29
濃厚な朝霧が降りていた。
僅かにだが、東から差し込む朱色の朝焼けと夜が名残を残す紫紺の空色が、霧のカーテンの向こうに透けて見える。
朧で曖昧な世界が、白いままに明るくなってゆく。
霧の中に差し込んだ淡い乳白色の光が、違う明度と異なる色彩を霧に残して、幾重も重なり合って降りてくる。
ほんのりと空気を染め始めた朝の光に、中空を舞う白い結晶がきらきらと煌めき出した。
凍える氷上の城だからこその光景が、陽光の下、現れる。
美しい氷霧。
庭の樹木さえも白く覆われ、氷柱のように繊細な姿で並び立つ。
霧が揺れると、布のように波打つ光に照らされて、木々の長い影が雪の上に青い色を落とす。藍銅鉱の闇は潮が引くように去り、今このひと時、薄花色の薄闇が広がるだけ。
吐く息さえ凍りそうな、時すらも止まったかのような静けさの中を。
黒服の女が一人、歩いていた。
散策するような足取りではない。
その歩みには迷いがなく、真っ直ぐに庭の中を目的地へと向かっていた。
起きて、窓の外を見た彼女は天啓を見た。
見回りの兵士の視界すら奪う、濃い霧。
「ふ、ふ…」
白い息とともに、こぼれ落ちたのは笑み。
(これは神の思し召し。神も殿下の苦難に手を差し伸べたに違いないわ)
ならば、必ず成功するだろう。
イチイの植木が白い壁になっていた。
白花色一色の自然の造形が、まるで全てが氷雪で造られた芸術家の作品のように完成されてそこにある。だが、女にはそんな景色など興味がない。
彼女にとって、それはただの白い壁でしかなかった。
歩き続ける侍女の顔に喜色が浮かんだ。見覚えのある木々の配置。色彩は変われど、その位置は変わらない。
「そう、ここだわ」
足を止め、手で揺らして枝に積もる雪を払う。現れた、可愛らしい花。
女は厳かな気持ちで、その花に手を伸ばす。
花は、なんの抵抗もなく、手の中に落ちてきた。
「ああ、これで。願いは叶う」
悴んだ指先が、歓喜に震える。
手にした魔法の道具を、大切そうに両手に抱き、女はうっとりと達成感に酔いしれた。
その時。
「駄目ですよ。それは王家の持ち物。…そう言いましたよね?」
聞き覚えのある声が、彼女を陶酔の境地から現実へと引き戻した。
愕然として振り返る。
既視感に、眩暈がした。
まるであの日と同じように、そこには温厚そうな騎士が立っていたのだ。
違うのは、その格好。オルフェルノの詰襟の騎士の制服に、腕に掲げられた腕章。
鷹の徽章は…伝令騎士?
戸惑う侍女から視線を外さず、彼はにこにこと笑ったまま、腕を上げた。
潜んでいたのか、どこからともなく騎士たちが現れ、あっという間に周囲を取り囲まれる。
状況の変化について行けず、女は息を飲んだ。
中には、フメラシュの騎士さえいるではないか。
なんてこと。
おかしい。
あれほど用心深く、周りを気にして歩いていたのに。
さっき振り向いたときは、確かに誰もいなかった。
あの時は、偶然だと思った。しかし今は…。どくどくと心臓が早鐘を打つ。
嫌な予感が胸に去来する。
(誤魔化さなければ…)
「つい、出来心、ですわ。…とても可愛らしい花が、どうしても欲しくて。ただ、それだけだったのです」
悲しげに、後悔を滲ませて、愚かな好奇心だと訴えかける。
にっこりと茶目っ気さえ感じさせる男に、侍女は弱々しく微笑んだ。
ふと、彼が口元を歪めた。それは、今までとは違う、明らかな嘲笑。
「嫌だなー、誤魔化されると思ってるの?その花が、毒になるってちゃんと俺知ってるんだけどなー。ね、フォロイ家のお姉さん?それとも、黒伯爵の末裔って呼んだほうがいいかな?」
口調が砕けた途端、彼の雰囲気が鋭いものへと一変した。
どくりと、さらに大きく心臓が揺れ、言葉を失う。
…気がつかれていた…?
「な、ぜ…?」
「だって、貴女、その花を見て舌舐りせんばかりだったし。蛇みたいな目をしておいて、ただ可愛かっただけだなんて、嘘ばっかり」
「う、嘘などでは、決して…っ!」
慌てて首を振り、誤解だと懸命に告げる。
それを見て、彼は満足そうに微笑んだ。
「うん、そう言うと思ったんだよね。ふふん、だから、ちゃんと忠告しといたんだし。俺言ったよね?ここにある全ては王家のものだって。それを知っていて手を出したなら、当然、重罪は免れない。例外はないってことも伝えたはずだよ?」
はめられたのだと、侍女は男の意図にようやく気がつく。
最初から、確実に拘束するために、泳がされたのだ。
知らなかったという、言い逃れは許されない。
感覚の何処か遠くの方で、血の気が引いていく音がする。
「あ、ちなみにあの時もちゃんとあそこには警備がいたからね、君の死角に。俺との会話はちゃんと聞いている。でもって、今回はこんなにも沢山の騎士の前での現行犯だ。捕縛されても文句言えない。逃げ道なんてあげないよ」
「くっ…」
弱々しい演技など無駄だと悟る。忌々しさに騎士を睨みつけるが、そんな視線、痛くも痒くもないのだろう。さも可笑しそうに、彼は肩を揺らした。
「どうせ、将軍の婚約者に一服盛ろうとしたんだろうけど、詰が甘すぎ。冬狼の守る花に害をなそうとしたんだから、ただで済むと思わないでね?」
明るい青色の瞳が細められ、にぃと口元が弧を描く。
そして、
「素敵な牢屋にご招待ー!」
場違いなほど軽い口調で暢気な声がその場に響き、それを合図に、騎士たちは侍女を拘束するために動き出した。
何て人を馬鹿にした行動だろう。
屈辱に身を震わせた侍女は、罵倒の言葉を浴びせ掛けようと、勇んで口を開こうとした。
だが、その声は音になることなく。
男の苛烈なる瞳に、飲まれた。
ひっと…声が、出なくなる。
その身に走ったのは、戦慄。
明るい口調の裏で、外されない視線に、侍女の全身は凍りついた。
彼女は、自分は安全な所で人の命を弄んでいただけだった。遊び半分のその行為に、報いを受けることなど考えたこともない。
だが、今、向けられているのは、人を殺すことに躊躇いのない眼差しだ。
フメラシュは有能な公爵のお陰でここ数十年、戦争を経験していない。王宮に住まい、王女の下で安穏とした生活を過ごしていた侍女とって、それは無縁の代物。
この男は、笑顔のまま、人を殺せるに違いない。
そう思うと、向けられた殺気に怖気付き、侍女は叫び出したい衝動に駆られた。
この場から、逃げたい。逃げ出したい。怖い。
自分の命が危険に晒されるなど、全く持って考えたこともなかった。
恐慌状態になり始めた彼女には、何故こんなことになったのかわからない。
いくら公女に心酔していても、命を賭すほどの覚悟などない。公女のためと言いながら、彼女はただ単に、自分の悦楽のための行動を起こしていたに過ぎなかった。
だって、何をしたとしても、きっと、あの公女が守ってくれると思っていたから。
公女の侍女という立場が、守ってくれたから。
公女という存在がいたからこそ、彼女の悪質な行為は際限なく助長していったのだ。
(…!そ、そう、姫…っ)
はっと、希望を見出して、顔を上げる。からからになった喉から、必死で声を絞り出す。
「ま、待って。私はフメラシュ公女、アリューシャ殿下の侍女よっ。私に何かすれば、公女が…っ」
「名前も覚えていない貴女を、彼女が助けるとは思わないけど?」
「え」
騎士は、ことりと首を傾け、いとも簡単に、彼女の希望を断ち切った。
何を馬鹿な。
何年仕えていると思っているのだ。
…アリューシャ殿下が、私の名を、覚えていない?
そんなこと、有り得ない話だ。
勢いよく、首を振る。
それなのに、ぞわりと胸に覆いかぶさってくる不安が、心を揺さぶりかける。
……思い返せば、確かに。
一度たりとももアリューシャに名を呼ばれたことがない。
この、数年間、一度も。
彼女の甘い声音が、自分の名を紡いだのを聞いたことが、ない。
ぐらりと視界が揺れる。
「あれ?気が付いてなかったんだ。彼女の護衛騎士から聞いたことだから確かだよ?彼女にとって、侍女は使用人でしかない。貴方にとって平民が奴隷と変わらないようにね」
「っ!」
「因果応報ってやつだよね。フメラシュ公は馬鹿じゃない。問題を起こした侍女を助けるためにこの国との友好関係を崩そうとは思わないでしょ。そこまでの価値が貴女にはないもの。助けはないものと思ったほうが楽だよ?期待しても無駄だから、ね?」
彼はにこやかに、彼女の先行きを暗示する。
そんな、こんなはずではなかった。
こんな現実認められない。
「嘘よ…嘘っ。だって、さっきまで、あんなに…。この霧だって神の啓示っ。失敗なんてするはずないのよっ」
情けないほどに引き攣れた声で喚く侍女を、止めとばかりに、チャリオットは絶望へ突き落とす。
「はーん、そんなふうに思ってたんだ。神様は貴女たちの味方?ふふ、教えてあげようか、此処は湖上の城塞スヴェライエ。氷霧は珍しくもない。近衛騎士の制服の色が薄墨色なのは、この霧に隠れるため。霧が味方したのは俺たちに、だよ」
目眩は一段と酷くなり、足元の感覚が無くなった。
暗闇が襲い掛かり、視界は暗転する。
女は闇に転落した。




