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「お話は、公女殿下のことですね?」
ヴィルヘルムは王妃の問い掛けに頷くと、彼は改めて其処にいる全員に向けて話し始めた。
「はい。知っているかとは思いますが、現在こちらにフメラシュの公子、公女兄妹が滞在されています。目的は今後の交易条件の交渉、そして、友好を深めるためというのが表向き。裏に公女の縁談があります」
「縁談ですか…あれ、でも、陛下の御兄弟って静養に入ったアランバード王弟殿下以外いましたっけ?」
エステルが首をかしげる。
「いえ、皆女性ばかりで男性はいません。…相手は王族ではなく、私です」
「ええっ!」
声を出して驚いたのはエステルだけだった。ルクレツィアは既に知っていたことだし、クランティアは大体予想がついたから驚きはしなかった。…リュクレスも同じように予想していたのだろう。冷静さは失っていないが、それでも小さく息を飲んで、ぎゅっと耐えるように膝の上で拳を作る。きゅうと、眉がひそめられるのを見下ろして、ヴィルヘルムは小さな手を片手で包んだ。
不安にさせているのは縁談の話か、それとも、不意に出た王弟殿下の名前か。
ヴィルヘルムの中に不安が差す。
憂慮したのは半年以上前のあの事件のことを彼女が思い出すことだった。
リュクレスには王暗殺未遂事件の顛末を伝えてはいない。混乱していたし、怪我もしていた。これ以上心を傷つけたくなくて、首謀者が捕まり、王が暗殺される危機はなくなったと結果を知らせるに止めたのだ。だから首謀者が王弟アランバードであることも、目の見えないリュクレスに乱暴を働こうとした相手が彼であることも、彼女は知らない。彼の幽閉はエステルが言うように表向き静養ということになっている。繋がるはずかないと思いながらも、もしかしてという一抹の不安は拭えないのは、ヴィルヘルムたちが駆けつける前に何があったのか詳しいことまではわからないからだ。名を名乗るような愚かな真似はしていないと思うが、万が一にもその名前を覚えていて過去の辛い記憶を思い出させたらと思うと心が冷たくなる。
だが、心配は杞憂に終わったらしい。
「縁談…を、う、受けるんですか…?」
おずおずと不安そうに尋ねられ、男は口元を緩めた。
「受けてもいいのですか…と、嘘ですよ。そんな気はない。そもそも、お断りをしていることを知っているでしょう?そんな目で睨まないでください、王妃」
「私は知っていますとも。リュシーを試して喜ぶなんて、最低です」
「あまりに可愛いので、つい」
「つい、って将軍さらにサイテー」
段々女性陣を敵に回している気がするな。
そんな風に苦笑いをして、ただこれ以上は笑ってもいられないことになると、経験上知ったばかりのヴィルヘルムは、素直に頭を下げた。
「リュクレス、許してください。そんなに心配そうな顔をしなくても、すでに縁談なら断ってあります。王もそれを許可している。ただ、問題がひとつ。公女自身が諦めていない」
「この縁談は、将軍に一目惚れした公女殿下の希望なのですって」
ルクレツィアが、言い添えた。ヴィルヘルムが頷く。
「公女は君が私の婚約者だと調べ上げたようです。今後、君に対してどんな行動に出るのかわからない。できる限り一人にならないで欲しい」
「なんだか身の危険があるような言い方ですね?相手はあの公女様でしょう?」
相手は公女。ふわふわと砂糖菓子のようなお姫様。彼女と危険が上手く繋がらず、エステルは怪訝な顔をした。
虫を殺すことすら厭いそうな姫が何をするというのか。
ヴィルヘルムは皮肉げに口の端を釣り上げて、つい先日起こったことを彼女達に知らせる。
「先だって、侍女長の部屋が荒らされました。全ての侍女の個人情報を管理しているのは侍女長です。彼女の厳重な管理お陰で事なきを得ましたが…犯人は公女の手の者に唆された侍女の一人でした。多分リュクレスが婚約者であると裏付けを取ろうとしたのでしょう」
クランティアが難しい顔をヴィルヘルムに向けた。
「…そんな人なら、それこそ、地位と権力で圧力を掛けてきたりしませんか?どうせ、フメラシュ側はその侍女を焚きつけたことも、知らぬ存ぜぬで通しているのでしょう?」
「そのとおりです。言葉だけでは証拠にならない。追求は困難だ。ですが、我が国とフメラュ公国は元より対等の立場。公女を娶れと命じられる謂れは無いのです。公女がどれほど結婚を望もうと、当然ながらこちらにも選択する権利がある。賢明なフメラシュ公が圧力を掛けてくるような暴挙に出るとも思えませんが、万が一そういう事態になるならばそれはそれでかまいません。こちらにも策はあります。結果、非難されるのはフメラシュの方だ」
「流石は将軍、何事にも抜かりはありませんか」
「そうでなければ守るべきものを守れない。それでは意味がないのです。…噂に聞くほど公女は慈愛に満ちた人間ではないようですから」
「え、そうですか?侍女にも騎士にも誰にでも隔たりなく優しくしてくれていますよ?」
エステルは眉を顰めて、首をひねった。話を聞いても、実際に接した公女は優しい少女だったから、どうしても違和感が拭えない。盗難の件も周りの人物が公女のためを思って、勇み足でしてしまっただけなのでは?と、どこか好意的に考えてしまう。
ヴィルヘルムは優しく笑った。眼鏡に隠されて、瞳の中に不穏な光が揺らめく。
「そうでしょうね。公女は誰にでも隔たりなく、優しくしてあげている。彼女の優しさは優越感の上で成り立つものだ。本当の慈しみなどではない。わかりやすく言いましょうか。権力を笠にきて婚約者のいる男を奪おうとする女性が、本当に慈愛に満ちた誠実な女性であると思いますか?」
「あ…」
「私が婚約していることを相手方は知っている。破談では外聞が悪いと、公子は縁談自体を取り下げました。それにも関わらず、彼女は諦めるどころか、婚約者の正体を突き止めた。次に何をしようとしているのか、予想はつくでしょう?」
「もしかして、リュクレス自身に身を引くよう説得する気…ですか?」
優しいと思っていた公女が壊そうとしているものはリュクレスの幸せだと、エステルはこの時になってようやく理解する。公女への印象がそれだけで180度反転した。
「彼女にとって、それが最も手っ取り早いでしょう。リュクレス、どうか、彼女が目の前に現れたら、とにかく逃げてください」
ヴィルヘルムはエステルからリュクレスへと視線を流した。
「で、でも…」
「彼女は君を傷つける言葉しか放たないはずだ。そんな言葉を聞く必要はありません」
誹謗中傷や差別するような侮蔑の言葉に今までだって晒されてきたリュクレスに、これ以上その手の言葉を聞かせたくもないし、傷ついて欲しくもない。
「わかりました。頑張って、逃げ出します」
声をかけられれば、それに返事をしてしまう。痛い言葉を投げつけられると分かっていても、人の話を聞こうとすることはリュクレスの中に根付いてしまっていて、それを翻すのはとても難しい。
それでも、ヴィルヘルムが守ろうとしてくれているのがわかるから。
リュクレスは真剣な顔をして頷き、それから嬉しそうにはにかんだ。
「ヴィルヘルム様ありがとう」
ヴィルヘルムから、鋭利さが不意に和らぐ。
リュクレスの手を持ち上げると、緩く結ばれた拳のその指先に唇を触れさせた。
「泣き顔も可愛らしいけれど、やはり君は笑顔が似合うな」
熱さえも感じられそうな距離で、真っ直ぐに見つめられて、じわりリュクレスの頬が上気する。小さく開いた唇からは意味を持たない言葉が小さく零れた。
「ねえ、アル様より、将軍の方が時も、場所も、状況さえ!全く、選んでいないと思うのですけれど?」
二人の世界に突入した彼らに、王妃はぷくっと可愛らしく頬を膨らませた。
クランティアは同意せず、とても冷静に、「どっちもどっちです」と言い切った。
エステルが、苦笑する。ただし、目は笑っていない。
「ね、ルクレツィア様。見ているとこそばゆくなるでしょう?目に毒でしょう?私たちの気持ち、少しはわかってもらえました?」
しみじみと諭されるように、自分たちもああなのだと暗に言われてしまえば。
なんだか無性に恥ずかしくなって、ルクレツィアは沈黙するしかなくなった。
「まあ、と、に、か、く。公女殿下が帰国されるまで、リュクレスの身辺に気をつけていればよろしいのですね?」
最も冷静なクランティアがわざとらしく咳払いをして、ぴしゃりと不埒な男の行動を制止する。
なし崩しでリュクレスに触れようとしていたヴィルヘルムは侍女の的確な行動に、致し方なく忍耐を発動させた。
人前だったことを思い出して、真っ赤になって顔を伏せるリュクレスが愛おしくて、手を離すのが惜しい。未練がましく頬をさらりと撫でると、仕方なしに彼女から離れた。
そして、ようやくクランティアに向き直り、真面目な顔に戻って首肯する。
「ええ。この子は見た目によらず、突飛もないことをするので心配が絶えません」
「なんだか、とってもお転婆みたいな言い方ですね」
「おや、知りませんでしたか?とても、お転婆で無茶をする子なのですよ?ね?リュクレス?」
「そ、そんなことは…」
「おや、ないと言いますか?私をあれだけ何度も心配させておいて?」
「うう…」
否定しきれないリュクレスは、意地悪な眼差しに小さく呻くのが精一杯だ。それを楽しげに見つめて、性懲りもなく手を伸ばそうとする男に呆れた王妃の声が届いた。
「そんなところも好きなくせに」
余りと言えば余りのタイミングに、ヴィルヘルムは今度こそ、その手を下ろさざるを得なかった。
思わずこぼれ落ちた、苦い苦い笑みはヴィルヘルムの隠すことのない心情そのもの。
だが、好きかと聞かれれば、肯定以外浮かばない。
「それは、もちろん。事勿れ主義でなく、誰かの為に頑張ってしまう彼女をとても好ましいと思っていますよ。けれど、傷ついて欲しくないのも事実なのです。どうか、守って頂けますか?」
ヴィルヘルムの真剣な請願にエステルとクランティアは顔を合わせて、しっかりと首を縦に振った。
「もちろんですっ」
「右に同じで」
迷うこともなく返された侍女ふたりの答えに、リュクレスは目を潤ませ、ヴィルヘルムは静かに微笑み、礼を言った。




