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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
一部  恩返し
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箱庭の日常2

日が傾き、西の空に橙色の光が滲み始める。

風が冷たさを増していた。

少し前まで、外で本を読んでいた少女も家令に促されて屋敷の中に戻ったようだ。

午後からもその場を一歩も動かず、護衛の仕事に徹していたコレクトは、緊張感のないこの穏やかさにどうも集中力が切れ気味だった。

そうなると浮かんでくるのは、今最も気にしている記念日の事。

「うーん、どうしたもんか」

「何かあるのか?」

突然声を掛けられ、驚きに背筋を伸ばす。振りかえれば、上司であるリーンハルトが立っていた。独り言をいうコレクトを不審そうに見ている。

リーンハルトとしては、巡回の途中にぼんやりした様子の同僚を叱るつもりで近づいたのだが、確かに穏やかな日常、常に気を張っているのも集中力に問題が出る。適度な息抜きも必要かと、考え直して声をかけたのだが。

「いや、実はもうすぐ結婚記念日なんだ。去年は近衛騎士になりたてで、結婚したものの指輪も渡せなかったから。記念日に指輪準備して渡そうなんてちょっと考えてたんだよな」

「…お前、けっこう乙女だな」

「うるさい。妻を喜ばせたいと思って何が悪い」

「…まあ、悪くはないが」

どうやら、惚気か。

少し顔を赤くするコレクトに、リーンハルトは少し呆れた顔をした。

「ちなみに、指輪は準備したのか?」

「…これからの予定だ」

(やっぱりな)

思った通りであったことに、リーンハルトは素直にため息を吐いた。

近衛師団の二人は、同い年の騎士学校の同期である。

リーンハルトは卒業直後冬狼将軍の配下に所属し、国境オスカリ砦での戦いを経て近衛師団に所属したが、コレクトは両親の頼みに一度は実家をついで商人となった。人の好い青年には商売は向いておらず、5年の後さすがに両親も諦め騎士の道に戻ってきた変わり種だ。

だが、腕が立ち、信頼に値する男であるため、3年経たずに精鋭部隊である近衛師団に入るまでに至っている。

信頼に足る人格だが、器用でも要領のいい男でもない。

一人前の騎士になるまで結婚は出来ないと恋人に告げ、7年も待たせた挙句、周囲の心配などどこ吹く風の勢いで、近衛師団に入隊したその日にプロポーズをしに行った男だ。

予定調和、下準備などという言葉とは無縁であることは間違いない。

そんな男が、「結婚記念日に結婚指輪」などとありえない台詞を吐くから驚いたが、やはり抜かってばっかりだ。

「ちなみに結婚記念日はいつだった?」

「明後日だ」

「…お前、馬鹿だろう」

馬鹿だと思ってはいたが、やはり、馬鹿だ。

この調子では指輪を買う店さえ、調べていないに違いない。

かさねて、明後日では代わりの調整も都合はつくまい。

二人は現在近衛第2師団に所属し、ロシオ師団長の元、リーンハルトが副団長を務めている。コレクトがもっと早くに相談してくれていたのなら、その日1日休みを調整するくらいなんとかできたのだ。

「なんでもっと早くに言わない」

同期のよしみでそのくらいのことは協力したのに。

そんな言外の言葉を読み取って、コレクトが驚いたように言う。

「なんだ、調整できたのか?しばらく休みはもらえないと思っていたのに」

「基本的には、な。だが、お前みたいなろくでなしを一途に思い続けた奥さんを思えば、それくらいの協力は惜しまなかったよ」

7年も待った結婚。初めての結婚記念日に夫は仕事で不在だなんて、不憫すぎる。

「…それは、すまん」

謝る相手が違うだろう、そう言ってリーンハルトはコレクトの肩を叩いた。

「まあ、当日は無理でも、近日中に一度休みに出来るよう調整する。それまでには指輪を買う店ぐらいは調べておけよ」

情けない顔で礼を言うコレクトに、肩を竦めてそれを受けとるとリーンハルトはその場を離れ、巡回に戻った。


…彼らの頭の上。

屋敷の応接間の窓が少し開いていた。

彼らは気が付かなかった。

冷たい風に、その窓を閉めようとリュクレスが近づいたことも。

風に乗って彼らの会話がリュクレスの耳に届いてしまったことも。

意図せぬ盗み聞きに、リュクレスは困惑と罪悪感を抱えながら、…静かにその場に蹲っていたことも。





部屋に戻っていたリュクレスは、小さな黒板に文字を書いていた。

一文字書いては消して、また一文字。

まだぎこちなさを残す丁寧な文字。

文字の練習はこの屋敷に来てからリュクレスが日課にしていることだった。

孤児であるリュクレスにとって紙は高級品過ぎて、文字の練習などに使うなんてもったいない真似は出来ず、道具は自作だ。小さな黒い板は、周囲の森の木の黒い幹から削り出し平たくしたもので、そこに書き込むペンは庭に転がっていた柔らかめの白い石。一文字ずつ書く程度であれば、板は小さくても不自由なく、石も大小さまざまに転がっているから、小さくなったら交換している。

修道院では読むことはあっても、書くことはなかった。部屋でじっとしている必要があるなら、その時間を使って自分のやってみたかったことをしてみようと、思い立って始めたものだ。自分の名前や、修道院の皆の名前、そしてこの屋敷に居る人々の名前を書けるようになってきたのが嬉しい。

いち段落して顔を上げれば、窓の外はすでに暗くなっていた。

気が付かないうちにやって来たマリアネラが白く汚れた手を清めるための濡れた布を差し出す。お礼を言ってリュクレスが受け取ると、彼女はいつもの様に鮮やかな笑みを浮かべる。リュクレスの代わりに質素な黒板とペン代わりの石を、引出しに丁寧に仕舞い、少女に手を差し伸べた。

「リュクレス様、お客様ですよ。残念ながら愛しい君ではあられないですけれど」

その手を取って立ち上がる。立ち上がる際、よく躓きそうになるリュクレスを見かねて、いつからか当たり前にされるようになった行動だ。

手を引きながら、魅力的な動作でウインクして彼女を応接間まで案内する。

ノックをして、3秒。

ゆっくりと開かれた扉の向こうには、ソファに座ったヴィルヘルムがいる。

リュクレスのエスコートがマリアネラからソルに代わり、室内には入ることなくマリアネラは一礼し部屋へ戻る。ソルはリュクレスをソファへと促し、閉める扉越しにマリアネラの背中を見送った。完全に扉を閉めると、扉の前にそのまま控える。

リュクレスはヴィルヘルムの真向かいに座ると、心配そうな顔をして、小さな声で囁いた。

「今日はお顔を隠さなくて大丈夫なんですか?」

彼女の心配に、ヴィルヘルムは穏やかに頷いた。

「心配は無用です。今日は君を王に献上した悪徳国王補佐としてやって来ていますから。それに、ソルがいるときには、普通に話して大丈夫ですよ。ソルはとても耳がいい。盗聴されていればすぐ気が付きます」

「はあ」

ソル様万能すぎます。

思わず後ろを振り向けは、ソルが事もなげに頷いた。ぐるりと首をめぐらして、リュクレスはヴィルヘルムに視線を戻す。

悪徳なんて言ってみせるヴィルヘルムはとてもにこやかだ。

…その笑顔が不安になります。と素直に口には出来ず恐る恐る尋ねてみる。

「あ、あの…なにか、あったんですか?」

それとも何かしなければならないことが出来たのでしょうか?

「ああ、特に君になにか、というわけではないですよ。今日は、護衛の騎士に報告を聞きに来ただけです。あとは、そうですね…一緒に食事をしに来ました」

思いもかけないその言葉に、ぽかんとして、それから零れ落ちた歓喜の声。慌てて口に手をやって声を抑える。

リュクレスの喜び様に少し驚いた様な顔をしたヴィルヘルムだったが、少しして口元を緩めた。表情もとても柔らかくて、その灰色の瞳に、リュクレスはきゅうと胸が痛くなる。

沈黙が違和感を与える前に、何か言わなければと思うけれど、声にはならない。

「今日の夕食はリュクレス様がとってきた野菜を使ったものの様ですよ。デザートには白い花を添えて。アルバの渾身の力作だそうです。楽しみにしててください」

ソルがさり気なく助けを入れてから部屋を出てゆく。食堂へ向かったのだろう。ヴィルヘルムが立ち上がり、慌ててリュクレスも立ち上がる。踏み出す前に、すでに自分の体勢がバランスが取れていないことを悟る。ソファへ手を付こうとして、強い力で身体を引き寄せられた。

気が付けば、ソファの脇に立つヴィルヘルムの腕の中に、リュクレスは居た。

「相変わらず、危なっかしいですね」

旋毛に落ちる声は、戒めるものにしては柔らかく笑みを含んでいる。

ヴィルヘルムの腕の中はいつも暖かく、安心する。

けれど、どうしてだろう。

心のどこかで逃げ出したくなるような、怖気づいて居竦むような思いも交差する。

どうしていいのかわからなくなって、助けを求めるようにただ、ヴィルヘルムを見上げた。

彼はいつもの様にリュクレスの頭を撫で、けれど、いつもと違って苦いものを含んだ声で「その顔はずるいな」とぼやいて、身体を離す。

「焦らなくていい。君は君のペースで動けばいいんです」

自分の事なのに自分で制御できない想いに戸惑いながらも、リュクレスはヴィルヘルムの言葉に頷いた。





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