8
「お優しい将軍…。大丈夫ですわ。私が、お相手の方にちゃんとお話を致します。私の願いですもの。必ずや聞いてくださいますわ」
その言葉に、無関心だったヴィルヘルムの中で、初めて彼女への感情が生まれた。
自分の意思が通らないはずがないという根拠のない自信は、彼女の中では当然のもののようだ。
彼女が望めば、相手が、婚約者という立場から辞すると本気で信じている。
欲しいと思ったものは手に入り、選んで欲しいと思えば選ばれた。
それがまかり通って生きてきたのだろう。例外があるなどと思いもしない。
男は表情も変えず、ただ、穏やかに優しく。
けれど、彼女を受け入れはしなかった。
「…例え貴女に先に出会っていたとしても、私は彼女を選びますよ」
ヴィルヘルムの声が硬質さを帯びる。
守られることが、優先されることが当然の姫の傲慢さ。柔らかく、繊細なその姿に、庇護欲を感じることはない。ただ、毒舌を浴びせることもなく、背を向けて去らなかったのは、貴賓として丁寧に扱った手前だ。
愛おしい娘も、こんなふうに守られるだけならば、きっと安全でいられるだろうにと、頭の片隅で思う。
だが、そうであればきっと、心など動かされなかったに違いない。
庇護したいのは、柔らかで繊細なのに、誰かを守る強さを持った野の花だ。
甘いだけの柔らかい姫など、いらない。
「何故ですの?」
本当にわからないようで、公女はとても不可解そうにきょとりと小首をかしげている。
(貴女に、彼女のような価値はないからですよ)
思いを口には出さず、ヴィルヘルムは優雅に微笑んだ。
「私にとって、婚約者は唯一無二のあの娘だけです。誰も代わりにはならないし、彼女以外要らない」
「私は魅力的ではありませんか?」
私のほうが魅力的ではありませんか、と言外に告げる彼女は、控えめなようでいて、諦めというものを知らないらしい。
「貴女の行動は、ひとりの女性をないがしろにする行為であると理解していますか?」
ヴィルヘルムの言葉に、公女は驚いたように首を振った。
「まあ、とんでもないですわ。そんなつもりはありません。その娘が引き下がれば、私と貴方が幸せになるのですもの。その者も幸せに決まっているでしょう?」
ころりと微笑む彼女は、混じりっけのない無邪気さを滲ませて、そう言った。
…嫌悪感に吐き気がする。
とても自己中心的な考え方だ。だが、尚悪いのはそれを全く認識していないことだろう。
自分のその行動が相手を不幸にすることだと、何故、気がつかないのか。
その問いかけが無為であることを、男は冷然と理解していた。
この娘は自分以外の幸せには関心がないのだ。
どれだけ周囲を傷つけようとも、彼女は決してそれを見ようとはしない。
その気がないのだ。
例え目の前に、誰かの不幸があろうとも気に留めすらしないだろう。
ヴィルヘルムにとって、一番、幸せになって欲しくない輩だった。
関わりたくもない。
これほど無意識で無神経な悪意の塊を、リュクレスに近づけたくない。
甘く甘く、彼女の容姿のように甘やかして、人を育てたのであれば、こうも相手の心を無視できる人格が育つのか。
そうでありながら、彼女は自分のことを誠実で、慈悲深いと思い込んでいる。
優しく、慈愛に満ちた存在であると、疑いもしない。
迂遠に断っているつもりはないが、彼女を相手にしていても無駄だと、ヴィルヘルムは悟った。
「自分の魅力を十分に知っておいでならば、その魅力に惹かれるものを選びなさい。私は貴女に魅力を感じません。…どうか、部屋にお戻りを。迎えを寄越します」
言い募ろうとする公女を冷たい一瞥で押し止め、ヴィルヘルムは付いてくることを許さずにその場から離れた。
その足で、彼は別室に待機するフメラシュ公女の護衛騎士のもとへ向かう。
(誤解などという、可愛いものではないな。あれは)
兄であるクラウス公子から、事の成り行きは彼女に伝わったと聞いていた。
会場に入る前の睨みつけるような騎士の瞳。彼の言動からもそれは確かだ。
…だが、公女のあの恋する眼差しは、傲慢なほどの自信にあふれ、どこを探しても失恋の傷など見当たらない。
彼女を見て、ヴィルヘルムの中に沸き上がったのは危機感だけだっだ。
公女は、将軍に婚約者が居ようとも、諦める気などない。未だに求婚者のつもりであり、いやそれどころか恋人でも見るかのようなあの眼差しには、己が選ばれないという不安はどこにもない。
あれはリュクレスを虐げるだろう。
それが、ヴィルヘルムをひどく不快にさせる。
晩餐の場で聞いた甘やかな声に、そう言えば甘いものは好きではないのだと、男は唐突に思い出した。




