。
その仕事に従事し続けるチャリオットは見た目にそぐわない実力者のため、騎士団でも一目置かれる存在である。
しかしながら、その親しみやすい雰囲気に、気安く慕う者も多い。
彼らはチャリオットが口にした単語に食いついて、興味津々に尋ねた。
「あの、ハイナさん」
「何かなー、諸君」
「さっき言ってた、将軍の婚約者って…」
「ふふん。内緒ー。勝手に話すと絶対将軍に怒られるから。でも、多分だけど、そろそろ、公言するんじゃない?これ俺のって。将軍心狭いからなぁ」
にやりと笑って、けれど、一番教えて欲しいことはあえて明言を避けている。
だがしかし、それでも聞かされた内容に彼らは驚愕した。
(あの将軍が、これ、俺のっていうのか?)
(来る者拒まず、去る者追わずの、あの将軍が?)
しかし、恐ろしくて重ねて尋ねる気にはならない。実に、堅実に生きる騎士たちであった。
「将軍の花は可愛いぞ~。手出したら殺されるからやめたほうがいいけど」
「は、はあ…」
「まあ、楽しい事の前にひと問題片付けないとね。あの子に手を出されるのは俺も嫌だし」
「あの子って…ええと、可愛い女性なのですか?」
なんと聞けばいいのかわからず、騎士の一人は当たり障りのない言葉を選んでみた。
それでも、違和感は半端ではない。
あの容姿端麗な将軍の傍には同じように美麗な女性が佇むことが多かったから、あの子という言葉に副う存在が想像できないのだ。
わかっていて、伝令騎士はにんまりと笑った。
「可愛いよ~。将軍が目に入れても痛くないって思うくらい。いずれわかると思うから、楽しみに待ってな。それまでは王城内の警備、厳重にね」
「は、はい!承知しましたっ」
頭上に疑問符を飛び散らせる彼らを面白く思いながら、ひらひらと手を振ってチャリオットは上機嫌で外郭へと向かう。久々に自室でゆっくりできると、ふかふかの寝台に思いを馳せ、鼻歌まで歌い出だして今後の予定を計画立てる。
(昼前には将軍に一報をいれて、ひっさびさにお嬢さんにも会えるかなー?…馬鹿な公女様だよね。こんなことして嫌われるだけなのに)
そんな当たり前のことさえも、自分が特別だと思っている人は気が付けない。
(やっぱり、兄弟も3人もいれば、誰かしらダメな子もできるか。まあ、顔だけは可愛いから使いようはいくつかあるのかな?)
他国でここまでのことをしたら、いくら公女でも今までのように自由ではいられない。
彼女の恋は実らない。ゆくゆくは政略結婚の駒、それとも、王宮の奥で籠の鳥?
「ふふん、ざまーみろ」
チャリオットは明るい色の瞳で昏い笑みを浮かべた。
彼の大切な家族は、とある貴族に壊された。
公女はどこか、彼らに被るのだ。
一矢報いたところで、家族は帰ってこなかったけれど。
リュクレスを失うことは、絶対させない。
彼女はきっと明日も、和やかに、優しく笑ってくれるだろう。




