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計算高い狼の周到な罠に捕まった娘は、というと。
まだ、その腕の中から逃れられずにいた。
いつの間にか横抱きにされた身体は、膝の上から下ろしてもらえないままだ。
食べられているかのような口づけに、息も絶え絶えになってしまったリュクレスは、力の抜けてしまった身体をくったりとヴィルヘルムの胸に預け、少しずつ呼吸を整える。
大きな手のひらに優しく背中を撫でられ、労わるような触れ合いに宥められながら、膝の上でその懐に抱かれた自分が、なんだか幼い子供に戻ったようだと思う。
まだ霞がかかったようにぼんやりとした頭で、彼を上目遣いにこっそりと仰ぎ見た。
見蕩れるほど綺麗で、凛々しい、大人の男の人だ。
落ち着いた色の瞳に、優しい笑みを湛えた口元。
傍にいるととても安心する恋人を見つめて、心の中で首を捻った。
腑に落ちないというか、不思議というか。
(やっぱり、とっても満腹そう、なんだけどなぁ…)
どう見たって、お食事前というより、食事後の満たされた狼さんなのだ。
いっぱい食べて満足そうに見えるのに。
そんな疑問を口にしたならば、きっとまた、頭からがぶがぶと食べられてしまう気がして、リュクレスは賢明にも沈黙を守る。
だけど、少しだけ可笑しくなって口元が緩んだ。
温かな体温にすりすりと頬を寄せる。触れ合う所から響く規則正しい心音が、リュクレスのそれに重なった。
それが心地よくて、瞼を閉じる。
眠ってしまうと、思ったのか。
穏やかな沈黙は、ヴィルヘルムの静かな声で、やんわりと断ち切られた。
「フェリージア王女から聞きました。君をとても不安にさせてしまっていたのですね」
「え…?」
目を開けてリュクレスは、ヴィルヘルムを見上げた。
彼に最後のひと押しをしたのは、フェリージアとの会話だったそうだ。
「将軍、あの子に何かした?」
「何か、とは?」
「…泣きそうな顔をして、でも、絶対泣かないし、弱音も吐かないの。あんな顔させるのが貴方ならば、恋人失格よ。許さないわ」
フェリージアは怒ってというよりは、とても真剣な顔をして、ヴィルヘルムを非難したという。
「君、が。…静かに、声もなく涙するのを思い出して、たまらなくなったよ」
それはヴィルヘルムにとって胸に痛みをもたらす記憶なのか。
彼はほろ苦い顔をして微笑んだ。
「泣かないでほしいとは思わない。我慢ばかりする君を初めて泣かせたあの時から、その思いは変わらない。我慢するくらいならば、泣けばいい」
低い声がリュクレスを包み込み、その吐息が柔らかく空気を揺らす。
「ただ。…泣くならば俺の前にして欲しい」
知らないところで泣かれるのは嫌だと、彼は言った。
「だが、泣くことさえ我慢しているのならば。…そんな我慢させるつもりはないと、以前君に言っただろう?」
だから、待ち伏せて宮殿内の一室に引きずり込むという強引な手段に出たのだと。
その行為自体は不謹慎で、男として褒められたものではないかもしれないが、それを計画的に実行したヴィルヘルムに罪悪感などあろうはずがない。
リュクレスに対してだけ、彼は愚直なほど、ただの男としての感情を隠さない。
紳士であることよりも、我儘に、自分の欲求を貫き通すことを選ぶ。
それは、彼の言うところの甘えなのかもしれない。
遠く隔たれ飾り立てられた感情ではなく、とても身近で、わかりやすくありきたりな感情。
駆け引きや、遠慮などない、赤裸々な愛情でリュクレスを求める男に。
自分への甘えを初めて実感して、全身に甘い痺れが走った。
胸が、きゅんとする。
(…とても素敵な、大人の男の人、なのに)
ヴィルヘルムが、「この時間を終わらせることが惜しいな」と、そう囁くから。
思いもかけず、可愛いと、思ってしまった。
それに驚いて動揺する。なんだか無性に恥ずかしくなって、…顔が熱くなる。
もう焦燥感のようなものは消えて、いつもの穏やかさで微笑ヴィルヘルムが、まだ頬に赤みを残すリュクレスを膝の上から慎重に下ろす。
だいぶ時間も経ったおかげか、砕けた腰はさすがに立ち直っていた。
自分の感情におろおろしながらも、へたり込むような情けないことにならずに済んだリュクレスが、ほっと胸をなで下ろすと、にっこりと人の悪い笑みを浮かべたヴィルヘルムがその手を取った。
「残念だな。歩けなければ、私が運んでいこうとか思っていたのに」
その声音が冗談には聞こえなくて、リュクレスはまた顔を赤く染めて、逃げるように一歩後ろに下がる。
「だ、大丈夫ですっ」
腰の引けたリュクレスは、それでも、繋がれた手を離せない。
剣を握るヴィルヘルムの硬い手は、たくさんの人を守る手だ。
でも、今は、リュクレスだけに差し出されている。
それが、嬉しい。
嬉しいから、手が離せない。離したくないのに。
「君は俺を、甘やかしてばかりだな」
繋がった手を見つめたヴィルヘルムが笑う。
その手に繋がれたのは想い。ヴィルヘルムが、からかいに隠した想いは、ちゃんとリュクレスに届いている。
だから。
手を繋いでいたいのは、離したくないのはリュクレスも一緒なのだと、そう告げれば。
…困ったような微笑みが、やんわりと返った。
その微笑みの意味がわからないのに、ぞくりと背筋を這う感覚は、部屋に引きずり込まれたときに感じたものと同じもの。
だから、リュクレスは問い返すことが出来なかった。
どこか熱を帯び始めた空気を、ヴィルヘルムがふと笑って霧散させると、手を伸ばしてリュクレスの乱した衣服を整え始める。
ボタンを留め、リュクレスと片手を繋いだままの器用な手がリボンを結ぶ。
「王妃のところへ行くところだったのでしょう?随分と長く君を拘束してしまいましたから、怒られてしまうかな?私からも王妃に謝罪をさせてくださいね」
息を詰めて、男の指先を追っていたリュクレスは、びっくりして目を丸くすると、慌てて両手を振った。
「えっ。そんなっ、元はといえば私が逃げ回っていたのが悪いんですし…、ちゃんと、王妃様には自分で謝りますから、大丈夫ですよ?」
「話もあるのです。ですが、何よりも、今は君の傍にいたい。どうか、頷いて」
ヴィルヘルムが謝るようなことではないのだと、リュクレスは思うのに。けれど、淡い微笑みが秀麗な顔を飾り、優しい言葉が願うように耳に落とされると、それ以上遠慮することは出来なくなる。
男の瞳は作ったものではない柔らかな、愛情が溢れている。
さっきまでの嵐のような、熱の篭ったものとも違う、彼の体温のように温かい感情。
時に強引に、我儘にリュクレスの心を求めるのに。
リュクレスは、惜しむことなく降り注ぐその想いに目が潤んだ。
じんわりと胸がいっぱいになって、心の中で優しい想いが綺麗な音を立てて溢れ出す。
瞬きに揺れた睫毛に弾かれて、ぽたりと、涙がこぼれ落ちた。
それは悲しい感情ではなくて。天気雨のように、雲間からの明るい陽光をリュクレスにもたらすもの。
誰かに嫉妬して、劣等感と初めて心に生まれた独占欲というものから逃げ出してしまったリュクレスを、それでも、とても大切に想っていてくれていると感じてしまえば。
言葉なんて、何も、出てこない。ただ、嬉しさに涙が溢れた。
単純なことなのかもしれない。
リュクレスは繋がれた手をそっと持ち上げて、繊細な雰囲気とは異なる、恋人の優しくも無骨な手に頬を摺り寄せた。先程までの気恥ずかしいような触れ合いとはかけ離れた、たどたどしい触れ合い。しかし、それは確かに愛撫だった。
ヴィルヘルムの瞳が、リュクレスの不安を全部綺麗にぬぐい去る。
…強くなろう。
自分への劣等感が、ヴィルヘルムを信頼しきれない原因になるならば。
どれだけ、自分がちっぽけでも、周りの女性が素敵でも。
リュクレスは、ヴィルヘルムが好きだから。
…諦めることができず、逃げ出してしまったくらい、大好きなのだから。
人の感情は、揺れる。変化する。リュクレスの中の憧憬が、恋に変わったように。
それでも、変わらない想いもあるはずだ。
ヴィルヘルムが、好きだと言ってくれる自分を信じてみよう。
そして、少しだけ、自信を持ってみようかと思う。
二世の誓いを望んでくれるほどに、ヴィルヘルムがその胸に変わらぬ想いを秘めているのならば、リュクレスはただ、一途に彼を想えばいい。
あの日の誓いを思い返して、彼がしたようにその手のひらへと、…そっと口付けた。
「何を、望む?」
ヴィルヘルムはリュクレスの挙動を見守って、目を眇めた。
何かを押さえつけるような声音は、いつもよりも深く、低い。
涙に濡れた双眸で、リュクレスは愛する人を見上げた。
手のひらの口づけが伝えるのは、『懇願』。
リュクレスが望むのは。
「好きです。ヴィルヘルム様だけが、きっと、ずっと、私の特別です。…だから、どうか、何があろうとも、貴方を想うことを許してください」
溢れる想いを伝えたい。
それがたとえ我儘と言われるものであっても、想うことだけは許して欲しい。
男は、その綺麗な顔に、柔らかでとても力強い笑みを浮かべた。
「許すよ。君が想ってくれるなら、私は誰よりも幸せな男になれる。だから、私からも、両手で抱えられないくらいの幸せを君に捧げます。溺れてしまいそうなくらい、たくさんの愛を。君からばかりなんて狡いことはさせない。返品は認めませんから、全部、余すことなく受け取ってくださいね?」
おどけて告げるヴィルヘルムに、リュクレスは破顔した。




