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「エステル、落ち着いた?」
「はいぃ…す、みません…」
「休んできてもいいのよ?」
鼻の頭を赤くしたエステルに、ルクレツィアは苦笑しながらそう言った。
「とんでもないですよ、それに、一人だけ除け者なんて嫌ですから」
あれだけ混乱していたのに、気がついていたのか、とヴィルヘルムは少しだけ驚く。
「リュクレスを送ってきただけにしては、将軍もルクレツィア様もどこか変ですもの。何か話があるんですよね?」
「エステルの本能侮りがたし」
ぼそりと、呆れているのか感心しているのかわからない様子で、クランティアが呟く。
ぐしぐしと、鼻を啜るエステルを隣に招いて座らせると、ルクレツィアはクランティアにも同じようにソファに座るよう伝えた。
「貴女が座ってくれないと、この子も遠慮して座れません。どうか座ってもらえませんか?」
遠慮する侍女に、将軍が言葉を重ねるからクランティアは渋々その言葉に従った。それから、将軍は向かい合うソファに手を引いてリュクレスを座らせる。そして、当然のように彼女の隣に腰を下ろした。
その距離があまりにも。
(…近い)
向かいにいる3人は口に出さずとも、同じことを思った。
「将軍、恋人であっても、もう少し節度持って距離を保ったらどうです?リュシーも、その距離が当たり前ではないのですからね?絶対、騙されちゃ駄目よ?」
「そ、そうなんですか…?」
困惑に、眉尻を下げ見上げるリュクレスに、ヴィルヘルムは悲しげに微笑む。
「嫌、でしたか?」
その距離も、その温度も、もうとっくに騙され続けたリュクレスの心が許していると知っていて、そうやって聞くのは彼が甘えているからだ。
娘はヴィルヘルム隣で首を振った。彼が腕を伸ばせば腕の中になってしまうその距離で、赤みの差した顔を上げ、困った様子を残しながらも、顔を綻ばせる。
「恥ずかしくて、ドキドキするのに。ヴィルヘルム様の側はとっても温かいから…心地よくて、安心できて…大好きです」
恋をする娘の気恥ずかしげな淡い微笑みに、その場の全員が固まった。
抱きしめられる距離で、抱きしめることのできないヴィルヘルムにとっては生殺しのような愛しいそれに、彼は観念したように、囁いた。
「私の腕の中は、安心できますか?」
「はい」
淡いのに儚さはない。咲いたばかりの花のように瑞々しく美しいその笑顔に、ルクレツィアたちは、恋する娘の破壊力にただただ、感服するしかない。
「…将軍も、振り回されることがあるのね」
王妃の少し驚いた声に、彼は苦笑する。
「しょっちゅうですけどね。まあ、…それは、多分、王も同じようなものなのではないですか?」
揶揄う口調に、ルクレツィアは顔を赤くして言い淀む。
「わ、私たちは、…夫婦ですからっ」
「それならば、私たちも婚約者です。赤の他人ではない。想い合う相手に触れたいと思うのは当然でしょう?」
平然として赤面するようなことを言ってのける男に、エステルは目を丸くした。
まさかそこに転帰させるとは思わなかった。さらりとその距離を正当化させてみせた将軍に、エステルは呆れるよりも感動する。
「うわぁ…将軍って…」
「なんでしょう?」
「リュクレスに、もしかしなくても、めろめろですか」
大きな目を輝かせて興味津々なエステルにヴィルヘルムは苦笑した。そして、態と彼女の言葉のままそれを返す。
「ふふ。そうですね。…めろめろ、ですよ」
ね、と耳に吐息を吹き込まれ、あわあわと、首を竦める友人があまりにも純情だから、ルクレツィアにはやっぱり彼女が悪い大人に騙されているようにしか見えない。
怒ったような王妃の視線に、ヴィルヘルムはなんだか可笑しくなった。
ヴィルヘルムもルクレツィアも感情など上手に隠して、上辺だけ笑顔で固めている類の人間だったのに、今そんな姿はどこにもないのだから、笑うしかないだろう。
以前であれば人質としてみていた女性を、ヴィルヘルムも今はルクレツィアという女性なのだと認識してしまった。多分、以前のように容易く見捨てることは出来ない。
「私も貴女も、随分とリュクレスに変えられてしまいましたね」
「「え?」」
リュクレスと、ルクレツィアの声が重なった。
変えられたと言われた方も、変えたと言われた方も、戸惑い、見つめ合う。
安心させるように、ヴィルヘルムはやんわりと微笑んだ。
「とても良い方向に、だと思います。笑顔で全てを隠してしまうことのなくなった王妃はとても魅力的です。リュクレスの次に、ですが」
「ヴィルヘルム様、私、からかわれていますか…?」
リュクレスが情けない顔をして訊ねるから、ヴィルヘルムは今度こそ声を出して笑った。
「とんでもない。私を怖がっていた王妃がここまで私に言いたいことを言うようになったのは、君がきっかけでしょう。そして、きっと私も変わったからこそ、こうして此処で叱られているのだと思いますよ?」
部屋付きの侍女たちも将軍と王妃の間にあった緊迫感は今でも覚えている。
確かに、その緊張も彼の道具を見るような酷薄な瞳もどちらも存在しないのだから、それは事実なのだろう。
「なんだか私、色々と失礼なことを言われているような気がするのですけれど…リュクレスに免じて不問にしましょう」
(…それがわかっていての言葉なのでしょうけれど)
王妃に向かって、臣下を怖がっているとか、それが事実であっても失礼な話だ。足元を掬われるような本音をわざわざ口にする男ではないから、それを話すということは彼が王妃を信頼したからなのだろう。
将軍をみれば彼は、ルクレツィアにも優しい瞳を向けていた。
ようやく、親友の大切な妻だと認めてもらえたのかもしれない。
そして、彼の大切な恋人の友人であると。
彼の言葉に、確かにお互いに変わったのだと実感をしつつ、ルクレツィアはとりあえず、話を戻すことにした。
変化するきっかけを作ってくれた優しい友人のために。




