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「相当腹を立てていたな、珍しく」
何でもかんでも面白おかしくしてしまうチャリオットという男にしては確かに物珍しい行動かもしれない。悪友の呟きを拾って、ヴィルヘルムは行儀悪く、肘を付いたままの右手で頬杖をついた。
「故郷を思い出すんだそうだ」
「ん?故郷」
「リュクレスを見ていると、当たり前の日常の光景を思い出すと言っていた。それから、これは憶測だが、教会で…空に帰らないでと泣いていたリュクレスの姿が自分に重なったのだろうな。その頃から、あいつはリュクレスを放っておけなくなったようだから」
実際にヴィルヘルム自身は見ていない。だが、崩れ落ちそうなほどに脆く、教会で泣いていた娘をチャリオットは見つめていたのだ。その細い後ろ姿に、彼が何を見たのかは想像するしかない。
チャリオットの身に起きたことはアルタフス公国内でのことで、ヴィルヘルムも詳しくは知らない。それでも、いくつか知り得た情報と希に零される彼の言葉から、彼が故郷で家族を失ったのは確かだ。
チャリオットに耳に残っているという、高らかに空に響く女の嘲笑。
涙の残滓が消えないうちに、彼はその場を逃げるように離れ、その道すがら子爵の老人に拾われた。
その男の養子となり、騎士となり。
この国へ潜入し、ヴィルヘルムに捕縛されて、彼は今、此処に居る。
自分のしたいことを見つけ、居場所を見つけ、この国に根を下ろした。
子供だったチャリオットにとって、その日の記憶は曖昧らしい。
けれど、ひとつだけ、鮮明に覚えていることがあるという。
それは、殺される前に父親が見せた決然とした眼差し。
ぼろぼろになるまで叩きのめされても、決して折れることなく、相手に向かって「糞喰らえだ」と言って、負けることなく笑ったその顔。
その気骨は、脳天気に見えるチャリオットの根底に根付いている。
「あいつもひとりで、家族を見送ったんだ。多分、自分の家族を奪った女と公女が同じに見えているのだろうな。実際、そのふたりの根本は同じなのだろう。自分のために、人は生きていると思い込んでいる。だから、なんの罪悪感も無く、自分のためなら、相手に対しどれほどでも残忍になれる。フェリージア王女に向かって、リュクレスを剥製にしたらどうかと、平気な顔で笑ってみせたからな」
人は獣ではない、当然ながら剥製になど出来ない。それに、剥製の瞳は硝子だ。
そんな知識も、あの公女にはない。
万が一、それが出来たとしても、そこにあるのは無残な死体でしかないではないか。
人の死を飾ろうなどとよく言えたものだ、と冷静に思えたのはそこまでだった。
無知を露呈した残酷な言葉がリュクレスに向けられたものであることに、ヴィルヘルムは一瞬、膨らんだ殺意を殺すのを忘れた。
隣に、クラウス公子がいなかったならば、その場で殺すことを躊躇いはしなかっただろう。
「最悪だな。…胸糞悪くなってきた。それで慈愛に満ちた優しい公女とは、笑わせる」
ベルンハルトが呻くように、押し殺した声を上げた。
「腹が立つ域はもう、通り過ぎた。あれは敵だ。二度とこの国に踏み入れさせる気はない。そのためには、クラウス公子を納得させる必要がある。…自慢の妹の化けの皮が剥がれるのを見て、彼は何を思うかな?」
穏便にこの国から帰すとヴィルヘルムは言いながら、しかし、彼女を平穏な生活に返す気はさらさらない。
公女の慈愛や優しさが偽りの信頼の上に成り立っていることはもうわかっている。彼女に傾倒している狂信者を排除して、裸にしてしまえば、その薄っぺらい満足感に隠された本性が顔を出すだろう。そのとき、あの公女を取り巻く環境は劇的に変化するに違いない。
殺せないなら、壊してしまえばいい。
壊すのは自分でなくても構わない。二度と、リュクレスに干渉出来なくしてしまえるならそれでいい。
灰色の瞳に燃えるような怒りを湛え、ヴィルヘルムは酷薄な笑みを浮かべた。
…本音を言えば、今でもまだ、公女を殺してしまいたい。
彼女を消して、その罪をフメラシュの騎士になすりつけてしまえばいいのだ。ヴィルヘルムにとって、それは容易い。
そして、誰にも触れさせはしないよう、リュクレスを腕の中に囲い、自分のこの手で守りたい。
他の誰かになどではなく、ヴィルヘルムこそが。
だが、他でもないリュクレスが、ただの男に成り下がることを止める。
スヴェライエの中で他国の公女が殺されたとなれば、オルフェルノの対面に傷が付く。
そして、ヴィルヘルムが、仕事よりもリュクレスを優先したとなれば、王がそれを許そうとも、彼女は悲しく思うだろう。
国の守護者である将軍を、誰よりも尊敬し、信頼しているから。
ヴィルヘルムは、将軍として、彼女の恋人として。
その期待に、答えて見せようと思うのだ。




